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其之十

      十


 抜け道を下ると、根岸に出た。辺り一面が田畑であった。そこから、金杉を経て、新吉原(なか)まで(あぜ)(みち)を進んだ。

 

 だが、官兵の姿は、まだ見当たらなかった。()()までは手が回っていないらしい。


 途中で、ひょいと町人姿の高梨藏三郎が現れた。


()(とも)(つかまつ)る」と一揖(いちゆう)して、蔵太の後を()いてきた。


 新吉原(なか)の大門を潜ると、下山が早かったのか、本覚院詰の土肥庄次郎が待っていた。


「弟を、第一赤隊の隊長、土肥八十(やそ)(さぶ)(ろう)を見ませんでしたか。(さん)(のう)(だい)を守っていたはずですが」


 蔵太は「彰義隊は解散したので、行方は知らぬ」とすぐに応えた。


 庄次郎は(うな)()れて、黙った。稲本屋庄三郎がやって来て、蔵太に着替えを勧めた。


「浅草は(キン)(キレ)彷徨(うろつ)いており、危のうございます。何でも、三日間は海浜出船を禁ずとのことですが、まだ(さん)()(ぼり)(やつ)()の姿は、ありません。急いだほうが、ようございます」


 武兵衛は義勇軍の(はん)(てん)を裏返しにした。すると、有り触れた町人の袢纏となった。


「浅草へは俺が行って、田原町の〈()()()〉から御使者を連れて参ります。その間に、着替えて待っていておくなさい」


「そんなことは頼めぬ。……一緒に」


「稲本楼の旦那の申す通りなら、浅草に蔵太様は行かねえほうがいい。こういう時こそ、町人の俺の出番ですぜ」


 言い終わらないうちに、手に鳶口を持って、走り出した。


 大門を出て、()(ほん)(づつみ)をちょいと行くと右に曲がり、編笠茶屋が軒を連ねる浅草田町二丁目の道を走った。そのまま、浅草寺裏の行き止まりまで進んで、浅草寺の塀伝いに真っ直ぐ行けば、もう田原町である。


 途中、東本願寺の脇を通ると、官兵が彷徨(うろつ)いていた。


 彰義隊の屯所は(すで)に落ちたのだろう。


 鳶口を持った手を袖の中に隠しながら、何食わぬ顔で官兵の前を通り過ぎた。


 ――躰が大きいのと、首から彫物(ガマン)が見えてるからな。ビビって誰も寄って来ねえや。


 浅草寺の広小路へ曲がると、三遊亭圓朝が弟子も連れず、とぼとぼと歩いていた。


 武兵衛は、心配になって、声を懸けた。


「師匠、危ねえじゃござんせんか。住まいは浅草裏門代地でしょ。ずっと遠くでしょうに」


「昼席に出ていた圓太郎や小圓太がまだ戻らねえ。戦争見物なんぞに行ってねえといいが」


 上野で戦争をやっていたのに、寄席は休んでなかったのか――と武兵衛は呆れた。


「まあ、あの二人なら大丈夫でさァ。(けん)(のん)ですから、師匠は家に帰ったほうが良いですよ」


 圓朝が「そうだね」と不安顔のまま、家へ戻って行った。


 その姿を確かめてから、田原町の貸座敷〈伊呂波〉に向かった。


 格子戸を開けて、武兵衛は、勢い良く、声を出した。


「仙台からの御使者を迎えに上がりました。小田井蔵太様の(つか)いの者でござんす」


「そんな話は聞いておりませんけれど……」


 入口で女将(おかみ)に怪しまれたので、武兵衛は「勝」と彰義隊の合語を口にした。


 すると、女将の後ろの部屋の唐紙が開いて、春日左衛門と毛利秀吉が顔を見せた。


「花――。おお、武兵衛。無事であったか。御頭も無事なんだな」


 少し呂律が回っていない。左衛門からは、かなりきつめの酒の匂いがした。


「左衛門様、秀吉様も、よくぞ御無事で。へえ、蔵太様は新吉原におりまして、御令旨をお持ちです。俺は小松様をお連れするため、参上した次第でござんす……」


 秀吉が「俺は御使者の護衛役だ。新吉原へ送っていく」と何かを取りに行った。


物音で気づいたのか、すぐに小松龍蔵が二階から下りてきた。張り詰めた顔をしている。


其方(そのほう)は、本陣にいた町人だな。小田井殿と親しげであった。(よろ)しく、頼む」


 秀吉が愛用の鉄扇を手にして戻ってきた。武兵衛は(いさ)めた。


(キン)(キレ)彷徨(うろつ)いております。陣羽織は風呂敷にお仕舞い下さい。できれば御刀も隠し、町人風体の身拵(みごしら)えを」


 秀吉は不服そうな顔になる。龍蔵は旅装だったので、刀を背中に隠し、紐で縛った。


 酔っている左衛門が「武兵衛、御頭を任せたぞ」と明るく話し懸けてきた。


「左衛門様は、どうなさるんで。……良かったら、一緒に新吉原(なか)へ参りませんかえ」


「いや、俺は(ほとぼ)りが冷めるまで動かぬ。頃合いを見て、大隅守殿と落ち合うつもりだ」


 秀吉は陣羽織を脱いで、女将が用意した(ちよう)(ばん)(てん)を着た。刀は長袢纏の中に隠す。


 すると、二階から駆け下りてくる女がいた。見知った顔である。


 (まん)(きち)であった。瞳に涙を溜めている。


「秀吉様、行って仕舞われるのですね。少ないですが持っていって下さいまし……」


 萬吉は膨らんだ財布を渡す。「(かたじけな)い」と秀吉は受け取った。


 武兵衛は呆然とその光景を見ていた。


 ――おいおい、いつの間に、二人はできあがってやがったんだ……。


 今度は、女将が桐油合羽を持って来て、秀吉に優しく着せる。


 まさに、両手に花。やっぱり綺麗な男は得だな、と腹が立った。


「合羽を着れば、誰が誰だか分からなくなります。……いつでも戻って下さいましね」


 未練たっぷりに、二人の女に送り出され、秀吉は武兵衛、龍蔵と〈伊呂波〉を後にした。


「ったく、色男め。いつから萬吉と。()(いな)花魁(おいらん)(おんな)()りたんじゃねえんですかえ」


 武兵衛は振られた恨みを秀吉にぶつけた。相手は事もなげに、言い放った。


「……萬吉か。俺が詰めていた下谷の屯所に、差しいれを持って、幾度も訪ねてくれてな。それから(こん)()になった」


「ハァ、畜生めッ。小稲に萬吉……。顔が綺麗な男は()てて羨ましいやァ」


「悪いが、俺は自分の顔が嫌いだ。女みたいだと馬鹿にされ、揶揄(からか)われてばかりだ。もっと武兵衛のように、(おとこ)らしい()()った顔に生まれたかった」


 ――なるほど、(しよ)(せん)……人ってやつは、自分にねえものを欲しがる生き物らしい。


 妙に腑に落ちた。すると、萬吉への仄かな恋慕が薄まっていく。潮時が来たらしい。


「俺には可愛いお艶がいるんだ。欲張ったら、(バチ)が当たるってもんだぜ、なァ」


 夕暮れとなり、外へ出ると薄闇に包まれていた。


 雨は止むことを忘れてしまったかのように、降り続いている。


 武兵衛は来た道を戻ろうと浅草寺の脇道へ入った。


「おい、待て。わいたち、(あや)しかね。(ツラ)を見せッ」


 西国の言葉。(キン)(キレ)か。武兵衛は「お二人共、先へ」と叫ぶと、振り返った。


 塀の前に立っていた官兵に向かって、残り一本の短い鳶口を投げつける。


 ブン、と勢い良く回転すると、銃を構えようとした右袖に引っ掛かり、塀に刺さった。


官兵が動けなくなった姿を確かめると、泥濘(ぬかる)んだ道を急いで逃げた。


「良い腕前をしているな。見直したぞ」と秀吉が褒める声も耳に入らないほどに走る。


 雨の中、浅草寺の裏まで来ると、もう人影はなく、ようやく人心地が着いた。


 新吉原の大門を潜ったら、小田井蔵太が旅の商人の姿になって待っていた。


 時を図ったかのように、甚兵衛は懐から四通の(おう)(らい)()(がた)を取り出した。


「万が一の情勢を考慮に入れ、名主さんに(したた)めて置いてもらったものです。商人用が二通、旅芸人、職人が一通ずつ。小田井様と小松様は同業が良いので、商人の手形を……」


 秀吉は「俺はまだ江戸にいる」と手形を断った。


 武兵衛は、弟が行き方知れずになって落ち込んでいる庄次郎へ、声を懸けた。


(たい)芸者(こもち)だったんだから、旅芸人の手形がよろしいんじゃござんせんか」


 庄次郎は涙を流し始めると、いきなり蔵太に向かって叩頭した。


「御頭様、俺を斬って下せえ。本覚院詰で山王臺の傍にいたのに、下山せよとの声をこれ幸いに、弟の生死も確かめず、女郎(じようろ)(あい)(ざと)に逢いたくて、新吉原に駆け込みましたッ」


「自分の行いが恥ずかしいと思うなら、生きて、戦って、誇りを挽回せよ」


 蔵太は旅芸人の手形を庄次郎の手に握らせた。庄次郎は涙を拭きながら、頷いた。


「俺は必ず、奥州へ向かいます。宮様と一緒に、今度こそ戦うと誓いますッ」


 すると、留吉ほか義勇軍衆が次々に、彰義隊士を連れて、到着し始めた。


「武兵衛の兄ィ、(キン)(キレ)の奴等が天王寺から根岸のほうへ出張(でば)って来た。急がねえと」


 聞いていた藏三郎は「()()でお別れです」と蔵太に一揖した。


「隊士を救いに向かいます。あの辺りの(けもの)(みち)には詳しいので」


「随分と世話になった。……隊士を頼んだ。だが、気を付けるのだぞ」


 と蔵太が応えると、藏三郎は根岸のほうへ戻って行った。


 武兵衛は、隊士を助けに行く藏三郎の背中へ、大きく頭を下げて見送った。


 新吉原の男衆や()()きの女郎、女芸者は、やって来た隊士衆を喜んで迎えた。酒や(にぎり)(めし)を振る舞い、衣装を替えるためにと、手順良く、番屋へ案内していく。


「湯も()いてございます。……雨に濡れた()(からだ)を温める方はこちらへ」


 風呂のほうも人気で、そちらも混んでいた。


 猿若町から、中村座の座元の(かん)(ざぶ)(ろう)(かわ)()(さき)(ごん)(じゆう)(ろう)が顔を見せて、隊士に声を懸けた。


「芝居小屋でも(かくま)えますから。猿若町は近いので、歩ける方はどうぞお急ぎなすって」


 権十郎はその間も、つぶさに隊士衆の顔や動きを見詰めていた。武兵衛が怪しむと、笑い出した。


「芝居のためです。戦って来たお武家様の様子を拝める機会なんざ、(めつ)()にねえから」


「ほう。前から、(じつ)(そう)に近い、新しい芝居をやりてえと、口にしなすってただけあるや」


「俺の実父(オヤジ)(ほん)(もの)の鎧で舞台に出ただけで御番所に(とが)められ、江戸(かまえ)(追放)になった。……はっきり言って徳川の世が消えて(せい)(せい)しているよ。やっと(しん)(ぶつ)の芝居ができるって」


――嗚呼、これだ。勝安房守様が言ってた、御公儀(おかみ)が消えて、今こそ、自分で選んで生きていける、誰にも縛られねえ世の中が来ようとしている……ってやつだ。


 武兵衛は、また考え込みそうになったが、我に返った。今は、差し迫った、やるべき役目がある。


 龍蔵が商人風の身拵えに変わった姿を確かめると、蔵太と共に、山谷堀へ案内した。


 雨は、まだ止まない。秀吉は護衛として、甚兵衛は見送りのために()いて来た。


 もう間もなく七ツ(午後五時前)になろうとしており、厚い雨雲のせいで(どん)よりと暗い。


 大門を出て日本堤を行けば、山谷堀は直ぐである。手筈通り、(ちよ)()(ぶね)が待っていた。


「出船の取締がこっちまで及ぼうとしております。急いで舟を出しやしょう」


 船頭が手を振って、急かした。蔵太と龍蔵が草鞋(わらじ)を脱いで、乗り込む。


 甚兵衛は「魚河岸(がち)(ぎよう)()(しゆう)からの餞別です」と五十両を渡した。蔵太は一礼した。


「魚河岸衆には様々に世話になった。……必ず、この恩に報いたいと存ずる」


「蔵太様……。江戸の衆は、奥州から大軍でお戻りになる日を、一日千秋の想いで、お待ちしております」


 甚兵衛は礼を尽くして頭を下げた。武兵衛も頭を下げる。見ていた龍蔵は涙を浮かべた。


()(よう)(たい)(ぼう)されているとは。我が主君は、王政復古などという(よこしま)な企みにより(ゆが)められた天下の正義を、必ずや、取り戻さんと(おつしや)った。そのためにも荘内や会津の汚名を(そそ)ぎ、新たな天子様と共に賊徒を倒すでしょう。江戸の皆様……その時まで耐えて下され」


 猪牙舟は船着から離れて行く。互いに手を振り合った。武兵衛は叫んだ。


「蔵太様、待っておりますからッ。必ず、戻って下せえ。八郎様と再会して下さいまし」


「ああ、少しでも早く戻って参る。それまで、どうか無事でいてくれ」


 見る見るうちに舟が遠くなっていくなか、蔵太は涙を堪えながら、不意に口を開いた。


「宮様は(せん)()なされて、(とう)()(てい)と称されるだろう。元号は延壽(えんじゆ)(たい)(せい)――のどちらかだ」


 武兵衛は涙が溢れて、止まらなくなった。だが、頬に当たる雨粒に涙が溶けていく。


 そのうちにも、猪牙舟はどんどん、遠くに離れて行った。


()()りじゃねえって分かっているのに。大好きな蔵太様と離れるのが……辛れえよ」


 ――生まれて初めてできた、武家の朋友だもの……。再会が待ち遠しいや。


 甚兵衛は泣くのを耐えながら、頷いた。


 少し離れた岸辺から、秀吉も見送っていた。


「おい……。先ほどの御頭の践祚の話だが。正式に決まるまで、他言するなよ」


「もちろんですぜ。……俺っちが今、江戸中に広めなくちゃならねえのは、錦裂がどんなに汚え手段で彰義隊を敗北に追い込んだか、って話だ。偽会津軍の話は、明日には江戸の全ての人が知っているように撒散(まきち)らす。錦裂なぞ、(おもて)を歩けねえようにしてやるぜ」


(あだ)は必ず返す。流石は江戸っ子だな」という秀吉の言葉を、甚兵衛は一つだけ正した。


「秀吉様……。日本橋魚河岸では江戸っ子なんて野暮な言葉は、使いません。なぜなら、江戸っ子を流行らせたのは、魚河岸衆だからです。我等は、自らを江戸者と申します」


 秀吉は「そうか。覚えておこう」と微笑むと、そのままふらりと、消えて行った。


 改めて、武兵衛が振り返ると、もう蔵太を乗せた猪牙舟は見えなくなっていた。


 雨に(けぶ)る隅田川は船止めで船の姿もほとんど見えず、(みず)(かさ)の増した茶色の川水は、(とう)(とう)と南に流れ続けた。

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