其之四
すいません!
6年振りに風邪を引いてしまいました。
熱でヨレヨレの頭では、良い文章は書けませんので、
数日、お休みします!
四
五月朔日、徳川宗家を亀之助が相続する旨が、町触で江戸府内へ漏らさず伝えられた。
同時に、亀之助が幼少のため、津山十万石の前領主、松平確堂が後見人となった。
確堂は、文恭院(徳川家斉)の十五男の斉民である。有徳院(吉宗)以降の紀州系徳川家の、最後の嫡流男子であり、徳川宗家を支えるには、最適であった。
五月三日には、市中の治安維持が官軍の手に渡った、との町触も出た。
「江戸不案内の錦裂なんぞに、御府内の取締がちゃんと務まるわけがねえや」
江戸の人びとの間では、勝手ばかり繰り返す官軍への不満が増すばかりであった。
同じ日、大総督の有栖川宮は、寛永寺へ使者を遣わし、輪王寺宮(上野宮)へ、再び天機伺のための上京を命ずるため、千代田城への登城を促してきた。
使者に応接した覚王院は「宮様は御不例であらせられ、お招きには応じかねる」と断った。
この頃、魚河岸義勇軍は、彰義隊に呼応して、市中見廻りを中止した。
翌日四日は雨だった。見廻りがなくなった御納屋の本陣は静寂に包まれていた。
彰義隊から手紙と共に、掌大の木札が届いた。
〈魚河岸義勇軍 武兵衛〉と表書きがあり、裏には〈彰義〉の字が大きく焼き印されていた。他に、甚兵衛と佐兵衛の分もあった。
「これで俺っちは、黒門で一々、誰何されねえで山内に入れる。便利になりましたぜ」
武兵衛は喋りながら、この日に出たばかりの〈中外新聞三十三号〉に目を通した。
「亀之助様が上様に決まったな。……へえ、直参は月代を剃っても良くなったのかえ」
「そこじゃないだろう、奥州の情勢は、どうなったんだ。……先に読ませてくれ」
甚兵衛は〈中外新聞〉を武兵衛から奪って、読み始めた。
佐兵衛は煙草を喫って、次に読もうと待っていた。
そこへ、順吉が珍しく、遣いとして、部屋にやって来た。
「勝安房守様が、いらっしゃいましたが……、あれ、安房守様ッ」
告げている傍から、勝手に部屋へ入って来た。いつもながら、せっかちである。
「節句用の干鱈と?でもお求めに。初鰹でしたら、今年は遅れておりますよ」
やけに険悪な顔つきでやってきたので、佐兵衛はわざと軽く声を懸けた。
「魚を買いに来たわけじゃねえよ。……急ぎ戻るから、簡単に話をさせてくれ」
言いながら、座り込む。彰義隊から届いた木札をチラと見て、片微笑んだ。
「彰義隊は、自分こそが幕臣の本分のように騙っている、狂人の集まりだ。今日の幕臣の本分とは、先代の上様の思召しに称うべく、恭順を守り、朝臣の道を進むものなり。……それを、覚王院なんてえ、駿府道中での私怨に凝り固まった売僧に誑かされてよ。上野山内に集う者共は戦争支度に明け暮れ、徳川家のみならず、日本を危うくしていやがる始末だ」
甚兵衛は真っ向から、安房守を睨み付けた。
「私怨――とは。むしろ、貴殿にあるのでは。とある風聞によれば、駿府での談判は、勝安房守様が遣わした山岡某の手柄であった。それなのに、世間が上野宮様のお陰だと喜ぶから、お二人は臍を噛んで悔しがっている……と。勿論、あくまでも噂話ですが」
安房守は出しかけた煙管を仕舞う。刃物のように鋭い目付きで、甚兵衛を見た。
「手柄なんぞ、どうでもいい。今更、御神慮なんてえ古い軛を持ち出しやがって、坊主の出る幕でもねえって話だ。もう徳川家は元には戻らねえ。だからって、今度は上野宮様に縋るのか。御公儀が消えて、今こそ、自分で選んで生きていける――やっと、誰にも縛られねえ世の中が来ようとしているのに、どうして、新たな明日へ背を向けやがるんだ」
甚兵衛が厳しい言葉で返した。
「御旗本のお言葉とも思えぬ――、洋学を囓った西国儒者の戯言にしか聞こえませんが」
「親父が無役でずっと貧乏だった。俺が軍艦奉行、陸軍総裁まで昇れたのは、忠義の賜物なんぞじゃねえ。俺が自ら選んで研鑽して掴み取った今なんだ。これからは誰もが家名など気にせず生き方を決められる。その土台ができるってえのに、戦争で全てを潰す気かよ」
甚兵衛と安房守が睨み合う中、穏やかだが、筋のしっかりとした声で佐兵衛が尋ねた。
「安房守様が仰る、新たな土台が、不当に天下を簒奪した賊徒によって築かれたものでも構わないのですか。江戸を荒らし、多くの町人を殺し、金をせしめる輩に日本を任せると、左様に仰いますのか」
「そうだ。この十数年、徳川が誇る俊才の官吏が幾度試みても、叶わなかった大変革を、彼等は成し得た。……多少は間違ったやり方だったとしても、海外の歴史に比べれば、随分と増しなほうだ。だから、俺は賊徒に懸けた。日本を一つの国家に纏める大業を成し遂げるだろうと。三百諸侯に分かれた儘じゃ、日本は西洋の強国に太刀打ちできねえからな」
険悪な空気のまま、甚兵衛と佐兵衛は黙り込んだ。武兵衛が話を進めた。
「それで、安房守様は魚河岸にどういった御用で、いらっしゃったのですかえ」
「……昨日、彰義隊に附属する臥龍隊が、下谷の三ノ輪で騒動を起こした。北へ向かう官軍の因州兵四十人を捕え、素っ裸にした挙げ句、鉄炮や弾薬、薬莢を強奪しやがった。これが正義の天兵の行いかえ。魚河岸義勇軍もな、さっさと彰義隊と手を切らねえと、痛い目に遭うぜ」
「彰義隊とは、商売のお得意様としてのお付き合い程度で、昵懇ってえほどでは……」
武兵衛が恍けると、安房守は、嫌味ではなく、少し微笑んだ。
「総代が小田井蔵太と格別、親しいぐらい知っている。だから、釘を刺しに来たんだ。彰義隊の負軍に巻き込まれて、怪我でもしたら、おいらとしても後生が悪いからな」
甚兵衛が「何故、負けると決めつけるのか」と問い糾した。
安房守は立ち上がりながら、応えた。
「江戸の者は会津軍と徳川脱走が江戸へ攻め込んで来て、彰義隊と共に官軍を蹴散らす日を待ち望んでいるようだが。……会津は白河口の戦いに苦戦していて、とてもじゃねえが、江戸に出てくる余裕なんざ、ねえよ。彰義隊が戦争を始めても、誰も援軍は来ない。どうだい、勝利の匂いなど全くしねえだろ」
大きく笑いながら、部屋を出て行った。武兵衛は廊下へ出て、安房守を追いかけた。
「あんな喧嘩口調で仰っちゃ、わざわざ脚を運んで下すったお優しさが全く伝わらねえや」
「口が悪いのは、今に始まったことじゃねえ。それよか、上野とは縁を切れよ、総代」
武兵衛は真っ直ぐに安房守を見詰める。もう誤魔化さずに、腹を割って話すと決めた。
「安房守様は、今のお立場を御自分で築かれたと仰った。……日本橋魚河岸は、東照大神君の御用地を分けて頂き、市場を開いた。だから、徳川家には大きな恩義がある。上野宮様が、御神君様と天海僧正が授けていった策のために戦おうとなすっているなら、俺っちは、押っ取り庖丁で、馳せ参じなくてはならねえんですよ」
武兵衛は安房守が嫌いではない。だから、これ以上、諍いたくはなかった。
「徳川への恩義なら、……魚河岸は二百年以上も、納魚ってえ不当な決まりに耐えて、良魚を只同然で御城へ献上した分で、とっくに返し切ったろ。おいらは幼い時分、訳あって大奥で暮らしたことがある。女共は誰も、魚河岸衆の苦労なんぞ不知顔で、毎日、贅沢な魚を好きなだけ喰いまくっていたぜ。それでもまだ、恩義を返し続けるってえのかい」
「納魚は続けておりまさ。亀之助様や静寛院(和宮)様は毎日、鯛を召し上がってますよ」
武兵衛が笑いながら返すと、高下駄を履き、安房守は穏やかな顔つきで軽口を叩いた。
「せっかく商人に生まれたんだ。武家みてえに古い考えに縛られるな。……勿体ねえぜ」
見送り終わった頃、順吉が塩壺を持って走ってくると、誰もいない玄関に塩を撒いた。
「甚兵衛さんと佐兵衛さんが『憎みても余り有る大奸物』と驚くほどの剣幕でして」
武兵衛は顔に手を当てた。
「あちゃあ……。当分、勝安房守様は魚河岸界隈を歩けねえや」




