其之七
七
雨は五月九日に止んだ。だが、十一日の夜から再び降り始めると、止むことを知らなかった。
十三日、雨の中、相模屋へやって来た買出人が、ぼやいた。
「参っちまうぜ。柳橋が官軍の奴らに往来を止められちまって。遠廻りさせられたよ」
武兵衛は咄嗟に「錦裂は遣る気だ」と勘が働いた。急いで店の奥に向かって、叫んだ。
「お艶、支度だッ。神田川を渡れなくなる前に、上野へ馳せ参じる」
帳場で買仕切と売仕切を確かめ、帳簿に書き入れていたお艶と伊左衛門が顔を上げた。
いつも強気のお艶の顔が、一瞬、強張った。だが、唇をきゅっと結んで立ち上がる。
「あいよ、……鳶口は長いの一つと、短いのが三つ、だったね」
「誰か、千足屋へ使いを頼ま。手筈通りに、手練れを二十人、本陣へ集めてくれ、と」
バタバタと店の者が動く。
武兵衛は義勇軍の総大将の出で立ちへと着替えた。
そこへ、口許に髭を蓄えた、フロックコート姿の見知らぬ男が訪ねてきた。
畳んだ番傘を上がり框の端に立て掛け、葵の御紋が真ん中に大きく刺繍された海軍帽を取った。総髪だが、小さく髷は結っていた。
「海軍副総裁の榎本釜次郎と申す。突然、失礼します。永井玄蕃頭様に長らく世話になっている者です。お噂はかねがね……。相模屋武兵衛さんの店で間違いありませんか」
「海軍さんが、わざわざ魚河岸へ。用件はいったい……」
帽子を脇に抱えると、釜次郎は、立ったままで話を続けた。
「十五日に官軍は上野に戦争を仕掛け、彰義隊を潰す気です。勝敗の別なく、隊士は北を目指すでしょう。我が方の御軍艦なら、奥州へ運べますから。遠慮なく、開陽へ参るように、隊士へ伝えて下さい」
「……海軍の御軍艦に載せてくれるってことですかえ」
「はい。……かなり不利な情勢です。彰義隊には無理をせず、目的を果たしたら、直ぐにも山を下りるよう、お伝えください」
それまで黙って聞いていたお艶が、釜次郎の傍まで駆け寄った。
「……海軍さん。後生ですから、この分からず屋を、止めて遣って下さいまし」
「お艶ッ。今更、何を言いやがる。俺は、てっきり腹を括ってくれたものだと――」
「潰される戦争に巻き込まれたら、怪我じゃ済まねえかもしれねえだろ。だったら嫌だ」
釜次郎は立派な口髭をちょいとイジると、笑って見せた。
「女将さん、もし負けたとしても、官軍とて寛永寺を焼くような大それた暴挙には及ぶまい。山から逃げりゃ済むのだから、土地に詳しい武兵衛さんなら、まず大丈夫だ」
「毛唐みてえな格好しやがって。あんたは他人事だから、そんな風に笑ってられるんだ」
「おいっ、海軍の偉い御方に、何てぇ失礼な物言いを。お艶、謝りやがれッ」
不意に、甚兵衛が義勇軍の格好で、飛び込んで来た。すぐに、釜次郎は帽子を被った。
「出陣で忙しいのに、失礼した。……武兵衛さん、どうか彰義隊に伝えて下さい」
英国海軍式の敬礼をすると、番傘を手に、爽やかに相模屋を去って行った。
「何なんだよう、彼奴は。喧嘩させておいて、仲裁もしねえで帰りやがったッ」
だが、甚兵衛に「お勝ちゃん」と窘められると、お艶は急に落ち着いた。
「総大将、義勇軍は粗方、集まった。上野へ馳せ参じるんだって、嬉しくて焦れているよ」
「甚兵衛さん、海軍の榎本様が明後日に、官軍が上野に仕掛けると知らせてくれたぜ」
「お前さん、それだけじゃないだろ。海軍さんは、この戦争で彰義隊が潰されるって」
「大戦の前に縁起でもねえ。お艶ッ、切火を忘れたのかよ。……早くしろい」
すると、お梅が火打石と火打金を持って、立っていた。お香と、お須磨もいる。
「おっ……義母さん、お須磨さんまで。起き上がって大丈夫なのかえ」
お須磨は頬を紅潮させ、厳しい顔で、お梅より先に口を開いた。
「駒蔵の仇、錦裂を一匹残らず、江戸から追い出して下さいまし」
言いながら、深々と頭を下げた。お香も涙を浮かべながら、同じように頭を下げた。隣のお梅が声を張った。
「頼んだよ、お前さんたち。宮様が京屋の金公を倒すまでの辛抱だ。先ずは彰義隊を助けて、上野で大暴れしておいで。いいかい、敵に背中を見せちゃいけねえよ。分かったかい」
武士じゃねえんだから、と唾を返そうとすると、甚兵衛に止められた。
「大女将の言葉を励みに、行って参ります」
甚兵衛は一揖すると、背中を向ける。武兵衛も慌てて、背中をお梅に向けた。
勢い良く火打金で火打石を叩くと、火花が散った。
「必ず脚付けて、生きて戻って来るからよ。相模屋を頼んだぜ」
武兵衛はお艶が用意した桐油合羽を着て、高下駄を履くと、雨の中へ出て行った。




