其之三
またまたリアクションをいただき、ありがとうございます。
読んでいただいているだけで感謝感激でありますが、
反応していただけると、完走できそうな勇気が湧いてまいります。
三
閏四月十二日、小田井蔵太が相模屋へ、ふらりと現れた。
武兵衛は、すぐに店の奥の客間へ通した。
「知らせに参ったのだ。上野宮様が江戸市民の歎願の通り、天機伺を延期したいと総督府に届け出た。すると、大総督の有栖川宮は、すんなりと宮様の御発駕の延引を決定した」
武兵衛は嬉しくなり、手代二人へ、今の話を甚兵衛と佐兵衛に伝えて来るように命じた。
「目出度うござんす。……ひとまずは安堵致しやした」
「江戸市民の熱心な歎願が大総督府を弱気にさせたのだ。合力してくれて、本当に助かった」
お艶は甘酒を持って来て、蔵太に差し出した。
蔵太は嬉しそうに、お艶を見詰めてきた。
「これは御内儀、忝い。……いつも御亭主殿をお借りしております」
蔵太が甘酒を呑んでいると、お艶は御盆を抱いて座り込んで、モジモジしながら小さい声で応えた。
「小田井様がこんなに凜凜しい御方だなんて……。わっちは化粧もなしで、お恥ずかしい」
色白で華奢な色男より、背が高く雄々しい男が、お艶の好みだ。武兵衛は苛ついた。
――おいおい、俺にあんな可愛らしい声を出したことがあったかよ……。
部屋の奥から、お鈴の音が激しく聞こえてきた。
お艶はいつもの表情に戻ると、舌打ちしてから、カッと叫んだ。
「ちょいと、おっ母さんッ。お客様がいらっしゃっているのに、煩いだろ」
お艶の声も、お鈴と、好い勝負であった。
すると、お梅が大きな判じ絵を持ってやって来た。
最近、出された『天正年中上杉謙信上洛之折から諸民太平を願って親しみ賜御図』である。
天正年間に上杉謙信が上洛する際に、越後の民が行かないように嘆願した故事を描いた――ように見せている。
だが、真ん中で乗物の前に腰掛けている上杉謙信は、実は上野宮であり、その前で歎願書を掲げて平伏する諸民は、江戸市民を示している。
この判じ絵は、絵師や板元の名もなく、法度に触れる覚悟で作られたものであった。
だが、江戸中で飛ぶように売れ、お梅のように、神棚の隣に貼り、朝晩拝む者さえいた。
お梅は勢い良く判じ絵を掲げると、大声で騒いだ。
「上野宮様は神様も同じなんだよ。錦裂なんぞに奪われて堪るかって、ずっと御先祖に祈っていたんだ。ざまあ見ろい。大総督だが知らねえが、今度も府内町民の勝ちだッ」
だが、目の前にいる、陣羽織に袴姿の蔵太に気付いて、息を漏らした。
「……ありゃ、役者絵のように立派な御方が現れなすった。目正月をさせてもらったよう」
お艶の母だけあって、男の好みは似ているようだ。
蔵太は、お梅の持っている判じ絵をじいっと見詰めると、しみじみと呟いた。
「絵師や板元までが宮様の味方だとは。まさに僥倖……。我が彰義隊も、より励まねば」
お梅は判じ絵を抱き締めながら、彰義隊士と分かった蔵太へ、頭を下げた。
「どうか宮様を御守り下さいましよ。……江戸には、彰義隊しかいないのだもの」
蔵太は、お梅に向けて、大きく頷いて見せた。
「彰義隊は宮様の守護を第一に考えております。安心してくれて構わぬ」
「嗚呼……本当に。嬉しいねえ。これでわっちはいつでもあの世へいけるよ」
お梅が嬉しくて泣き出すと、頭を抱えた武兵衛は「誰かお香を呼んでこい」と叫んだ。
店先にいた駒蔵が素早く聞くと、走って奥へ向かった。
妻の耳の代わりのための労は厭わない。
お香は、すぐに二階から下りてきた。
お梅の腕を優しく擦ると、仏壇のある部屋へ二人で下がった。
その際、お香は蔵太へしっかりと頭を下げて、挨拶も忘れない。
「今の若い女人は、……お二人の娘御では、ないようだが」
蔵太の問いに、武兵衛がすかさず、応えた。
「俺の幼馴染みの権助の妹でして。先頃、荷揚軽子の駒蔵と夫婦になったばかりです」
ちょうど、駒蔵も店先へ戻ろうとして、部屋の前を、通り掛かる。
蔵太に向かって、深々と頭を下げた。
「お香は耳が悪いのですが、駒蔵が優しい奴でして。お香の耳代わりになる、と誓った通りに、何くれとなく世話を焼いております。お香は幸せ者でござんすよ」
武兵衛が話していると、駒蔵は恥ずかしそうにしながら、店の外へ走って行った。
「駒蔵――か。拙者の倅も駒太郎と申す。まだ赤子だが。……何やら縁を感じる」
蔵太は微笑みを浮かべると、懐の財布から金小判十枚を出して、すぐに懐紙に包んだ。
「水引もなく、紙で包むだけの略式で相済まぬ。だが、駒蔵とお香へ婚儀の祝いだ」
お艶と武兵衛は「勿体ないッ」とそれぞれ手を出して、戻そうとした。
「おい、野暮は止めてくれ。江戸じゃ、一度、出した金は、もう俺のものじゃないのだろう。……田舎育ちだが、『三方一両損』の落とし噺ぐらいは知っている。どうか納めてほしい」
武兵衛に、ぽんと祝儀が渡された。
その際、蔵太の掌に幾つもの握胼胝が見えた。
「それじゃ、お言葉に甘えて……。駒蔵に渡して、大切に使わせます」
「今は、希望を口にすることもできぬ有様だ。だが、駒蔵とお香を見ていると、いかに厳しい情勢であっても、人は前を向いて歩き出せるのだと知った。こちらまで嬉しくなった」
「希望なら、ありますぜ。上野宮様と彰義隊が、俺っちに見せてくれておりまさ」
和やかな表情を浮かべていた蔵太は、武兵衛の言葉を聞くと、彰義隊頭の顔に戻った。
「魚河岸の総代に言われると身が引き締まる。がっかりさせぬよう務めよう。……毎日新鮮な魚を届けてくれて、忝い」
「いえ、大きな仕事を頂いて、魚市場も息を吹き返しました。有り難てえことです」
「互いに助かったようだな。隊士が美味いと喜んでおるし、食が進むようになって、何やら皆の活力が増した気がする。希望に応えねば罰が当たるな」
蔵太は息を吐くと、お艶と武兵衛に一揖して、相模屋を出て行った。
外には隊士が待っていた。見送った後、お艶が呟いた。
「眼の下に隈がくっきりと……。彰義隊を束ねるってえのは、御苦労も多いんだろうねえ」
武兵衛は、女房の一言を聞いて、店先まで走った。
武家を嫌っている癖に、都合の良い分だけ、彰義隊の威勢に、頼ってばかりだ、と。
だが、目の前には賊徒という大きな敵がいた。これを追い出すためには、お武家の武力が必要だった。
「町衆だけじゃ戦争はできねえんで。申し訳ねえが、縋らせてもらいます」
遠ざかっていく蔵太の背中に向かって、武兵衛は、詫びるように、頭を下げた。




