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其之八

       八


「新黒門にて防戦に努めてきた歩兵隊大砲隊、(あさひ)隊、ついに支えきれず、後退しましたッ」


 報告がある度に、絵図の上の碁石が、見るみる黒一色に変わっていく。甚兵衛は息を吐いた。


「新黒門が破られたとすると、黒門も()(はや)……。()()らが下山時だ」


 聞こえた武兵衛は、急いで、義勇軍二十人の詰所へ向かった。


 花札が畳の上で散らかっている。だが、義勇軍衆も外の異変を感じたのか、神妙な面持ちで、武兵衛の指図を待ち構えていた。


「そろそろ、俺っちの出番が来たようだ。宮様がお立ち退きになったら、御本坊で待ち、やって来た隊士衆をその奥の御隠(ごいん)殿(でん)(うら)の抜け道から新吉原(なか)まで案内する。それが役目だ」


 留吉が「抜け道なんて、あるんでござんすかえ」と首を傾げた。


「御隠殿の庭にあるんだとさ。蔵太様によると、寛永寺創建の折に、天海僧正が作ったものだそうだ」


 義勇軍衆は「合点承知」と頷いた。新吉原の周辺はいつも遊び歩いているから詳しい。


「じゃ、支度をして待っていろ。(じき)に呼びに来るから」


 武兵衛が御用部屋へ戻ると、大隅守も御本坊から戻っていた。


「宮様は、浄門院と常応院のみ御供として、奥庭から裏門通りに出られた。榊原鍵吉と湯屋の主人の越前屋佐兵衛が、交互に宮様を背負って行くそうだ。我等も散隊するよう――」


 言い終わる前に、伝令が「黒門口が破られましたッ」と叫びながら、走ってきた。


「阿部殿の隊、山王の上に孤立。卍隊と臥龍隊が黒門口を破られじ、と()()()(さん)に敵へ打ち掛かったのですが、多くの敵兵が殺到し、応戦した頭並の酒井幸輔殿、戦死。黒門の番小屋は負傷者で溢れ返っております。また、文殊楼前の神木隊が撤兵。……敵の勢いを抑えられません。応戦中の春日左衛門殿より、御指図を、と……」


 中堂では偽援軍の細川軍と本陣詰めが戦っていた。そこへ新たな敵兵が黒門から押し寄せれば、彰義隊は、逃げ道すら失う。


 大隅守と蔵太は目配せした。蔵太が伝令に命じる。


彰義隊(われら)は寒松院を捨てる。直ちに散隊し、御本坊へ逃げ込めと、皆に伝えよ」


 伝令が外へ走って行く。大隅守は悔し涙を浮かべ、唇をぐっと噛んだ。


「偽の会津軍を仕立てるような、卑怯千万な賊徒に敗れたなどと、東照神君にどうやって顔向けできよう。御神號の旗が、天下を(わたくし)したいだけの邪悪な兵に()(にじ)られるなど、有ってはならぬことだ。……正義は何処へ消え去ってしまったのだろうか」


「正義は、まだ消えておりません。仙台で宮様が()(せん)()遊ばされ、盟主となるのですから」


 蔵太の力強い言葉に、大隅守は涙を拭いて「無様な姿を見せた」と謝った。


 そこへ、天野八郎がやって来た。


 全身ずぶ濡れで、先ほど見た時よりも、血と硝煙の煤により全身が赤黒い。だが、怪我はないらしく、足許もしっかりしていた。


「官軍が中堂を突破し、御本坊まで押し寄せる勢いだ。少し前に竹林僧正と宮様が手を取り合い、落ち延びて行かれるお姿をお見掛け致し、……心中で百拝してお別れした」


 八郎は近寄って来ると、いきなり、蔵太の胸倉を掴んだ。


「御頭の二人は()()で何をしている。とっとと宮様を追って、奥州へ行け」


 蔵太の横に立っていた大隅守が、首をゆっくりと横に振った。


(かしら)となって日が浅いとはいえ、奮闘しておる兵を残して、自分だけ先に行けるか」


「馬鹿を言うな。(まこと)の戦いはこれから始まるんだぞ。……敵の汚え策にハマっちまったんだ。仕様がねえさ。()()はもう捨てだ。御頭は先に行って、追ってくる隊士を導びけッ」


 蔵太が驚いた顔で、八郎を凝視した。


「お前も一緒に行くんだろう。……まるで、残るような言い草は、やめろ」


「俺は殿(しんがり)を務める。先刻(さつき)(かた)、黒門口を破られ、敵兵が中堂まで迫った時、隊士が(ひる)んだ。俺は馬上から兵を()()せんと『()()を去って何処(いずこ)に生を欲せんとするや。(すみやか)に死を(いさぎよ)くせよ』と叫んだ。(がら)にもねえや、軍記物の英雄気取りだ。だが、俺の一声で大久保紀伊守殿は東照宮の御神旗を掲げると、(まつ)(さき)に敵へ突っ込んで行った……」

 

 八郎は涙を流し、唇を(かす)かに震わせた。


「大久保殿は、額を撃ち抜かれ、御本坊の門番所まで運んだが、虫の息だった。もう間もなく死ぬだろう。俺はインチキ旗本の(くせ)しやがって、(おお)()(つけ)まで務めた本物の旗本を殺したんだ。『死を潔くせよ』とも口にした。俺が山から下りることは許されやしねえ」


 聞いていた武兵衛も、涙が止まらなかった。すると、大隅守が八郎の肩に手を置いた。


「死んだ者は戻らぬ。だが、屍となった者の魂を耀かせるかどうかは、生き残った者に委ねられている。()()にいる頭二人も、()(ぬし)と同じだ。下山の好機を失し、隊士を大勢、死地に追いやった。だからこそ、死んではならぬ。これからも戦い続けて参るのだ。……分かるな、八郎」


 大隅守の声も涙に濡れている。八郎は(わらべ)のように、小さく何度も頷いた。


「ですが、……俺は山を下りても、奥州には参りません。江戸で再起を図るつもりです」


 蔵太が「共に行くと決めていたではないか」と詰め寄った。


 八郎は蔵太から視線を離し、武兵衛や甚兵衛をじっと見詰めてくる。


「彰義隊がいなくなったら、江戸市民は、どうなる。残虐な官軍の前に、武器もなく投げ出されるのだぞ。……もしも、頭並の天野八郎が御城を奪い返さんと再起を図り、江戸に潜んでいるとなれば、官軍だって冷汗を掻き、俺を探して、市民を(いじ)める暇もなくなろうってもんだ」


 武兵衛は八郎に向かって、叫んだ。


「ありがてえけど、俺っちは大丈夫でさあ。……蔵太様と共に北へ行っておくんなさい」


「彰義隊がどれほど、江戸の人びとに助けられたか。まだ何一つ恩返しできぬうちに、戦争に巻き込んでしまった。今、この戦争のせいで谷中の町が燃えている。(あだ)ばかり与えたまま江戸を去るなど、とてもじゃないが、俺には、できねえんだよ」


 大隅守は頷いたが、蔵太は涙を(こら)えて押し黙った。八郎は真っ直ぐに蔵太を見た。


「承知してくれ、蔵太。……すぐにまた会えるさ。大軍を率いて戻ってくるんだろう」


 外の銃声や(かん)(せい)が大きくなった。敵がじわじわと近付いている。


「俺は戦っている隊士の許へ戻る。二人は巧く抜け出すんだぞ、いいな」


 言い終えると、八郎は、勢い良く本陣を出て行った。


 武兵衛は義勇軍衆を集め、蔵太は本陣に残っている隊士へ「御本坊に退け」と命じた。


「官軍の因州兵が中堂、常行堂や文殊楼等へ火を放っております。一刻も早く、御本坊へ」


 誰かが玄関で叫んだ。皆で、急いで寒松院を出る。大隅守が驚きのあまり、声を震わせた。


()()は日本随一の寛永寺なのだぞ。まさか火を掛けるなどと……」


 武兵衛は目の前にある常行堂を見て、茫然とした。


 一刻前に上がった御堂が、内側から炎を上げて、雨に濡れて(いぶ)る外側の壁を破り、黒煙を上げて燃えている。


 常行堂だけではない。法華堂も同じように燃えていた。官兵が乾いている内側から火を付けて廻っているのだ。


 火の勢いが増せば、二つの御堂を繋ぐ渡り廊も焼け落ちるだろう。


 甚兵衛もまた、火の手が上がった根本中堂を目の当たりにして、振り絞るように叫んだ。


「日本一の()(らん)を燃やす必要が何処にある……。(かつ)て、南都の東大寺や興福寺を焼き討ちした平氏、比叡山延暦寺を焼き払った織田氏に(ひと)しい大罪だ。許されるものではない。……心底、憎くべき悪党だ。官軍や大村益次郎など、(ことごと)く仏罰を喰らって滅ぶがいいッ」


 江戸の人びとが誇りとし、魂の拠り所としてきた寛永寺の伽藍が燃えている。


 本尊の薬師如来像が(すで)に運び出されて、山外に安置されていたのは幸いであった。


(やつ)()は国学を(じゆん)(ぽう)している。神道なんぞを復活させてえんだ。だから、日本随一の仏閣を燃やして潰し、大和(やまと)に始まり、千年続いた仏教の(ぶん)()を消し去ろうとしてやがる……」


 泣きながら呆れたように呟き、脚を止める甚兵衛を、武兵衛は腕を掴んで引っ張った。


「ここは戦場なんだぜ。嘆くのは御本坊に入った後にしろ。()ずは命が大切だ、走れッ」


甚兵衛だけではない。馬を走らせながら、大隅守も、雨の中でさえ(ほのお)を吹き始めた、壮麗な中堂が焼け落ちて行く様を、ただ愕然として見詰めていた。


 蔵太だけは本陣から持ち出したシナイドル銃を馬上から敵に向けて、撃ち込んだ。


 動く馬の上からでさえ、狙った獲物を撃ち殺す。鉄炮玉が尽きると、そのまま進んだ。


 蔵太の腕前を見て、甚兵衛は走りながら「馬上から敵を三人も仕留めるとは」と(かつ)(もく)した。


 武兵衛は自分の手柄のように「凄えだろ」と自慢げに応えながら、(いち)(ちよう)だけ蔵太が馬から落とした銃を拾いながら、そのまま、雨の中を御本坊へと走り抜けた。


 山内にある時鐘が八ツ(午後二時)を知らせていた。


 ()(しき)る雨の中で、官軍に対して、彰義隊と諸隊は激しい戦いを続けていた。




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