其之二
二
閏四月二十九日、武兵衛と甚兵衛は、留吉に新鮮な鯛を載せた笊を持たせて、上野山を訪ねた。
前日から降り続いていた雨が、昼前に止んだ。風があるので、蒸し暑さは凌げる。
黒門口で門番に誰何され、魚河岸衆だと話していると、馬に乗った天野八郎がやって来た。
他行していたようだ。八郎は馬上から、門番へ「水」と合語を呼び掛けて、続けた。
「二人は魚河岸の重鎮だ。彰義隊は誰のお陰で魚が食えているか。味方を大切にせよ」
門番は「御頭並様ッ、……酒」と応えてから、「承知」と、深々と頭を下げた。
馬から下りる八郎に、甚兵衛は一揖した。
「前は頭取でしたが、御頭並になられたのですが。祝着に存じます」
八郎は照れながら、「御頭が二人になった際、役儀がいろいろ動いた」と笑った。
武兵衛も慌てて「御目出度うござんす」と頭を下げた。
八郎は留吉の持つ笊を覗いた。
「美味そうな鯛だ。魚河岸衆には納魚以外でも、進物や祝いで良魚を貰ってばかりだ」
「おや、義勇軍の俺っちは、久し振りに伺いましたが」
「此処のところ、畑屋甚次郎が何くれとなくやって来ては、魚や弁当を置いていくぞ」
武兵衛は甚兵衛と顔を見合わせた。言い辛いが、敢えて伝えることにした。
「八郎様、魚河岸の身内の悪口は言いたかないが、勤王論の甚次郎は長州と深い付き合いがあり、官軍の手先だ。義勇軍の見廻りにも加わっていねえ。どうか山内に入れねえで下せえ」
八郎は喫驚して、眼を大きく見開いた。
「敵の斥候なのか。分かった、二度と入れぬ。月行事衆には山内へ入れる木札を渡そう。木札を持たぬ魚河岸衆は、総代の書状を得て、山内に入れるようにしたいが……」
「それは妙案にござんす。甚次郎の他に裏切り者はいねえと存じますが、念には念を」
八郎も噴き出す汗を拭いながら、「大事の前ゆえな」と頷いた。
黒門を潜り、長い坂を上がって行き、彰義隊が本陣を置いている寒松院へ辿り着いた。
ちょうど、本陣から出てきた身形の整った隊士が、駆け寄って来る。
「八郎殿、総督府が、彰義隊の江戸市中取締の任を解く、と通告して参ったぞ」
「おお、左衛門殿……。ついに彰義隊へ真っ向から喧嘩を仕掛けてきやがったって訳か」
頭並の春日左衛門は大きく頷いた。
「もう一つ、知らせがある。亀之助様の徳川宗家御相続が、ようよう決定と相成った」
「相続は良いとして、石高はどうなった。正直、そちらのほうが気になるのだが」
「まだ、決まっておらぬ。敵は徳川直参を抑えつける策として、徳川家の石高の決定を最後まで残しておくつもりだ。決まらねえと、直参は暴れられねえからな」
左衛門は他の隊士へ知らせに走って行った。八郎は武兵衛と甚兵衛をそれぞれ見た。
「参ってくれて、ちょうど良かった。市中見廻りの話をせぬとな。……御頭の御用部屋へ」
寒松院の大きな門を潜り、本陣に充てられている講堂の玄関へ入って行く。
すると、彼方此方の部屋で、鼻息荒く、隊士が激論を交わしていた。
「総督府め、江戸市中取締を解いて、江戸市民と彰義隊を切り離しに掛かりやがった。奥州同盟が固まる前に、彰義隊を潰すつもりだ。そうは、させぬぞッ」
「むしろ、此方から御城を攻めてはどうだ。府内の官軍の兵力を少しでも削ぐべきだ」
武兵衛は熱く論じ合っている隊士の言葉を聞きながら、背中の龍の彫物が疼いた。
――戦争が近えんだな。知らねえ間に、情勢がこんなに差し迫っていようとは……。
「……武兵衛さん、我等なりに、覚悟を決めねばならなくなりそうだ」
甚兵衛も小さい声で呟いた。後ろにいる留吉は笊を抱えながら、蒼い顔になっていた。
八郎は遠慮せず、一番奥の大きな部屋へズカズカと入って行く。
「蔵太、鯛が届いているぞ。……武兵衛さん、甚兵衛さんと若い衆、さあ、いらっしゃい」
八郎に呼ばれて、部屋へ入ると、蔵太の隣には、美しい装束姿の二十過ぎの若武者がいた。新しく御頭になった池田大隅守だ。蔵太と父子のように並んでいる。
「大隅守殿、魚河岸衆にござる。魚を納めるだけでなく、義勇軍を結成し、彰義隊を支えてくれております。総大将の相模屋武兵衛は、江戸の顔役の一人として有名です」
蔵太が紹介すると、色白だが、大身旗本らしい気品のある若者が見詰めてきた。
「義勇軍は噂で聞いていた。武兵衛の隣におるのは、副将で軍師の甚兵衛だな」
甚兵衛は知られていたのに驚きながら、大隅守へ「左様にございますが」と返した。
「我が縁戚の池田家御先代、筑後守長発殿は昔から評判の俊才だ。覚えているだろうか」
「見山楼で幾度か。第二回遣欧使節の正使となられた御方かと。仏蘭西から戻ると、攘夷を止めて、一刻も早く開市開港を実行せよと開明的な建言されましたが、御処分を受けられました。……実に、勿体ない話です」
「その筑後守殿が、武家を凌駕する才覚の者がおる――と、甚兵衛を褒めておられた。軍学ができると聞いている。彰義隊が官軍と干戈を交える折には、是非、力を貸してくれ」
甚兵衛は畏れ多いと、頭を下げた。
「滅相もない……。拙者如き素人が、とても役に立てるとは」
「軍学者の山脇治右衛門殿に、戦争については、幾つか策を授けてもらっておる。だが、甚兵衛は江戸を知り尽くしておるはず。何か気付いた折には、意見を出してくれ」
甚兵衛は「お力添えできますれば」と応じた。武兵衛は誇らしい心持ちで聞いていた。
大隅守は微笑んで、甚兵衛の肩に手を置き「頼んだぞ」と明るい声を発した。
蔵太が鯛を見て、声を出した。
「立派な鯛を持って来てくれたの。……大隅守殿の御頭就任への御祝いとのことですぞ」
明らかに蔵太は大隅守に気を遣っていた。御頭になってまだ数日の大隅守は、彰義隊の気風に慣れていないのだろう。
ふいに、八郎が武兵衛にボソッと零した。
「武家は面倒いよなァ。石高の違いで、二十も年若の者に気を配ってのう。俺は上野の名主の次男坊で、似非旗本だから、家名に囚われていないだけ、フレイヘイドだ」
「ふ……ふれ――とは」
武兵衛は最後の言葉が分からず、聞き返そうとした。だが、そこへ当番の隊士がやって来た。
「上野宮様の御用人、豊島伊勢守様が『大隅守様に相談があり、宮様がお召しである』と仰っております」
大隅守は蔵太を見ると「鯛は夜、頂こう」と話した。蔵太は、やや顔を改める。
「大隅守殿……。宮家司の伴因幡守と用人の豊島伊勢守には、くれぐれもお気をつけ下さい」
「奴等めが、俺を取り込もうと画策しておるのは承知している。だが、宮様は違う。歳も近いし、たわいもない世間話を求めていらっしゃるのだ。安心してくれ、蔵太殿」
大隅守は、自らの用人と共に御本坊へ向かった。武兵衛が蔵太に「御膳所は」尋ねた。
「寒松院の裏手にある。その廊下の奥だ。今、案内させよう」
蔵太の言葉に、留吉は「へい」と返すと、隊士の案内で御膳所へ鯛を運んで行った。




