其之四
四
義勇軍による、官軍の御用船の役目が突如、終了を告げられた。
江戸城の門の守衛も、すでに彰義隊から、官兵に代わっているという。
官軍と、江戸市民を巻き込んだ、彰義隊との対立が、激しさを益している証であった。
市場が落ち着いた、夕刻時。
曇り空の下、御納屋の脇で、義勇軍の調練が再開された。
この日は、柄を短くした鳶口の投げ方の教授が、再び行われた。
上半身を露わにした、武兵衛の叱咤が飛ぶ。
「ちいっとばかし、鍛錬を休んでいたとは言え、真面に的へ掠りもしねえとは情けねえぞ」
留吉は汗を拭いながら、的から外れて塀に刺さった鳶口を引っこ抜く。
「いいか、留吉。鳶口を離す時に、軽く力を抜いて、手を離すんだ。俺の見本を見やがれ」
武兵衛は留吉の鳶口を受け取ると、そのまま、勢いを付けて、的へ投げた。
調練に参加していた義勇軍衆は、的の真ん中に刺さった鳶口を、茫然と見詰めた。
「……無理でさあ、兄ィ。立っ端が違うし、俺ァ小せえから。勢いが出ねえよう」
皆の心持ちを代弁するように、留吉が頬を膨らませて、愚痴る。
武兵衛は「そんなものは、手前で工夫しろい」と大声を出した。
そこへ、甚兵衛が六番組を率いて、見廻りから戻って来た。
「梅雨の晴れ間だったから、大伝馬町、小伝馬町のほうまで廻ってみた。随分と空家が増えていた。小さな魚商や道具屋がどんどん店を畳んでいる。……総代。救える方策は、何かないものか」
景気が悪くなれば、小さい店から倒れていく。
武兵衛は、深川の小さな魚商の倅だから、身に沁みてよく分かっていた。
眉間に皺を寄せて、ううむと呻いた。
「上野への納魚だけじゃ、末の魚商までは潤わねえ。江戸の町にもっと人が戻らねえと」
魚がしの文字の入った義勇軍の袢纏を脱いで、甚兵衛は御納屋の式台に腰掛けた。
「そういや、相模屋の荷揚軽子になった駒蔵だったか。お香ちゃんと和泉橋のほうへ歩ってったよ」
武兵衛は空を見上げた。暮れかかった曇天の空は、暗かった。
「こんな刻限にか。もうじき夜だし、今にも雨が落ちてきそうなのに。和泉橋のほうへ何しに……。あの辺は彰義隊と官軍が鬩ぎ合っていて、危ねえと、言い聞かせたばかりだが」
武兵衛は首を傾げる。煙管を銜えながら、甚兵衛が眉を曇らせて話してきた。
「今日も、柳橋の北で、斬り合いがあったそうだ。錦裂が町人を甚振り殺した処へ、彰義隊が見廻りで通り掛かった。勿論、その錦裂を四人とも、ぶった斬ったそうだがね」
鳶口を置くと、留吉が言い出し難そうに、武兵衛の傍へやって来た。
「……半刻前、そこの江戸橋で会った時に、駒蔵は浅草の彫師へ行くと言ってやした。前から、お香ちゃんが彫っている処を見たがってるので、連れて行くんだって」
最後まで言い終わる前に、武兵衛は留吉の胸倉を強く掴んだ。
「浅草だとお……。遠出は止めて、彫師を近間に替えろと言っただろうがァ」
両襟を掴んだ拳をギリギリと引き上げた。手の甲の指の骨が留吉の喉仏へ喰い込む。
「武兵衛の兄ィ、俺は駒蔵じゃねえよお。落ち着いてくれ、首が苦し……、死ぬッ、死ぬッ」
「浅草の何処の彫師だッ。さっさと言え、留吉」
「……阿部川町の東治って奴です……。俺も通っているから」
「落ち着け、武兵衛さん。まだ日も暮れていない。直に戻ってくる」
甚兵衛の声で我に返り、留吉を離した。留吉は座り込んで、ゲホゲホと咳き込む。
すると、雨がポツポツと降り始めた。
「駒蔵とお香が怪我でもしたら……、お須磨さんや権助に申し訳が立たねえ」
言いようのない不安に襲われた武兵衛は、そのまま相模屋へと駆け出した。
店先で二番番頭の幸助を捉まえると、早口で命じた。
「浅草の阿部川町へ急いでくれ。彫師の東治を探し出し、駒蔵とお香がいたら連れ帰れッ」
一刻過ぎて、夕立にやられて、ずぶ濡れの幸助が、独りで戻って来た。
「東治なる彫師を見つけて尋ねましたが、半刻前に、肩の鯛の仕上げを終えて帰ったそうです」
お艶が手拭を持って来て、幸助を拭いていると、武兵衛は力なく、息を吐く。
「そんなに前なら、戻って来ているはずなのに。何処かに寄っているのか……」
「東治の話では、他の客と駒蔵が世間話をしていたそうです。大女将さんが好物の、両国の丸福が店を畳むので、饅頭を店先で配っていると。だから、両国まで行ったのではありませんか」
「両国。……日本橋とは反対方向じゃねえか。ったく、北も東も危ねえって、あれほど――」
武兵衛は夜になって、町名主へ、駒蔵とお香が行方知れずだと届け出た。
大戸を締めずに、ずっと、待っていた。
その日、二人は、とうとう戻ってこなかった。




