表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/79

其之五

      五


「一睡もできなかったんだろ。……気付けに、(ぬる)(かん)でも用意しようか」


 夜明け前、朝飯に手を着けようとしない武兵衛へ、お艶が声を懸けた。


「いや、酒はいらねえ。それより、あいつらがどうしたのか――」


 すると、千足屋の手代が雨に濡れたままで、相模屋へ駆け込んで来た。


「総代、()()()(おか)()()まで来てくだせえ。……駒蔵らしき生首がッ」


「ああ、なんだとッ」


武兵衛は立ち上がった勢いそのまま、番傘も持たないで、店を飛び出した。


 江戸橋を渡って、橋の真下にある生け簀を(のぞ)き込んだ。


 ちょうど番傘を差した甚兵衛の指図で、首が引き上げられている。


 雨も降り、まだ暗いため、見物衆もいない。


 河岸に(むしろ)が広げられ、そこへ生首が置かれた。


 提灯を(かざ)すと、薄く眼と口を開けたまま、穏やかな表情を浮かべていた。


 だが、紛れもなく――駒蔵の首だった。


「うちの者が橋を通り掛かったら、暗闇の中、空っぽの生け簀に何か沈んでいると……」


 甚兵衛の話を聞きながら、武兵衛は、駒蔵の顔をまじまじと眺めた。


 頭の中で怒りや悲しみが綯い交ぜになり、ぐちゃぐちゃになっている。


 甚兵衛が傘を差し掛けてきた。


「不意に、後ろから首を()ねられたのだと思う。覚悟の死ではなかったようだ」


 ようやく武兵衛は口が利けるようになった。


「……駒蔵は死ぬ時、何を思って、こんな顔をしたんだろうな」


 瞼を閉じようとするが、できない。やむを()ず、筵で首を包んだ。


「駒蔵が死んだとなると、お香は、いったいどうなったんだ……」


呟いてみたが、武兵衛は涙が出ない。


 頭の奥が(しび)れ、(かす)みが掛かったように、何も考えられなかった。


 代わりに、甚兵衛が筵を眺めながら、言葉にして一つずつ整理した。


「俺が昨夕見かけたとき、駒蔵は相模屋の(はん)(てん)を着ていた。駒蔵を殺した奴は、わざと生首をこの生け簀に放り込んだ。だとしたら、魚河岸への()(しゆ)(ばらし)以外の何物でもねえ。官軍の御用船の役目が、急に終了した件と(つな)がっているとしたら、ただの殺しではなく、官兵の仕業――とも考えられる」


 甚兵衛の言葉を聞くと「(キン)(キレ)が殺りやがったのかッ」と叫んだ。


 武兵衛はようやく涙が(あふ)れた。


 悲しさよりも、怒りが先に込み上げてきた。血涙――というやつである。


「まだ決まってはいない。まずは駒蔵の首から下の遺骸と、お香の行方を探さなくては」


「どうやって探すんだ。……いっそ、(そう)(とく)()とやらに殴り込んだほうが早えんじゃねえか」


「殴り込むより、俺なら、市中取締役の彰義隊に()けてもらう策を選ぶ。お香の行方が分からないうちは、まだ仇討ちは後回しだ。今、蔵太様へ手紙を書くから」


 武兵衛は涙を拭くと、力無く頷いた。甚兵衛はどこまでも落ち着いていた。


「首は、どうする。そのままで相模屋へ持って行くと、お梅さんやお須磨さんが……」


「御納屋にある(おけ)と塩を借りて、(どう)(つな)ぎ合わせるまで、隠しておく」


「それが良いな。いいかえ、武兵衛さん、速まっちゃ行けないぞ」と甚兵衛は言い聞かせてから、手紙を(したた)めるために、千足屋へ戻った。


 武兵衛はまだ役人のいない御納屋へ勝手に上がり込んで、深めの桶と塩を探した。


 雨の音と共に、土の湿った匂いが風に運ばれて来る。苛苛(いらいら)する湿り気だ。


 御台所に桶も塩もあった。筵から駒蔵を取り出した。


 首は(ぞん)(がい)、重い。武兵衛ほどの大男でも「ふっ」と声を出さないと持ち上げられない。


 桶に入れ、塩漬けにすると(ふた)をした。


「駒蔵、教えてくれ。昨日、二人に何が起きたんだ。お香は何処(どこ)にいる……。誰がこんな目に遭わせやがった。俺が必ず、仇を討ってやるからな。ちいっと待っていろよ」


 武兵衛は桶を撫でながら、誓いを立てた。


 相模屋へ戻ると、桶を駒蔵とお香の部屋が使っていた離れに置いた。


「離れに立ち入るんじゃねえぞ」と店の者に厳しく注意をすると、仕事に戻った。


 何か、躰を動かしていないと、やりきれなかった。


 昼過ぎに、相模屋へ彰義隊隊士の毛利秀吉がやって来た。


 雨に濡れても、色男である。


「武兵衛。(りよう)(こく)(ひろ)(こう)()(そば)(わか)(まつ)(ちよう)()(しん)(ばん)まで()いて来い。御頭がお待ちだ。急げッ」


 だが、相変わらず、言葉はきつい。


「え……蔵太様が。手紙を読んで下さったのですか」


(のん)()に喜ぶな。お陰で()(かしら)(じき)(じき)()(さし)()となった。こっちは朝から大勢が駆り出されて、浅草から両国(へん)(にゆう)(ねん)(たん)(さく)したのだぞ。よいか、若松町まで()く参れ」


 言い捨てると、秀吉はさっと店を出て行った。


 そこで「あっ」と()(れい)な声がした。


 通り掛かった萬吉が、秀吉とぶつかった。


 武兵衛も相模屋の傘を持って、店先へ行く。


 将棋の駒の(かんざし)が落ちたのて、秀吉が拾って、萬吉の手に渡していた。


「ありがとう……ございます」


 美男美女が雨の中で、見詰め合っている。


 武兵衛は舌打ちして「急ぐんでしょ」と二人の間をわざと()()けて、歩き出した。


 傘を差した甚兵衛と佐兵衛が急いでやって来る。


「彰義隊の馬がそこに繋がれていた。……知らせでもあったか」


「甚兵衛さんのお陰だ。蔵太様の御指図で、何か見つけて下すったようだ。両国廣小路傍の若松町の自身番まで行ってくるぜ。佐兵衛さんと甚兵衛さんは商売を続けて下せえ」


 甚兵衛が「俺も行く」と反論しかけると、佐兵衛が制した。


「大将と副将が(そろ)って出張(でば)っては、魚河岸義勇軍と(かか)わりのある一件と噂が立つ。武兵衛さんは、大きな争いの種にしたくはない。……そうなのだな」


「へえ。事情がはっきりするまでは、相模屋のうちで納めておくのが最善かと」


 と応えると、武兵衛は歩き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ