終章 其之一 総大将、相模屋武兵衛
終章 総大将、相模屋武兵衛
一
官軍は上野山から彰義隊を追い出せば、江戸の人びとが服従すると考えていた。
だが、真反対の結果を生んだ。
「勝てば官軍たぁ、よく言ったものだ。勝つためには、どんな汚え手も使う、卑怯者。それが官軍様だぁな」
聊頼していた彰義隊を、会津軍を装った卑劣な謀略で敗退せしめ、寛永寺を焼いた官軍を、江戸の人びとは許さず、むしろ憎しみを強くした。
更に、見せしめに上野山内の彰義隊士の遺骸を放置した件でも、嫌忌を招いた。
五月二十四日、徳川家への処分が決まった。
徳川家達を駿河に封じ、遠江、陸奥の地を併せて、七十万石と定められた。
四百万石からの厳しい減封に、恭順を申し出た者への残酷な仕打ちに、町人ですら、呆れ果てた。
大総督府は、慌てた。不満を抑え込もうと、六月七日に新聞の発行を禁止した。
これにより、江戸の人びとの耳目であった〈江湖新聞〉や〈中外新聞〉が廃刊に追い込まれた。
江戸の人びとは、重要な耳目を奪われた。
だが、判じ絵は禁止にならなかったので、むしろ人気が増して、次々に摺られていった。
奥州盟約への期待は、錦絵の中で、童や忠臣蔵の義士の姿を借りながら、膨らむばかりである。
「お香や、脚が痛いのだよ、擦っておくれでないか」
二階からお梅の呼ぶ声が聞こえた。長火鉢の傍で、煙草を喫っていた武兵衛はぼやいた。
「お香、お香って。付女中のお瀧がいるってえのに」
すると、お艶がお香を連れて、店の外から戻ってきた。
「なんだ、他行していたのかえ」
お艶は「なんだい、それだけかい」と突っかかってくる。
「……今、二階の義理母さんがお香を呼んでいたからさ」
お艶はお香に手を貸して、ゆっくりと履物を脱いで、上がり框へ脚をかけた。
「お香がやたら梅干を食べるから、気になってね。わっちがぽん太の時に世話になった、医者に診てもらって来たんだけど。……年の瀬か、正月には生まれるって」
あまりにも、さらっと言うから、武兵衛は、最初こそよく分かっていなかったが。
「……ええ。それって駒蔵の子が腹の中にいるってことか」
煙管を落としそうになりながら、尋ねた。
「他に誰の子がいるっていうんだよ。慌てて、頭の中が混乱しているのかえ」
武兵衛は、立ち上がって、お香を見た。お香は恥ずかしそうに俯いている。
「そうか。……躰を大切にして、丈夫な子を産むんだぜ。お香坊」
ちらと顔を上げて、唇を読み取ったお香は、照れながら、頷いた。
台所から、お須磨が糠漬けの御香香とお茶を運んで来た。上野戦争が終わった時分から起きられるようになり、今では相模屋で下女として働いていた。
「お須磨さん、聞いたかえ……。お香が身籠もったそうだぜ」
お須磨は嬉しそうに、涙を拭くと「今、聞こえまして。……お香ちゃん、ありがとうね」とこたえた。
「お香や、脚が痛いよう。擦っておくれよ……」
二階から、再び、お梅の声がした。お艶がお香に、内容を伝えた。
お香が急いで階段上がろうとするので、武兵衛もお艶も、お須磨も「転んだら大変」「ゆっくりでいいぜ」「慌てなくていいから」と同時に叫んだ。
三人は顔を見合わせて、笑い合った。
改めて、お須磨は、長火鉢の傍にいる武兵衛の前に、お茶と御香香を置いた。
「胡瓜と茄子です。お口に合うと良いのですけど。夜の御汁は茗荷にするつもりです」
お須磨は、夫が病死するまで煮売屋を営んでいたため、料理の腕前は確かだった。
料理が不得手なお艶の代わりに、台所を仕切るようになり、今では、相模屋の胃の腑を支えるようになっていた。
武兵衛は、すぐに茄子の漬物を口に入れた。程よい塩気と酸味がたまらない。
「お須磨さんの漬物は、本当に美味え。……それから、お香のこと、好かったな」
嬉しそうに、お須磨は微笑んだ。
「はい。こんなに早く初孫を抱けるだなんて、嬉しくて堪りません。……駒蔵の分もうんと可愛がって、お香と一緒に育てていくつもりです」
年寄同心の遠藤定三郎がやって来た。小上がりへ腰掛けたので、煙草盆を用意する。
「お珍しいじゃござんせんか。ええと、今は、北の市政裁判所の臨時廻りでしたっけ」
「ああ、そうだ。……あれも一生、これも一生、こいつは宗旨を変えざあなるめえ、ってな。へへへ」
鋳掛松の台詞を呟いて、定三郎は二君に仕えている己を茶化した。
五月二十二日、東征大総督熾仁親王は、江戸鎮臺府を置き、それまで江戸の取締りにあたってきた町奉行、寺社奉行、勘定奉行を廃止。
市政裁判所、寺社裁判所、民政裁判所を新たに設けた。
但し、名称が代わっただけで、各奉行所の者が、仕事を行っている。
「六月四日に名主衆へ申し渡されたが、辻番や自身番、木戸番が廃止になる。その後、どうするのか決まっていねえから、辻斬りや強盗に気をつけるよう、魚河岸衆に伝えてくれ」
武兵衛は開いた口が塞がらなかった。官軍は市中の取締も口ばかりで何もしていない。
「木戸を閉めなくなったら、夜盗が跋扈し放題じゃねえか。馬鹿なのか、奴等は。……いってえ、官軍は江戸をどうしてえんだよ。いつになったら、上方へ帰ってくれるんだ」
煙草を喫いながら、定三郎は難しい顔をしながら、小声になった。
「……小耳に挟んだのだが、京の天子様ってのが、江戸に来るらしい」
「京屋の金公が。へえ、敵地の江戸へ遊山に参るなんて、酔狂なお人でござんすねえ」
「すぐ帰るか、そのまま居続けるか――は、上のほうでも、まだ決めていねえってさ」
武兵衛は顔を顰め「居続けなんて、新吉原だけにしておくなんさいよ」とぼやいた。
「彰義隊の残党だが。官兵にバレねえように巧く匿えや」と煙管を仕舞いながら、呟いた。
相模屋では、今までに四人の隊士を匿った。
魚河岸では五十人に及んだ。他の肴問屋衆が匿っている隊士と共に小船に乗せて、夜明け前に品川沖の開陽へ送り届けている。
上野宮も榎本釜次郎を頼り、長鯨丸にて、五月二十八日に常磐の平潟へ上陸したと聞く。
「……もう一つ。とある官兵が、短けえ柄の鳶口を遣う町人を探している。気を付けろよ」
定三郎は、立ち上がると、夏の羽織の袖をひらひらさせながら、相模屋を出て行った。
「面白れえじゃねえか。……どうやら俺は町人でありながら、仇持ちになったらしい」
全く恐ろしさはない。むしろ、対峙する日が楽しみですら、あった。
――俺に向かってくる錦裂は、全部、駒蔵の仇だ。返り討ちにしてやらぁ。
その後、六月十五日に、奥州にて上野宮様は東武皇帝となり、大政と改元したとの噂が流れた。
新聞がなくなったので、確証はなく、あくまでも噂止まりである。
江戸の人びとは、そっと喜んだ。践祚の次は、天兵が江戸を官軍から奪還に来るはずだから。その日を一日千秋の想いで待っていた。
そうした空気のなか、武兵衛が一つ気懸かりなのは、小田井蔵太の消息が分からないことだった。
――恐らく、宮様か、覚王院様の傍にいる……はずだと、信じてえんだが……。
伊左衛門が得意先から戻って来た。数は少なくなったが、旗本屋敷からの注文は、それなりに入る。
「聞きましたか、旦那様。両国の川開きをやるって。文久三年以来のことですよ」
「八日にやるそうだな。錦裂も江戸市民の機嫌を取ろうと躍起になってやがる。でも花火の費用のほうは、大川沿いの船宿や料理茶屋が出すんだとさ。鎮臺府って奴は口ばっかりの吝嗇野郎だ」
とはいえ、五年ぶりの両国の川開きは賑やかに行われ、江戸の人びとも心から楽しんだ。




