其之六
六
日本橋魚河岸から両国廣小路傍の若松町まで、四半時も掛からない。
若松町は広大な町家から突き出したような一角で、三方を武家屋敷に囲まれていた。
空家の多い武家町同様に、雨音しか聞こえないほど、静まりかえっている。
紺地に白抜きで〈若松町〉と記した木綿の幟が見えた。自身番の印である。
番屋の傍には多くの馬が繋がれており、雨の中に佇む四人の彰義隊隊士の中に、先に馬で戻っていた秀吉が見えた。
美しい顔だが、眉間に皺を寄せている。
「遅いぞ、武兵衛。さっさと、走ってこい」
相変わらず、言葉が厳しい。ついつい嫌味も言いたくなる。
「小稲花魁に尻毛を抜かれた癖に」とそっと独り言ちた。
「聞こえてるぞ。どうせバレるから先に言っておく。俺は四日で捨てられた」
「……え、ええッ」
「黙って進め」
あまりに堂々と言い切られたものだから、うっかり捨てられた訳を聞き損じた。
武兵衛の声が聞こえたからか、自身番の番屋から、蔵太が出てきた。
今まで見た覚えのない厳しい表情をしている。
だが、その後ろに、お香の姿が見えた。
武兵衛は、思わず、駆け寄った。
「お香……無事だったのかッ」
髪も衣服も雨に濡れていたが、破れたり、汚れてはいなかった。
だが、お香は武兵衛の顔を見るなり、
「……めんなさい、ごめん……なさ――」
両手で顔を覆って、泣き出した。
武兵衛は、首を横に振りながら、お香の双肩に軽く手を置いた。
「良いんだ、お香。お前だけでも無事で、本当に良かった……」
彰義隊士が、泣きじゃくるお香を、自身番に中に連れて行く。
武兵衛だけになると、蔵太が語った。
「昨夕、言葉にならない声を叫びながら走ってきたお香を、この近くの武家屋敷の小者が匿ったそうだ。夜のうちに辻番を通して、自身番に報じたそうだが、彰義隊が知ったのは朝になってからだとか……。お陰で、相模屋にお香の無事を知らせるのが遅くなった」
蔵太は秀吉をチラとみた。
秀吉は憮然としたまま、少し言い訳をした。
「報告が遅れたのは、お香が何も話さないので、相模屋の者とは知らなかったからです。……今朝、発見された駒蔵の遺骸が此処に運ばれて来た時、お香が泣き叫んで、ようやく――」
武兵衛に向かって、蔵太は真っ直ぐに見つめた。
「武兵衛さん、これから酷い遺骸を見てもらわなくてはならぬ。覚悟を決めてくれ」
「大丈夫でござんす。早朝から、駒蔵の生首を見ておりますから。血の臭いも、魚を捌いているので、慣れっこでさぁ」
「ああ、そうだったな。……こちらは、胴のほうになる」
番屋の脇に筵が掛けられた、遺骸が置かれていた。
老いた番人がのろのろとした足取りでやって来て、虫が集っている筵を取り去った。
首がなく、血みどろの印袢纏に〈相模屋〉とある――男の遺骸であった。
武兵衛は雨に濡れるのも構わず、膝から崩れ落ち、遺骸の足許に座り込んだ。
「嗚呼、お須磨さん……済まねえ。お前さんの大切な倅を――こんな目に遭わせちまった」
武兵衛の双眸から涙が溢れた。雨粒と共に、番屋の敷地の土に染み込んでいく。
傍らに蔵太が片膝を突いて、静かに武兵衛の肩に手を置いた。
「お香は先日、俺も顔を見たので、すぐに本人と分かったが、駒蔵の躰のほうを見てくれぬか」
武兵衛は体を動かして、駒蔵の印半纏を少しだけ脱がせて、両肩を剥き出しにした。
左に刀疵、右には綺麗な朱や黄色の入った自慢の鯛の彫物が見える。
朱の辺りは彫ったばかりなのか、まだ少し腫れが残っていた。
「間違いねえ……。うちの荷揚軽子の駒蔵でござんす」
「そうか。こちらの遺骸の見分は済ませてある。荷車を用意させて、相模屋へ運ばせよう。……お香の心も酷く傷ついている。しばらくの間、独りにしないほうが良い」
「へ……へい。そう致します」
蔵太は立ち上がったが、武兵衛は座ったまま、駒蔵を見つめるしかできなかった。
毅然とした声が、頭の上から降ってきた。
「斯様に酷たらしく駒蔵を殺した者共を探しだして、必ず処断すると誓う」
武兵衛は、ふと蔵太を見あげた。
蔵太の頬も、雨粒と違うもので濡れていた。
「……わずか数日前だ。若夫婦を相模屋で見たのは。心根の優しい二人だった。それが、どうしてこんな有様に――」
そこへ町人の姿をした男がやって来た。蔵太は「藏三郎か」と近くに呼んだ。
「御頭の読みが当たっておりました。この近くの薬研堀の船宿〈喜勢〉に昨夜、西国弁を話す三人の錦裂が布で覆った壺を抱えて訪れ、猪牙舟で一ツ橋の船着まで乗せろと」
「布……か。使われた猪牙舟を確かめたか」
「壺が置かれていた辺りに血痕がありました。船頭は、夜が明けてから気付いたそうです」
「壺ではなく、駒蔵の首だな。日本橋川を上り、魚河岸の生け簀に放り込んだわけか」
蔵太と藏三郎の遣り取りを聞いて、武兵衛はやっと納得できた。
「舟を使いやがったのか……。それなら怪しい包みを持っていても、木戸で見つからねえ訳だ」
武兵衛は悔しくて、また涙を流した。すると秀吉が傍へ寄ってきた。
「あの方は高梨藏三郎という。御頭のみに属しておる探索掛の筆頭だ。隊士で藏三郎殿の姿を見た者は、ほとんどおらぬ。……分かるか、武兵衛。彰義隊の御頭様がな、どれほど、本気で取り込んでいらっしゃるか。有り難いと思わなかったら、罰が当たるぞ」
こそっと耳許で囁くと、秀吉は蔵太の前に進んだ。
「御頭、我が二番隊の持ち場である、西両国では、この半月あまりの間に、五件の女殺しが起きております。いずれも、独り歩きをしている間に掠われ、空き長屋へ連れ込まれ、強淫の上に、口封じのために殺害。……この三人と、五件の殺しは係わりがあるのではと考えております」
「確かに、殺しの知らせは本陣にも上がっていたな。……藏三郎、こちらへ」
蔵太は藏三郎に何かを囁いた。一揖すると、藏三郎は雨の中に消えた。
武兵衛へと近付くと、蔵太は手にある饅頭を見せた。丸に福の字が焼き印されている。
「これが駒蔵の遺骸が見つかった裏店の空家の中に落ちていた。何か分かるか」
「両国丸福の饅頭です。うちのおっ義母さんの好物で、昨日、浅草で彫物師の客から、店を閉じると聞いたそうで、駒蔵とお香は両国まで脚を伸ばしたようなんです」
「では、両国からの帰りに襲われたのだな。……そこに落ちている饅頭は、食いかけだ。駒蔵を殺めた者は、持ち物も奪った。強盗に殺し。町方では手に余る凶悪さだ」
「……いや、駒蔵らが両国まで遠出さえしなけりゃ、こんな変事は起こらなかったので」
持っていた饅頭を、蔵太は見詰めた。顔が更に険しくなっていく。
「江戸は……饅頭を求めに行ったら命を取られるような、左様に危ない御城下だったか。俺の知っている両国廣小路は、掏摸こそ多かったが、のんびりと夕涼みに出掛けられる、穏やかな盛場だった。駒蔵とお香には何一つ落ち度はない。悪いのは野蛮な錦裂だ」
蔵太の言葉を聞いて、武兵衛は総代としての立場によって抑えていた、何かが弾けた。
錦裂への怒りと、駒蔵とお香を守り切れなかった悔しさ、悲しみが一気に込み上げ、
「金輪際、錦裂を許さねえ。討ち入って八つ裂きにしてやるッ」と咆哮した。
涙も洟水も涎も一緒に、土の上にボタボタと落とした。
蔵太が、武兵衛へと、静かに語り懸けてきた。
「この一件は、俺が預かる。三人の錦裂を糾問所へ引き据え、必ずや厳しく処断致す。魚河岸義勇軍は官軍へ討ち入りなどせずに、我等よりの吉報を待っていてほしい」
武兵衛は顔を上げて、蔵太に訴えた。
「ここまでされて黙っていたら、俺の顔が立たねえ。どうか仇討ちをさせて下さいまし」
「今回の殺しは、仇討ちに誘い、魚河岸義勇軍を叩くための官軍の罠かもしれぬ。俺は魚河岸衆から、これ以上の死者を出したくない。頼むから、この小田井蔵太を信じてほしい」
確かに、俺は義勇軍から一人も犠牲を出さねえと誓った。
官軍へ攻め込めば死人が出るのは必至だ。
駒蔵の一件は相模屋で納める。そう決めて此処へ来たはずだろうに。
「だけど……、義勇軍の総大将として、示しがつきませんぜ。蔵太様――」
「この件はな、義勇軍への当て付けだけでは済まない話なのだ。市中取締を担っている、彰義隊に対して喧嘩を売られたと同じこと。きっちりと意趣晴らしをせんと、俺の顔も立たぬ。……どうか、彰義隊に預けてくれ」
蔵太の決意に頷くと、錦裂への怒りと、駒蔵を死なせてしまった悔しさが、再び、頭の中で納まりきれなくなり、武兵衛は泣きながら、叫んだ。
「そこまで蔵太様に言わせたら、お願いしますと言うしかねえじゃござんせんか」
雨と共に、武兵衛の嗚咽は、止めようもなく、続いた。




