其之六
六
本石町の時鐘が明六ツ(午前六時過ぎ)を知らせて、新年が明けた。
「慶応戊辰四年は落ち着いた良い年となろう。皆で精進を怠らず、商売に励み、笑って暮らせる一年となるよう、祈念する。……まぁ、本年もよろしく頼まァ」
武兵衛の短い挨拶が終わると、店の者は揃って、屠蘇を呑み、雑煮を食べた。
元旦は、魚河岸衆にとって、一年で唯一の休みの日だ。
昼前に店の戸を半ば開け、簾を下げる。檜の札に相模屋武兵衛と記し、簾の真ん中に紅白の水引で結わえておく。
武兵衛が店の者へ年始の手当を配る。
それぞれ、初湯へ行ったり、貰った手当を使うために、遊びに出掛けた。
元旦は芝居町も新吉原も休んでいる。だから恵方詣りへ行く。
昼まで仮眠を取ると、お梅はぽん太と乳母を連れて、付女中のお瀧とお参りに出掛けた。
伊左衛門は通い番頭なので、分けて貰った食積や御節を女房に持たせて、家に帰った。
武兵衛が長火鉢の処で、箪笥を背にして居眠りしていると、お艶の声が聞こえた。
「今年の恵方は南南東だよ。夕方には戻っておいで。明日の初売の支度があるからね」
宴の片付けを済ませた下女や女中が出掛けるのを見届けたようだ。いつも賑やかな相模屋を静寂が包んだ。
お艶は武兵衛の横へ座ると、煙草を喫って、ひと息つく。
「……ぽん太も出掛けたのか。お前さんは何処へも行かねえのかい」
声を懸けると、お艶は煙管から灰を落としながら、武兵衛に寄り掛かる。
「三日分の食べ物を拵えたんだよ。くたびれちまって、ゆっくりしたいのさ」
「珍しく、俺っちは二人きりか。……人がいねえと、冷えるもんだな」
武兵衛は火鉢に掛けてあった鉄瓶から、銚釐を引き揚げると、茶碗に温まった酒を注いだ。夜の間、たっぷりと呑んだが、これは迎え酒である。
「あんまり過ごしちゃいけないよ。初売前にドロンケンじゃ支度になりゃあしない」
叱られながら、武兵衛は再び煙草を詰めているお艶の横顔を見詰めた。
「お艶は初めて逢った時分から、ずっと別嬪だよなあ」
煙を口から吐くと、お艶は照れ隠しにそっぽを向く。
「そんな在り来たりな口説き文句で、日本橋の女芸者や、本所の隠し女を誑かしたのかえ」
「前にも言ったろ。女芸者の萬吉は、肴問屋衆としての付き合いに過ぎねえ。本所のお香だって、亡くなった幼馴染みの妹だ。どちらも深情合になるような色恋とは違うんだぜ」
お艶は膨れっ面で「伊左衛門が本所の女はお前さんのレコだって」と小指を立てた。
「勝手に言い触らしているだけだ。お香の兄の権助は、棒手振の俺の親爺に弟子入りして、ゆくゆくは一緒に店を持とうと誓っていた。それが、安政の虎列刺で死んだ。得意先に蘭方医がいて、他人に移る病と聞いていたあいつは、お香を俺に託して、長屋を〆切った」
お艶は武兵衛の茶碗を奪って酒を呑むと、諳んじるように、続きを語り始めた。
「毎日、水と食い物を戸口に置いたが、受け取ることなく息絶えた――ってんだろ。命を懸けてお前さんとお香って妹を守った権助さんは立派な人さ。……その恩返しで世話しているのなら、連れてくれば良いのさ。何処かに後ろめたさがあるから、隠したままなんだ」
武兵衛は茶碗を奪い返すと、お艶にゆっくりと応えた。
「お香は内気でな。魚河岸の賑やかな店に連れてくると、吃驚しちまうから。……元旦だから、口に出すがな。俺が本気で惚れているのは、お艶だけだぜ」
お艶はチラと武兵衛を見る。煙管を置くと、夫の肩にぎこちなく頭を寄せた。
「萬吉とお香にも同じように口説いていたら、許さないから……」
まだ口説いてはいないが、萬吉を落とせたら僥倖だと、密かに考えている。
「年に一度の夫婦水入らずの朝に、いつまで喧嘩しているつもりだい。俺が嘘を吐いた覚えがあるかえ。学問はさっぱりだが、正直だけが取り柄だ。お艶だって知ってるはず――」
不意に、お艶の顔が近付いて来て、口を塞がれた。頭に手を廻して、離さない。
久し振りのお艶の唇だった。柔らかくて、温かい。
もっと触れたくなって、武兵衛も唇を合わせたまま、お艶を抱き締めた。
顔を離すと、お艶が潤んだ瞳で見上げてきた。
「……そろそろ、ぽん太をお兄ちゃんにしてやりたいんだよ」
甘えるように囁きながら、武兵衛の襟を寛げる。首筋から見える波の彫物の中に、鯛の紋様を見つけると、そこへ歯を立てた。
甘噛みでなく、本気で囓るから、痛い。
「元旦から活きの良い鯛に有り付いた。御殿様気分だよ。目出度いねえ……」
お艶が軽口を呟いていると、御城のほうから、登城太鼓が聞こえて来る。
城主の徳川慶喜が不在でも、略式だが、年始登城は行われるようだ。
「お武家が儀式で四苦八苦している間に、俺っちは二階でしっぽり濡れっちまおうかえ」
お艶は応えずに、武兵衛の躰にしがみ付いた。尻は大きいが、躰は細くて、軽い。
そのまま、ひょいと抱えると、二階へ続く階段をゆっくりと上がって行った。