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其之六


 五月七日。数日間に(わた)って続いた雨が止んだ。


 だが、分厚い曇に(おお)われて、昼間でも薄暗い。


 雨よりは()しなので、早朝から武兵衛は、相模屋の店先に立ち、商売に励んだ。


 店の奥から、朝にもかかわらず、お艶の大きな声が聞こえる。


「ちょいと、お香や。無理はしなくていいんだよ。急にあれもこれもと働き出したら、また躰を悪くするから」


 お香が、お艶の手伝いを再開して、数日が経つ。


 だが、お艶はまだ、ハラハラしているのか、気遣う声が一日中、相模屋に響き渡っていた。


「お艶の奴もあんなに(わめ)かなくても。嬉しいのは分かるが、こっちまでソワソワしてくらぁ」

 

 武兵衛が小さな声で、傍の仲買人に呟いた。すると、背後から声がする。


「……(キン)(キレ)の理不尽をご覧になって、()(てん)(とう)(さま)がまた泣き出しそうな雲行きですねえ」


 不意に話し懸けられた。振り返って見れば、呉服商の()(なり)をした高梨藏三郎であった。


 武兵衛の左袖に、小さい文を投げ入れてきた。そっと耳許に(ささや)く。


「……御頭様から、(がつ)(ぎよう)()衆への文にござる。山内が(ふつ)(とう)するほどの吉報にて――」


 藏三郎が薄く微笑んでいる。初めて見る笑顔であった。


 武兵衛は待ち切れなくて、店の奥へ駆け込んで、慌てて文を広げた。


「三日、仙台にて、上野宮様を盟主にお迎えすべく、二十五家が盟約書に調印。二十三ある盟約書の条項には『薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる』との一文あり。彰義隊は奥州の盟約に()(おう)し、宮様を奉じて、近く一戦を行うものなり」


途中まで読んで、うわああと叫んだ。涙が溢れて止まらなくなる。


「どうしたんだよ、お前さん。騒々しいったら」


 お艶に窘められても、女房の言葉が耳に入ってこない。


 武兵衛の耳目は、小さな文へと注がれていた。


「ついに……、待ちに待った反撃が始まる――。江戸を賊徒から取り戻せるんだッ」


 急いで、佃屋と千足屋へ使いを遣って、二人を御納屋へ集めた。


 読み終えた、甚兵衛と佐兵衛も涙ぐんでいる。


 甚兵衛が武兵衛に、呟いた。


「山内が沸騰するのも無理はない。今まで上野の彰義隊は、千代田城の出城に屯集した、()(るい)のようなものであった。だが、(しよう)(ない)(あい)()()ける奥州諸国の盟約が成り、彰義隊は宮様によって、奥州と繋がった。言うなれば、蘇秦(そしん)吃驚(びつくり)の合従策が固まった訳だ。上野の兵にとって、どれほどの励みとなっただろうか。察して余り有る。……いや、江戸に暮らす我等も、心から嬉しい――」


 心を落ち着かせてから、甚兵衛は、続きを口語に直して読み上げた。

 

「宮様を奉じて上野を下山し、白河口の戦いへ参戦する策も考えた。官軍を挟み撃ちにする計略だ。……だが、宮様を戦場の(ただ)(なか)へお連れするには忍びなく、我等は上野にて官軍を朝敵と定める策を選んだ。江戸市民には見届け役となるよう、合力を乞い願いたい」


 涙を拭いた武兵衛は、胸の高揚とは別に、頭の一部が妙に冷静になった。


 二百人の魚河岸衆の命を預かっている、義勇軍の総大将としての責任が、頭を(よぎ)った。


「……先日、勝安房守様が仰っていたように、会津軍の助太刀は期待できねえ。……蔵太様は()()()()との話だ。義勇軍は一部での参加という形での合力を考えたい」


 甚兵衛は先日の件で安房守を嫌っていたので、異議を唱えるかと思ったが、違った。


「我等は町人だ。義勇軍から死者を出してはならない。総大将の策に異論はない」


 佐兵衛も嬉し涙を拭いながら、頷いた。武兵衛は二人から同意が得られて安堵した。


「上野山には、俺と甚兵衛さんが精鋭を率いて、見届け役として、詰めようと考えている。……佐兵衛さんには、御納屋の本陣で待機してもらいてえ。俺に何かあれば、すぐに総代に戻ってくれ」


 甚兵衛も「佐兵衛さんが生きていれば魚河岸は(ばん)(じやく)だ」と頷いてから、続けた。


「上野の戦争は、籠城戦ではない。宮様を奉じて奥州へ行く目的が先にある。蔵太様の手紙にも官軍を朝敵と定めるための戦いだとあった。……つまり、勝っても負けても、山から下りて北へ向かう道の保守が重要だ。これこそ、町人の出番だと心得ている」


 武兵衛も甚兵衛の言葉に頷いた。


「隊伍が組めねえ場合、抜け道を使って、千住へ道案内をするんだな」


「そうだ。総大将から、新吉原(なか)に力添えしてもらえるよう、働きかけてくれ。官軍に千住までの道を塞がれたら、彰義隊士は一旦、あすこへ退()く。(キン)(キレ)にバレぬよう衣装を着替えた後、山谷堀から千住へ猪牙舟で向かうんだ。……その()(はず)を整えて置いたほうが良いだろう」


「妙案だな。元々、新吉原には屯所があったぐれえだ、合力してくれるさ。……それじゃ、今から話を付けてくる。二人は義勇軍の精鋭を二十人ばかし、選んで置いてくれ」


 甚兵衛と佐兵衛は「心得た」と応えると、早速、義勇軍の各組の猛者を選び始めた。


 武兵衛は新吉原(なか)へ行き、名主総代に掛け合った。すると、説得など不用だった。


「彰義隊のためなら、幾らでも尽力させて頂きます。男物の着替えなら、(じよう)(もの)から襤褸(ぼろ)まで御座います。……払えぬ客が置いていった衣服が、たっぷりとね」


 大乗り気で応じた。そこへ小稲(こいな)が現れた。口を開く前に、武兵衛が言い当てた。


「徳川脱走への軍資金の(さい)(そく)でござんしょ。……すぐにも届けさせますよ、花魁」


 だが、武兵衛は尋ねたくてうずうずした。


「催促に応じる代わりに教えておくんなさい。秀吉を四日で捨てたのはどういう訳で」


 すると小稲はきっぱりと言い切った。


「……()()良き御方でありんしたが、わちきに十両を強請(ねだ)ったのです。たった十両でござんすよ。四代目小稲に、百両なら分かりんすが、左様な(はした)(がね)……。器の小さき男でした」


 聞きながら、武兵衛は(ぼう)(ぜん)とした。あまりにも毛利秀吉が気の毒に感じた。


 ――小稲ほどの花魁となると、違う(うき)()の住人だな。初心(うぶ)な武士じゃ太刀打ちできねえや。


 合力の話が思いの外、するすると進んだので、暗くなる前に大門を出られた。


 ただ、日本堤を駕籠で進んで行くと、ポツポツと雨粒が落ち始めた。


「また雨か……。せっかく止んだと思ったのになぁ」


 相模屋へ辿り着く頃には、梅雨とは思えない、豪雨となった。


 七日の夜から降り始めた雨は、大風雨となり、翌日の八日になっても弱まらない。


 大川筋は水が満ち、所々で出水。また神田明神の裏や湯島の崖が崩れて、怪我人も出るほどの被害となった。


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