其之五
なんとか風邪が抜け始めたので、再開します。
6年も風邪を引かないと、細菌性の夏風邪であっても、薬と熱(基本は微熱のみ)でクタクタに。
今年の夏は暑いので、皆様もどうか夏バテにはお気をつけください!
もうひとつ。連載初回にテンパって「代表作」にチェックをつけて以来、消す方法を探していたら
やっと見つかったのでとりあえず引っ込めました。
次回作もあるので、それが終わってからどちらが「代表作」か考えます。
五
数日間、雨が止まない。梅雨が本番になったようだ。
官軍の見廻りは、始まる気配すら、ない。
お陰で、盗人や辻斬りが出やしないか、という不安と長雨で、魚市場の商売もさっぱりだ。
武兵衛は客が疎らな店先で、ぼんやりと突っ立っていた。
「自分で選んで、生きていく。誰にも縛られねえ世の中……かァ」
勝安房守の言葉を、このところ幾度も頭の中で、繰り返している。
町人にとって、そんな世の中が来るものなのか……と。
半信半疑ながらも、暇になると、また、考えてしまう。
店の奥、端午の節句にと貼っている鍾馗の絵が見える。魔除けの眼に睨まれた気がした。
自分で選んで、生きていく世の中を望むとなれば、徳川家の二百六十余年を否定するようなものだ。
「……そんなに睨まなくたって。分かってますよ、鍾馗様。ちょっと考えてみただけのことですって」
店の奥から、血相を変えたお艶が走って来た。
「お前さん、お香を見なかったかい。離れの部屋で寝ていると思っていたんだよ。そしたら、姿が見えなくなっていてさ。裏口から出ていったみたいなんだ」
「なんだと。……最近は顔色も良くなってきたから、安心していたんだが。探してくるから、店を任せた」
「あいよ」という声を背中に聞きながら、武兵衛は雨の中を走り出した。
お香の行く先の宛などないが、嫌な予感だけは、龍の彫物が教えてくれる。
――早まるなよ、お香。お前は、駒蔵の分も生きなきゃ行けないんだぜ。
市場通りを江戸橋のほうへ行くが、お香の姿は橋の上にはなかった。
「川じゃなきゃ、何処だろうな。……本所か。いいや、今更行く目的はねえなぁ」
武兵衛が、うーーむと悩んでいると、江戸橋を渡って、留吉がやって来た。
「兄ィ、兄ィ。お香さんを橋の上で見かけて、御納屋に連れていきやした」
「おお、でかしたぞ、留吉。今、探していたところなんだ」
「江戸橋の上で、じっと川を見ているから、やばいと思って。声を懸けて、橋から遠ざけた処です。今、順吉さんや、義勇軍の奴等が、お香さんの傍に張り付いております」
武兵衛は、心底、安堵した。それと同時に、義勇軍の若手の機転にも、舌を巻いた。
「皆も、何かと気が回るようになったな。……目覚ましい成長ってところだ」
二人で歩き出すと、留吉は、急に真顔になった。
「それだけ、駒蔵を亡くしたことがでかかったんですよ。お香さんだけじゃねえ、義勇軍の誰だって、まだあいつの死を乗り越えちゃいねえんですぜ」
「そりゃあ、相模屋も同じだ。でもなぁ、駒蔵も困っているんじゃねえかな。まだ、そこいらにいるだろうからさ。皆が悲しい顔ばかりしているのは、好きじゃねえだろうし」
言い終えて、武兵衛は、留吉を見た。留吉は雨空を見上げていた。
「……確かに、駒蔵はよく笑っていたし、明るい奴だった。こんな空より、青空が似合っていやした」
「そうだよな、俺もそう思う。早く梅雨が明けて、青空に戻るといいな」
言いながら、江戸橋を渡り、御納屋へ歩いて行った。
御納屋に近づくにつれ、お香の泣き声が大きく聞こえてきた。
武兵衛と留吉が急ぐと、玄関式台の辺りに、順吉や義勇軍に参加している魚河岸の若い衆が固まっていた。
その真ん中で、お香が、駒蔵の仮の位牌を抱いて、泣きじゃくっていた。
「お香さんのせいじゃありませんよ」
順吉が慌てふためきながら、大きな声を出していた。
「……あ――たしが、ちゃんと助け……を、呼べたら、駒蔵さんは――」
留吉がおろおろしている義勇軍衆を掻き分け、お香の前に座った。
「順吉さんの言うとおりだ。お香さんのせいじゃねえよ」
大きな声ではっきりした言葉だったので、お香も思わず、ハッと顔を上げた。
「もう自分をそんな風に責めるもんじゃねえ。駒蔵は女房をしっかりと守って、今はこの位牌となって、俺っち義勇軍を守ってくれている。すごい奴だ。俺ァ、一生叶わねえと思う。……だけど、見ててくれ、お香さん。俺っち義勇軍はもうじき、錦裂と戦争をする。その時、屹度、駒蔵の仇を討つからよ」
留吉は、駒蔵を真似て、一言ずつ分かりやすい口を動かして、お香に伝えた。
すると、涙を拭きながら、
「……仇は、彰義隊様が――討ってくれたって。武兵衛さんが。だから無理は……しないで」
お香は口を開くと、武兵衛を見つめてきた。
「ですよね、武兵衛さ――」
「ああ、そうだ。上野を巡る戦争は、仇討ちじゃなく、錦裂から江戸を取り戻す、最初の一歩だからよ」
武兵衛が大きく頷いて見せると、留吉は不機嫌になった。
「ちょっと、兄ィ……。そこは分けねえで、一緒でいいでしょう」
お香は木の位牌を抱き締めてから、元の場所に置いた。
「……駒蔵さん。義勇軍を守って下さい――ね」
武兵衛は、お香の声が変わったような気がした。
駒蔵を亡くしてから、ずっと弱々しかったが、今――なにやら、前のような、強さが垣間見られた気がした。
留吉が「ああそうだ、駒蔵が守ってくれているから、義勇軍は必ず勝つぜ」と気炎を上げると、その場にいた義勇軍衆も「応ッ」と拳を挙げた。
「お香さんも応援を頼むぜ」
留吉の唇を読んで、言葉を理解すると、お香は力強く頷いてから、少し微笑んだ。
――お香が……笑いやがった。まるで晴天のように、明るく……。
武兵衛は、嬉しくて泣きそうになった。
だが、此処で泣いたら、またお香の顔が曇り空に戻るかもしれない。涙を止めようと、顔を必死に顰めた。
「……なんで、兄ィは鍾馗様みてえな怖い顔になってんだよ」
留吉が突っ込むと、義勇軍衆も皆が武兵衛の顔を見て、大笑いになった。
その場の雰囲気に釣られる形で、お香にも、今度は飛び切りの青空のような、明るい笑顔が見られた。
お香の笑顔を見ていたら、武兵衛も、笑いが込みあげてきた。
――駒の字や。ようやっと、お香が笑えるようになったのかもしれねえ。だが、心の瑕が癒えたわけじゃねえから。この先も、ずうっと、お香を見守ってやってくれ……。




