其之五
五
「一睡もできなかったんだろ。……気付けに、温燗でも用意しようか」
夜明け前、朝飯に手を着けようとしない武兵衛へ、お艶が声を懸けた。
「いや、酒はいらねえ。それより、あいつらがどうしたのか――」
すると、千足屋の手代が雨に濡れたままで、相模屋へ駆け込んで来た。
「総代、御納屋傍の生け簀まで来てくだせえ。……駒蔵らしき生首がッ」
「ああ、なんだとッ」
武兵衛は立ち上がった勢いそのまま、番傘も持たないで、店を飛び出した。
江戸橋を渡って、橋の真下にある生け簀を覗き込んだ。
ちょうど番傘を差した甚兵衛の指図で、首が引き上げられている。
雨も降り、まだ暗いため、見物衆もいない。
河岸に筵が広げられ、そこへ生首が置かれた。
提灯を翳すと、薄く眼と口を開けたまま、穏やかな表情を浮かべていた。
だが、紛れもなく――駒蔵の首だった。
「うちの者が橋を通り掛かったら、暗闇の中、空っぽの生け簀に何か沈んでいると……」
甚兵衛の話を聞きながら、武兵衛は、駒蔵の顔をまじまじと眺めた。
頭の中で怒りや悲しみが綯い交ぜになり、ぐちゃぐちゃになっている。
甚兵衛が傘を差し掛けてきた。
「不意に、後ろから首を刎ねられたのだと思う。覚悟の死ではなかったようだ」
ようやく武兵衛は口が利けるようになった。
「……駒蔵は死ぬ時、何を思って、こんな顔をしたんだろうな」
瞼を閉じようとするが、できない。やむを得ず、筵で首を包んだ。
「駒蔵が死んだとなると、お香は、いったいどうなったんだ……」
呟いてみたが、武兵衛は涙が出ない。
頭の奥が痺れ、霞みが掛かったように、何も考えられなかった。
代わりに、甚兵衛が筵を眺めながら、言葉にして一つずつ整理した。
「俺が昨夕見かけたとき、駒蔵は相模屋の袢纏を着ていた。駒蔵を殺した奴は、わざと生首をこの生け簀に放り込んだ。だとしたら、魚河岸への意趣晴以外の何物でもねえ。官軍の御用船の役目が、急に終了した件と繋がっているとしたら、ただの殺しではなく、官兵の仕業――とも考えられる」
甚兵衛の言葉を聞くと「錦裂が殺りやがったのかッ」と叫んだ。
武兵衛はようやく涙が溢れた。
悲しさよりも、怒りが先に込み上げてきた。血涙――というやつである。
「まだ決まってはいない。まずは駒蔵の首から下の遺骸と、お香の行方を探さなくては」
「どうやって探すんだ。……いっそ、総督府とやらに殴り込んだほうが早えんじゃねえか」
「殴り込むより、俺なら、市中取締役の彰義隊に助けてもらう策を選ぶ。お香の行方が分からないうちは、まだ仇討ちは後回しだ。今、蔵太様へ手紙を書くから」
武兵衛は涙を拭くと、力無く頷いた。甚兵衛はどこまでも落ち着いていた。
「首は、どうする。そのままで相模屋へ持って行くと、お梅さんやお須磨さんが……」
「御納屋にある桶と塩を借りて、胴と繋ぎ合わせるまで、隠しておく」
「それが良いな。いいかえ、武兵衛さん、速まっちゃ行けないぞ」と甚兵衛は言い聞かせてから、手紙を認めるために、千足屋へ戻った。
武兵衛はまだ役人のいない御納屋へ勝手に上がり込んで、深めの桶と塩を探した。
雨の音と共に、土の湿った匂いが風に運ばれて来る。苛苛する湿り気だ。
御台所に桶も塩もあった。筵から駒蔵を取り出した。
首は存外、重い。武兵衛ほどの大男でも「ふっ」と声を出さないと持ち上げられない。
桶に入れ、塩漬けにすると蓋をした。
「駒蔵、教えてくれ。昨日、二人に何が起きたんだ。お香は何処にいる……。誰がこんな目に遭わせやがった。俺が必ず、仇を討ってやるからな。ちいっと待っていろよ」
武兵衛は桶を撫でながら、誓いを立てた。
相模屋へ戻ると、桶を駒蔵とお香の部屋が使っていた離れに置いた。
「離れに立ち入るんじゃねえぞ」と店の者に厳しく注意をすると、仕事に戻った。
何か、躰を動かしていないと、やりきれなかった。
昼過ぎに、相模屋へ彰義隊隊士の毛利秀吉がやって来た。
雨に濡れても、色男である。
「武兵衛。両国廣小路の傍、若松町の自身番まで従いて来い。御頭がお待ちだ。急げッ」
だが、相変わらず、言葉はきつい。
「え……蔵太様が。手紙を読んで下さったのですか」
「暢気に喜ぶな。お陰で御頭直々の御指図となった。こっちは朝から大勢が駆り出されて、浅草から両国辺を入念に探索したのだぞ。よいか、若松町まで速く参れ」
言い捨てると、秀吉はさっと店を出て行った。
そこで「あっ」と綺麗な声がした。
通り掛かった萬吉が、秀吉とぶつかった。
武兵衛も相模屋の傘を持って、店先へ行く。
将棋の駒の簪が落ちたのて、秀吉が拾って、萬吉の手に渡していた。
「ありがとう……ございます」
美男美女が雨の中で、見詰め合っている。
武兵衛は舌打ちして「急ぐんでしょ」と二人の間をわざと掻き分けて、歩き出した。
傘を差した甚兵衛と佐兵衛が急いでやって来る。
「彰義隊の馬がそこに繋がれていた。……知らせでもあったか」
「甚兵衛さんのお陰だ。蔵太様の御指図で、何か見つけて下すったようだ。両国廣小路傍の若松町の自身番まで行ってくるぜ。佐兵衛さんと甚兵衛さんは商売を続けて下せえ」
甚兵衛が「俺も行く」と反論しかけると、佐兵衛が制した。
「大将と副将が揃って出張っては、魚河岸義勇軍と係わりのある一件と噂が立つ。武兵衛さんは、大きな争いの種にしたくはない。……そうなのだな」
「へえ。事情がはっきりするまでは、相模屋のうちで納めておくのが最善かと」
と応えると、武兵衛は歩き始めた。




