第九章其之一 上野兵火
上野の山を数十回巡り、山内の距離感を骨身に染み込ませた上で書いています。
『彰義隊戦史』があまり役に立たず、図書館へ通いました。
新しい史料とも出会うことができたので、上野戦争の実相に少しでも近付いていたら幸いです。
三橋は「みはし」が正しい読み方です。
三つの橋があった辺りに、今では甘味処「みはし」があります。
第九章 上野兵火
一
魚河岸義勇軍が、彰義隊の本陣である寒松院の前まで着くと、開かれた御門を忙しなく隊士が出入りしていた。
だが、表情は明るい。いよいよ決戦が迫ってきたと、誰もが皆、闘志に溢れていた。
――此処はひとつ、俺っちの意気地も披露しなくちゃならねえな……。
息を吸うと、本陣の御門の前で、武兵衛は大きな声を出した。
「日本橋魚河岸義勇軍、参上仕りましたッ」
門番の隊士に木札を見せていると、蔵太が講堂からやって来て、義勇軍を歓迎した。
「今、使いを出そうとしていた処であった。よくぞ、参陣してくれた。忝い」
「蔵太様、酒樽と魚、弁当をお持ちしました。東照宮様へ捧げる分を除いて、残りの魚は当方にて捌きますので、御膳所と庖丁人を、お借りできますかえ」
蔵太の傍で武兵衛の言葉を聞いていた隊士から歓声が上がった。蔵太は直ぐに窘めた。
「浮かれてはいかんぞ。敵は手強い。……だが、腹が減っては戦はできぬ――からな」
厳しいだけではない。軽口も挟んで、場を和ませる。蔵太はそういう御頭である。
「実は、近隣の町衆から米や塩など、様々な兵糧が進物として、届けられておる。勝手な要望だが、鮨など握ってもらえぬだろうか。片手で喰えるので、助かる」
武兵衛は留吉へ「義勇軍参陣の初仕事だ、御膳所で戦ってこい」と励ました。
料理ができる五人が留吉と共に、魚を載せた笊を持ったまま、御膳所へ急いだ。
「甚兵衛、大隅守殿がお待ちだ。……これから軍議が開かれるゆえ、加わってくれ。武兵衛は、塀矢来の調子を、辰五郎と共に調べてくれぬか。清水門におるはずだ」
「合点承知の助でござんす。残っている者共、辰親方の手伝いに行くぞ」
おうっと声を揃えて、桐油合羽のまま、寒松院門前から走り出した。雨は小降りになっている。
本陣の寒松院から清水門は近い。直ぐに、辰五郎とを組の火消衆を見つけた。
「魚河岸衆か。……昨夜、夜陰に紛れて、錦裂がコソコソと谷中辺りを嗅ぎ回っていたと、近くの住人が教えてくれたのだ。だから塀矢来が壊されたりしていねえか、調べている」
「雨の中ですから。辰親方は、本陣へお戻りを。を組の皆さんと俺っちで、やりますぜ」
辰五郎は少しホッとした顔になった。健勝とはいえ、七十近い高齢の身である。
「それじゃ、甘えるとしようか。詳しくは、若頭の友蔵から聞いてくれ」
へえ、と応えると、友蔵が「よろしく」と挨拶してきた。若頭と言っても、五十過ぎだ。
「東側から北は廻りました。残りはこっから黒門口まででござんす。もう、ひと息だ」
これには武兵衛も恐れ入った。
「もう八割方も済ませたのでござんすか。寛永寺は馬鹿でかいというのに……」
「東側は崖なので。平地に塀がある北側から西側までを調べれば良い。この先も崖ですよ」
友蔵は陽気な人だった。武兵衛は参陣で張っていた気が、すうっと落ち着いた。
「それじゃ、ちゃちゃっと、見て廻りましょうぜ」
清水門から先は、若い衆が崖上で塀を叩いたり、触ったりして確かめていった。
武兵衛と友蔵は、塀を外側から確かめながら、崖下の谷中道を不忍池へと歩いた。
有名な料理茶屋の〈雁鍋〉と〈松源〉が見えてくると、黒門は、もう間もなくである。
「どうやら、塀は壊されていねえようだ。まあ、最近、作り直したばかりだからねえ」
友蔵の軽口に笑いながら黒門へ入ろうとすると、下谷広小路を駆けてくる人馬があった。
三橋を渡り、真っ直ぐ、黒門手前まで来ると、馬を下りた。門兵が一斉に銃を構える。
「大目付、山岡鉄太郎なり。大総督府より書翰を持参した。御本坊へ通して頂きたい」
武兵衛は、この人が勝安房守の使いとして駿府に行った「山岡某」か、と気付いた。
門を守っていた彰義隊隊士は、門を開けようとはしない。
鉄太郎は諦めて「では、西御丸へ坊官を遣わすよう、お伝え下され」と隊士に書翰を渡すに止めた。
武兵衛の隣で見ていた友蔵が、笑いながら呟いた。
「彰義隊を解散させようと躍起になっていると聞いたが、驚いたねえ。いつの間にか、大目付にご出世とは。……元は尊王攘夷の志士で、長らく干されていたのに」
辰五郎とを組は、徳川慶喜が最後の公方になる前から信用を得ており、数年の間、在京していた。友蔵もいろいろと政事に詳しいようだ。
「御直参なのに、尊攘志士なんですかえ。はあ、道理で、大総督府の犬ってえ顔してら」
武兵衛は大声を出して、喧嘩を仕掛けた。馬に乗った鉄太郎にジロリと睨まれる。
雨の中、互いに睨み合った。だが、鉄太郎は馬を駆ると、下谷広小路を南へ去った。
「良い勝負でしたね。……さて、お次は弾玉運びだ。どうか手伝っておくんなさい」
友蔵に促され、黒門へ入って行った。時鐘が暮六ツ(午後七時半)を知らせた。




