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其之七

      七


 明七ツ(午前四時過ぎ)から始まる、正月二日の日本橋魚市場の初売は、江戸の名物だ。


「日に三箱。鼻の上下、(へそ)の下」と言われ、江戸には、一日に千両箱三個分の金が動く場所がある。

 鼻の上(目)は芝居町、下(口)は魚河岸。臍の下は新吉原を示していた。


 もっとも、この数年は地震や疫病、更に英吉利(えげれす)等西洋との新たな交易による品物不足で、景気の落ち込みが続き、日に千両とは行かない。

 だが、この初売だけは格別の日であり、大商(おおあきな)いの一日と決まっていた。


 元旦の夕方から眠っていた店の者は、()の刻(午前零時)前に起き出し、支度を始める。

 松を飾り付けた店の前に定紋付の高張(たかばり)提灯(ちようちん)を掲げ、軒端には屋号を記した長提灯を隙間なく掛けた。およそ四十から五十ぐらいになる。

 この長提灯をどれだけ多く掛けられるか、競う慣わしがあった。どの肴問屋でも工夫して一つでも多くの長提灯を掛けようとする。


相模屋は間口が少し狭いので、どうにか四十五の長提灯を並べた。


 店先には商売物の(ばん)(だい)を屋根に届かんばかりに積み上げる。蔵出しした()()()を並べた板舟の周りには、屋号の入った雪洞(ぼんぼり)を添えていく。


 (あと)は鮮魚を川の生け簀から引きあげ、処理して並べるだけだ。


 提灯や雪洞で、魚市場は夜明け前から、昼のように明るくなる。


 支度が整う頃、武兵衛はすぐ近くの三井呉服店で(あつら)えたばかりの結城紬へ袖を通す。

 汚れる度に着替えることが「繁盛の吉祥」とされているため、数着ほど用意している。


「年に一度の贅沢だ。三井にゃ、いろいろ世話になったから。これぐらいは返さねえと」


お艶は「益々男前だよ」と上機嫌で、羽織を夫の大きな肩へ掛ける。


 すると店の帳場に座っていたお梅が「そりゃあ、わっちの亭主だもの」と呟いた。


 武兵衛はお艶と目を合わせた。今朝のお梅は、死んだ先代と婿養子が頭の中でごっちゃになっているらしい。お艶は小声で囁いた。


「お父っつぁんと、お前さんは躰の大きさも何一つ、似ていないのだけどね」


 だが、その()()、間違いを告げて治るものでもない。義理でも親孝行は、して損はなし。


「それじゃあ、行ってくるぜ。お梅」


 武兵衛は先代に似せて返答した。

 すると、お梅は喜んで「あいよ」と返してくる。


 定紋付の繁骨の提灯を手にすると、魚河岸(かし)衆への年始の挨拶に出掛けて行く。


 ちょうど(いち)(もん)()()()()()()の町から踊り込んで来て、さながら祭りの如き賑わいとなる。包金(おひねり)を遣らぬと、いつまでも店の前で踊り続ける。

 包金を獅子の口に銜えさせると去って行くが、また新しい獅子がやって来る。これが切りなく繰り返された。


武兵衛は両隣の店に挨拶へ行き、互いに手拭を交わした。


「本年もどうぞよろしく」と言い終えると、江戸橋のほうへ歩き、一軒ずつ廻っていく。


 ()()()(とり)(しまり)(やく)()(ぬし)の一人、(むら)(まつ)(げん)(ろく)が、ゆっくりとした足取りでやって来た。

 東日本橋に、源六の先祖が元禄期に起こした村松町がある。

 大物の町名主だが、高齢で脚が悪い。


「源六さん、本年もよろしくお願いいたしやす。……おや、杖を使わねえんで」


 武兵衛は源六が転びそうになる姿を見て、杖を贈った。だが、(がん)として使おうとしない。


「日本橋界隈の道は綺麗に()(きよ)められているから、石も落ちておらん。杖など要らぬよ」


 すると、もう一人の御納屋取締役名主、星野又右衛門も、歩いて来た。こちらも、大物の名主だ。先祖が檜物大工の棟梁として、家康と共に江戸に入った。


 二人とも、由緒ある草創(くさわけ)名主二十九家である。御納屋取締役名主に相応(ふさわ)しい。


 武兵衛は又右衛門に年始の挨拶をしようと「お早いですな」と気さくに声を懸ける。


「初売だもの。楽しみで、眼が醒めてしまった。……こりゃ、源六さんも」


 名主同士も挨拶をする。武兵衛は二人に相模屋の手拭いを渡した。源六が笑顔になった。


「ありがとうよ、武兵衛さん。今年こそは良い年であって欲しいねえ」


(まつた)くだ、と頷いていると、肴問屋衆と次々に道で出会う。


 甚兵衛や佐兵衛とも途中で行き合い、互いに手拭を贈り合った。


 市場の裏にある問屋町もぐるりと巡って、年始の挨拶を済ませると、日本橋通りに出た。

 この通りにも鰹節や海苔を扱う海産物問屋が軒を連ねている。

 魚河岸と同じように、雪洞や提灯で店を飾り、初売が目当ての客が押し寄せ始めて、賑わっていた。


 武兵衛は、日本橋の真ん中へ上ってみた。

 橋の上から、歩いて来た通りへと振り向けば、雪洞や提灯が無数に飾られ、酒樽の山を載せた山車(だし)が練り歩いている。まるで(てん)()(まつり)のようだ。


「あめがした なびきわたりて 君が世の (さか)ゆく江戸を ()る日本橋」


 と日本橋では誰でも知っている、古い一句を呟いた。


 薄らと明けゆく刻限まで、あと少し。


 武兵衛は橋から、千代田城の方角を眺める。

 暗い御城の背後に、富士山。少し斜め右手に、筑波山が見える。東から陽が昇り始めると、山が白々と浮かび上がってきた。武兵衛は静かに、富士山に向かって手を合わせた。


「魚河岸とこの町が、安らかで景気の良い一年となりますように」


 夜明けと共に、江戸中の名のある料理茶屋の主人、買出人(かいだしにん)()()()等の小売の魚商が、新年の挨拶代わりに魚を求めに訪れた。

 付き合いのある肴問屋を廻り歩いているせいか、袖からは、貰った手拭がはみ出ている。


 武兵衛が店へ戻る頃には、魚河岸通りは(まと)()に歩けないほど、人で埋め尽くされていた。


「脚を踏むんじゃねえ」「踏んだのは、てめえだ」と客と仲買人が喧嘩を始めている。


 人いきれと、魚の血と肉の生臭さが混ざり、溶け合っていた。


 ――魚河岸の醍醐味、()()に極まれりだな。俺が江戸の何処(どこ)よりも好きな景色だぜ。


「鯛はもちろんだが、鮪や鮭も貰っておこうか。おもりのおすすめと、山葵(わさび)も頼まぁ」


 買出人が相模屋の板舟の魚を指して、仲買人に(しるし)を点けさせていく。

 買初(かいぞめ)では祝儀代わりに、多く買うのが慣わしだ。

 同じ魚に印が付けば競りが始まる。仲買人はいずれにせよ、売買が成った買出人に、手締めを行う。


 武兵衛は手締めの音を聞きながら、店の奥へ行き、長火鉢を前にして腰掛けた。


 パチパチと(そろ)(ばん)を弾く伊右衛門の指にも勢いがある。肴問屋の主人の仕事は、ほぼ終わった。後は、夕方からの肴問屋衆の新年の寄合まで、ずっと座っていても良い立場である。


 煙管(きせる)を手にしていると、不意に、甚兵衛の「次の将軍はいない」との声が甦った。

 ぼんやりとした不安が腹の底から湧き上がってくる。


「商いを生業(なりわい)にする町人にとっては、平安が何よりだが、そうも言ってられねえのか……」


 当たり前だと思っている日々の暮らしが、突如、消えていった覚えはあった。


 武兵衛の父親は、天保の中頃まで、深川で代々続いた魚の小売りの店を営んでいた。

 それが天保の御改革とやらで深川の花街(かがい)が潰された。


 得意先の料理茶屋を全て失って、父は店を閉じるしかなかった。

 家付き娘の母親は心労が(たた)って、幼い武兵衛を残して、病で死んだ。


 ――本所の長屋で()()()の魚商となった父っつぁんは、俺を育てながら、店を再び持てるようにと身を粉にして働いた。貧しかったが、それなりに幸せだった。


 だが、安政二年の江戸地震で父っつぁんが長屋(ごと)押し潰されて死んで、棒手振の見習いだった俺は、長屋も商売道具も何もかも失って、世間に放り出された。


 傍らに幼馴染みの(ごん)(すけ)がいなかったら、自棄(やけ)を起こし、(ばく)()になっていたかもしれない。


「二度も、俺は見てきた。目の前の幸せがあっけなく失われて行く(さま)を……」


()()()()の店から、手締めの音が聞こえてくる。


 武兵衛は段々に尻がむずむずしてきた。居ても立ってもいられない。煙草を消した。


「金輪際、失くしたりしねえぞ。俺は命を懸けて、この賑わいを守っていくんだ」


 前掛けをして、店先に経つと、(ひい)()の客が武兵衛の姿を見て、押し寄せてきた。


「〈討ち入り武兵衛〉さんが板舟の横に立っていなさるよ。こりゃ縁起がいいや」


 魚を商っていくと、新調したばかりの結城紬が、見る見るうちに、魚の血や鱗に塗れていった。すぐに着替えて、新しい結城紬で店先へ立った。だが、また汚れていく。


 荷物を担いだ使い軽子の駒蔵が通り掛かって、こっそりと武兵衛に耳打ちした。


「旦那ァ、女将さんに見つかる前に、汚れを落としたほうがよろしいですよ」


 武兵衛は早くも袖に付いた(うろこ)を落としながら、大声で笑った。


「新参でもあるめえに。こいつは初売の(なら)いだぜ。新調した着物は、どんどん着替える。板舟の魚がなくなる頃に、よく働いてくれている若い手代衆にくれてやるものなのだよ」


駒蔵は「勿体ねえけど、そいつが魚河岸の粋なのでござんすね」と感心した。


 雪洞や提灯の灯りよりも、陽の光が(まさ)ってくる頃、初売の賑わいは絶頂に達した。


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