其之二
二
閏四月六日、納魚の当番として、武兵衛が江戸橋近くの御納屋に詰めていた。
朝から曇っているが、蒸し暑く、風が温い。
団扇で煽いでも、全く涼しくならない。
納魚の数も減って、仕事もなく、義勇軍の会計に来た甚兵衛の算盤の音を、ぼんやりと聞いていた。
そこに、順吉がやってきた。
「御使者之間に、佐兵衛さんと彰義隊頭取の天野八郎様がいらっしゃっております」
武兵衛と甚兵衛は、急いで御玄関傍の使者之間へ行った。
八郎は丸い顔に汗を一杯に浮かべて、頻りに手拭で拭い続けていた。
「陣羽織の下に楔帷子を着込んでおるから、目も眩む暑さでな。参った、参った」
武兵衛は順吉に、冷水を求めてくるように命じてから、八郎を改めて見た。
「俺っちに、何が御用でござんすか。呼びつけて下されば、上野に参りますものを」
「見廻りの途中に寄らせてもらった。……実は、義勇軍へ折り入って、頼みが二つある」
八郎は手拭を仕舞うと、居住まいを正して、続けた。
「上野宮様が十九日に江戸を出立し、京師に参るよう、大総督の有栖川宮から迫られておる。表向きの口実は、天機伺(天皇へのご機嫌伺い)の上洛となっている。だが、京師へ行けば、還俗させられ、官軍の手勢にされちまう。同時に、宮様を彰義隊から引き離せば、官軍は朝敵呼ばわりされずに、堂々と上野山へ戦争を仕掛けられるようになる」
武兵衛は団扇で八郎へ風を送りながら、慎重に頷く。八郎は続けた。
「そこでだ。出立を止める歎願書を出すよう、江戸市民に促して欲しいのだよ」
「宮様の上洛を阻止しねえと江戸は戦争になるってえ噂を広めりゃあ、よござんすね」
「既に上野周辺の名主衆が歎願書を差し出してくれておるが、多いに越したことはない」
「お安い御用でござんす。この前と同様、魚河岸から一日で、江戸中へ広まりまさあ」
順吉が冷水を買ってきた。
早速、天野八郎へ差し出すと、勢い良く呑み干した。
「……嗚呼、生き返った。彰義隊は大身旗本が入隊してくれて、今や三千に届く立派な軍勢となった。ただ、俄仕立ての烏合の衆に過ぎぬので、まだ戦争はできぬのさ」
聞いていた甚兵衛は、考えが纏まったのか、顔を上げて、八郎に尋ねた。
「烏合の衆なら、官軍もまた同じです。懸念があるとすれば、大身ではない御頭の蔵太様の御指図を、大身旗本衆が素直に聞き入れるか……ですな」
八郎は困った顔で、額に手を当てて、大袈裟に頷いた。
「当に、それで揉めておる。蔵太の石高が低いから、彰義隊に身は置けぬ、などと愚図る者もおってな。蔵太は田安家に掛け合って、大身旗本から、新たな御頭を出そうと考えている」
驚いた武兵衛は、団扇を動かす手を止めた。
「え……。蔵太様は彰義隊の御頭を辞めて仕舞うのでござんすか」
「頭並で構わんなどと、ほざいておる。私よりも公を重んじる奴らしい言草だ。だが、俺は絶対に嫌だ。あいつに頭でいて欲しい。……だが本人が譲る気だから、打つ手がない」
今度は、佐兵衛がゆっくりと口を開いた。
「この近くにある〈い世本〉でも、先日の談判での蔵太様の武勇伝は、講談だけではなく、落とし噺の枕にも登場するほどの人気です。田安家が、小田井様を、御頭から下ろすとは思えませぬが」
「圓朝の枕に蔵太の名が出たと、隊士が申していた。さすがに、蔵太も喜んでいたよ。……ああ、もう一つ、頼みがあった。こちらが本題だ」
八郎は手拭いを出して、汗をさっと拭うと、続けた。
「ようやく寛永寺の許しが出てな。寒松院の傍に御膳所を設けた。彰義隊と諸隊のみ、山内で魚を喰えるようになった。なにせ『三日魚を食せざれば、骨皆な離る』だからな。日本橋の魚会所から魚を買いたい。もちろん相場通りの値段を払渡す」
彰義隊と諸隊を合わせて三千人分以上――。とんでもない大商いであった。
武兵衛は「喜んで納魚させていただきやす」と頭を下げた。
これで、やっと、市場が息を吹き返す。
総代として、心から安堵した。
「彰義隊は明日が分からぬから、掛買はせぬ。その度に払渡すので安心致せ。前日に納魚の種類と数を知らせる。翌朝、黒門まで運んでくれれば、その日のうちに魚代を渡そう」
「そんな豪気な……。毎日、払ってくださるのですか」
甚兵衛が、思わず声を上擦らせた。八郎は、茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべた。
「彰義隊には、寛永寺が付いておるからな。あそこの金蔵には千両箱が唸っておる」
本石町の時鐘が未ノ刻(午後二時)を告げた。八郎は、刀を掴むと、立ち上がった。
「では、総代。歎願と納魚の件、お頼み致しますぞ。毎度、彰義隊は江戸市民に助けられてばかりで申し訳ないのだが。宮様を官軍に奪われるわけには行かぬのでな」
八郎が頭を下げた。
武兵衛は「顔を上げておくんなさい」と慌てて叫んだ。
佐兵衛が落ち着いた声で、八郎へ語りかけた。
「徳川家の継承も定まらぬ中、江戸市民こそ、上野宮様と彰義隊を縁にして、どうにか息をしております。更に、奥州で盟約が固まり、宮様が大号令を発して、江戸におる朝敵の賊徒を一掃して下さる日を待ち続けている。我等は幾らでも役に立って見せます」
「奥州の話だが、数日後に白石城で盟約を結ぶための寄合が持たれる。十以上の大名が参集するようだ。盟約が成れば、会津軍は近隣との戦争に備えていた兵を、江戸方面へ廻せる。……そうなれば、彰義隊と呼応して、官軍への反撃がいよいよ始まるって寸法だ」
待ち望んでいた言葉だった。武兵衛は胸がカッと熱くなった。
「これで賊徒から、江戸を取り戻せる……。彼奴らを追い出せるのでございますね」
「どうせ、禁裏は、奥州盟約による、会津と荘内の朝敵解除の歎願なぞ、聞き入れちゃくれねえからな。自ずと、江戸奪還の道へ進むことになろうさ」
八郎は笑いながら、市中見廻りへ戻って行った。
見送ると、武兵衛はすぐに御用部屋に戻って、算盤を手にした。
いろいろと胸が高鳴る話を聞いて、興奮していた。
だが、魚河岸衆の総代としては、まずは商売が先だ。
「上野山へ魚が売れるなんて、考えてもいなかった。有り難てえ話だ。これで日本橋の肴問屋衆も、どうにか凌いでいけそうだぜ」
佐兵衛と甚兵衛も安堵の顔となり「東照神君の御加護に違いない」と大いに頷いた。
景気が良くなれば、舌が滑らかになり、政事話の毒も強くなる。甚兵衛が口を開いた。
「〈中外新聞〉によれば、京師では外国との談判で四苦八苦している。政事も、律令などと太古の言葉が飛び出す始末だ。……奴等に日本を束ねる才覚があるとは思えねえ」
「徳川様から学ぶべきだな」と佐兵衛も嗤った。
甚兵衛が、袖から冊子を取り出した。
「先日、出版された〈江湖新聞〉だ。我が知己で、元外国奉行の福地源一郎様が主宰している。〈中外新聞〉より砕けているが、こちらも益になる種を教えてくれる」
難しい話からは退散とばかり、武兵衛は「噂を広めてくるぜ」と立ち上がった。
「おお、そうだった。歎願書が沢山集まるように、俺と甚兵衛さんも張り切らねば」
佐兵衛も腰を上げた。甚兵衛は話の腰を折られたが、機嫌は良かった。
「〈江湖新聞〉の話は、歎願書がうまくいってからでも構わんな」
三人はそれぞれに散って、市場の彼方此方で話した。
やがて日本橋から両国の四文屋へ、また江戸の町々の湯屋で、噂として口から口へ伝わり、江戸府内の隅々にまで、みるみるうちに広まった。
「宮様が江戸からいなくなったら、錦裂野郎は直ぐさま、彰義隊をぶっ潰そうと上野山へ討ち入って、江戸を火炎地獄にする気だってよ。彼奴らなら、遣りかねねえぜ」
冗談ではない、と翌日から寛永寺の黒門前に、多くの人びとが詰め掛けた。
「上洛などしないで江戸に留まって下さいと、どうか宮様へ伝えてくだされ」
門番に詰め寄り、口々に宮様への歎願を叫んだ。
騒動は閏四月六日から、三日以上も続き、日に日に黒門へ集まる人数が増えていった。
他方で、様々な町の名主が連名で認めた歎願書が、寛永寺へ山のように届けられた。
「御勅使様一行が入城して以来、近郷で戦争が続き、我等都下の市民は心を痛めております。御門主様が東都を発っせられたなら、町人共は途方に暮れてしまいます。都下の鎮撫が行き届き、安心して暮らせるまで御発都をお留まり下さい。伏して歎願致します」
歎願の一件は、更に〈中外新聞〉の記事となり、錦絵としても、江戸中へ伝播した。
日本橋の魚河岸では、数日後から、彰義隊への納魚が始まった。
高級魚はなく、すぐに揃えやすい、旬の魚の大口の注文であった。
何より、掛け売りではなく、その日払いが大きかった。
肴問屋衆に金が支払われれば、魚を運んできた船頭、漁師も、すぐに潤う。
魚会所の月行事の差配で、肴問屋に満遍なく魚数を割り振った。
そのお陰で、魚市場も、徐々に、活気を取り戻していった。




