其之八
八
御納屋の本陣へ行くと、二十人の義勇軍精鋭のほか、上野に参陣しない義勇軍の魚河岸衆のほとんどが駆け付けていた。
順番に並んで、玄関の中の、式台にある駒蔵の位牌に手を合わせていた。
留守居の佃屋佐兵衛も待っていた。
見れば、取締役名主の星野又右衛門までが、顔を揃えている。
武兵衛が玄関に入っていくと、ちょうど、甚兵衛もやって来た。
「源六さんは雨で膝が痛いからと、自分だけ見送りに。それと、例のものを……」
言いながら、又右衛門は、そっと油紙に包んだ書状を、甚兵衛へ渡した。
甚兵衛は頭を下げた。
「無理を申して、すいません。……又右衛門さんに連累せぬよう、配慮致します」
武兵衛が「何の話だ」と尋ねると、甚兵衛は「念のための御守だ」と曖昧にした。
雨が勢いを増してきた。御納屋の屋根に当たる雨音が、だんだん大きくなっている。
二百人ともなると、御納屋に入れきれず、その周りを囲んでいた。
武兵衛は「魚がし」と染めた、義勇軍の旗を手にして、皆の前に立った。
「魚河岸義勇軍は、今より上野へ向かう。なあに、東照大権現様が守って下さる。安心しろい。……魚河岸に残る義勇軍は、敵に対して要鎮を怠りなく。皆の衆、頼んだぞッ」
二百人近い義勇軍から「へいッ」っと大きな声が挙がった。武兵衛は精鋭二十人を見た。
「俺っちは武家じゃねえ。町人だ。人の命を奪っちゃいけねえんだ。好いか、敵兵に殺されかけた時だけ、鳶口を飛ばせ。そん時ゃ、脚を狙うんだ。……今回の義勇軍の役目は、江戸を取り戻す戦争をしかと見届けた後、彰義隊が下山する際の道案内をすることだ。忘れるなッ」
精鋭に選ばれた魚河岸衆が「へいッ」と声を合わせた。誰もが恩ある彰義隊の助太刀へ行ける喜びで瞳が耀く。佐兵衛が一歩、前に出た。
「たった今、上野から明日から納魚は不用と知らせてきた。納魚の代わりと言っては何だが、酒樽二つと辨松さんの弁当、美味い生魚を取り急ぎ、集めて置いた。恐らく、彰義隊の方々にとっては、最も喜ばれる美味しい兵糧だ。持って行っておくれ」
武兵衛は佐兵衛の気遣いに感激しながら、思いつかなかった自分を恥じた。
「明日も、新鮮な魚を見繕って、陣中見舞いとして運ぶつもりだ」
佐兵衛の言葉に頷くと、武兵衛もまた、式台の駒蔵の位牌を見つめた。
「駒蔵、行ってくるぜ。此処での留守居が嫌なら、俺っちに付いて来な」
手を合わせると、武兵衛は、雨の中で、勢い良く、義勇軍の旗を振った。
「日本橋魚河岸義勇軍の初陣だッ。初売と同じように、景気よく一本締めと行こうぜ」
武兵衛が「よおッ」と掛け声を叫ぶと、他の者と共に一回だけ、手を叩いた。
義勇軍二十人は、桐油合羽を着込むと、酒樽や弁当、魚の笊を積んだ荷車を押して、出陣した。
その先頭には、旗を掲げた相模屋武兵衛と、副将の千足屋甚兵衛がいる。
見送る義勇軍からは「頑張れよ」「気を付けてな」などと、声が懸かった。
江戸橋を渡ると、雨の中、見送りの魚河岸衆が集まっていた。お艶とお香の姿もある。
騒ぐと、市中取締と称して、錦裂がやって来るかもしれない。誰もが無言であった。
魚河岸衆が戦争に参加するなど、前代未聞だ。
見送る人びとからは、静かな熱気が伝わってきた。
雨粒で判然としないが、多くが、涙で頬を濡らしている。誰かが手鞠唄を唄い始めた。
♪一ツとや ひらひらひらつく錦切れを 肩に着て 東じゃ左様に思わない 光らない
♪二ツとや ふちに離れた殿方の 脱走人 軍に強ふて負けはせぬ 引きはせぬ
♪三ツとや みなみな勇士が打ち揃い 劣りなく 朝敵受けても恐れない 無理はない
♪五ツとや いつか此世が静まるか 困ります 宮さん和さんお天(璋院)さん頼み枡
だが、五ツから、いきなり最後の十へ飛んだ。
「♪十ヲとや とうと納まる徳川の八百万 栄へことぶく御代の春 お目でたや」
十だけは、途中から皆が声を合わせて唄った。雨音に消されることなく、響き渡る。
元より覚悟はあったが、賑やかな声で送られるより、武兵衛は一層、身が引き締まった。
見送りの一群から少し離れた処に、畑屋甚次郎が冷笑を浮かべて、立っている。
――どうせ、その脚で長州の陣へ御注進だろ。構わねえぜ。好きにしやがれってんだ。
進む度に、泥が跳ねる。長雨で泥濘んだ道を、義勇軍は上野へと粛粛と進んで行った。




