其之九
九
御本坊は、重厚なる塀で囲まれていた。
堅牢な御門は、彰義隊が固く守っており、易々と敵に破られはしない。
蔵太や大隅守、本陣詰めの隊士、義勇軍衆も無事に御本坊内に辿り着いた。
建物はどれも頑健に造られており、比叡山延暦寺を凌ぐ、日本一の大寺院の中枢であることを知らしめるに、十分であった。
すると、壮麗なる玄関に、覚王院が供も連れずに立っていた。
「塀の外を窺い知ることはできぬ。だが、目前の黒煙を見る限り、退敗したようだな」
大隅守は「よもや錦裂共が寛永寺に火を放つとは」と覚王院の前で深く頭を垂れた。
「彰義隊は天に恥じぬ公明正大な戦いをしとうございました。無念の一言に尽きまする」
「賊徒は所詮、卑賤の集まりにて、武士に非ず。彰義隊は清廉なる武士の魂を最後まで捨てず、よく戦い抜いた。悔いるよりも誇りを忘れず、宮様を遵奉し、前へと進まれよ」
大隅守の隣には、蔵太もやって来た。
「覚王院様も宮様を追って、早く山を下りて下さい。御本坊も、いつまで保つか……」
「拙僧は宮様の御供はせず、会津へ遣いに参るつもりだ。もう支度は整っている」
すると、続々と隊士が御本坊へ入ってくる。覚王院は静かに奥へと去った。
武兵衛と甚兵衛は、魚河岸義勇軍二十人に、号令した。
「下山される隊士の方々を例の処へ案内するぞッ。従いて来い」
武兵衛は続けて「蔵太様も」と声を懸けた。大隅守は「暫し、待て」と蔵太を制した。
「俺は手勢と共に、仙台を目指す。御使者のこと、くれぐれも頼んだぞ」
「短い間とはいえ、御頭として御存分に忠義を尽くされた。御立派にございました」
「立派ではない。……先ほど、甚兵衛に下山を促された時、もう少し敵兵の威勢を削がん、と粘った結果がこれだ。指揮の才はない。蔵太殿こそ、不慣れな俺をよく導いてくれた。……御主こそ、真の彰義隊頭であった」
「左様なことはございません。下山の判断は、二人で行ったのです。拙者も、不熟な頭でした」
蔵太と大隅守は、そこで黙ると、暫し見詰め合った。
その後、互いに「ご機嫌よう」と言葉を懸け合って別れた。
独りになった蔵太は、御本坊へ集まってきた隊士へ呼び懸けた。
「隊士諸兄。これまで、よく戦われた。小田井蔵太、心より御礼を申し上げる。彰義隊は一旦、此処で解散とする。だが、戦いは始まったばかりだ。宮様と共に奥州へ行く者、奥州軍の到来を待って関東に残る者、違う場所ながら、それぞれの地で戦い続けて参ろう」
手負いの隊士も多く、疲れ切っていて、声は出せず、ただ頷くだけであった。
代わって、武兵衛は、大きな声で、隊士へ呼び懸けた。
「新吉原へ行けば衣装を替える用意があり、山谷堀から千住へ船でお送りします。また、品川沖の海軍の御軍艦へお送りする手筈も、整っておりますんで」
隊士の一人が「そのまま軍艦で奥州まで送ってくれるのかね」と尋ねてきた。
「もちろんです。更に、品川に逗留している御軍艦に匿うこともできると、榎本副総裁様から伺っておりやす」
疲れた顔をしていたが、隊士は、武兵衛の言葉を聞くと、一様に安堵の表情が浮かんだ。
「御軍艦なら官軍も手は出せぬ……。残党狩りに捕まらずに済むな。助かる――」
「今すぐ決めなくても、魚河岸に来て頂ければ、いつでも御軍艦へ送り届けますから」
甚兵衛が「動ける方々は魚河岸義勇軍が案内します。奥庭へいらっしゃって下さい」と続けた。蔵太も歩き出したので、武兵衛以下、義勇軍衆は御本坊の奥へと進んだ。
御本坊は、既に重鎮の坊官は下山した後らしく、残った諸僧による読経が響き渡っている。
上野宮の家司の伴因幡守と御用人の豊島伊勢守が、蔵太を見つけると、駆け寄って来た。
「宮様を何処へ隠した。我等は何も聞かされておらなかったばかりか、置いて行かれたぞ」
「官軍に通じておられる方々に、宮様の御傍に仕える坊官が、行く先を告げるとお思いか」
蔵太は二人を見下ろすと、冷たく遇った。伴因幡守は顔を紅くして、反論した。
「お前たちこそ、宮様を朝敵にせんと謀った、獅子身中の虫であろうが」
「官兵が間もなく此処へ踏み込んでくる。殺される前に、お二人も速くお逃げなさい」
御本坊の門のほうで喊声が上がった。武兵衛は「参りやしょう」と蔵太を促した。
義勇軍衆と蔵太は、共に御隠殿へと向かった。
御本坊の奥には御霊廟があり、火消衆が守っている。中堂から黒煙が上がっても、微動だにせず、雨の中、粛粛と警衛を続けていた。
御隠殿は御霊廟の先にあり、地名で言えば、根岸にあたる。それにしても随分と走った。
やっと、御隠殿の広い庭の奥まで、辿り着いた。
「抜け道の印は、御隠殿の庭にある大きな松の木だ。……天海僧正が植えたと聞いている」
言いながら、蔵太は探す。甚兵衛が先に見つけて「あれでは」と大きな松を指し示した。
松の木の後ろへ回ると、草木が垣根の役割をしていた。わざと伸ばし放題になっている大きな葉を掻き分けると、細い下り坂があった。
武兵衛は魚河岸義勇軍へ振り返った。
「此処が抜け道だ。俺と甚兵衛さんは蔵太様を案内する。お前らは、御本坊へ戻り、隊士の方々を此方まで導け。新吉原まで行きたい御方がいれば、そのままお連れするんだ」
留吉を含む二十人は「合点承知」と応えた。
武兵衛は「頼んだぜ」と声を懸けると、甚兵衛と先導を務め、蔵太と共に寛永寺から脱出した。




