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其之五

       五


薩摩を追い払った江戸では、翌日から安堵した人びとが町へ出るようになり、活気が戻り始めた。

 魚河岸衆も張り切って動き出した。

 戦勝に沸いた中で、()(わす)も押し迫って来れば、財布の紐も(わず)かに緩む。このままの勢いで、正月二日の初売へ(なだ)れ込みたいものだ。


朝焼けを眺めながら、白い息を吐くと、元旦以外の武兵衛の一日の営みが始まった。


「……今日は大掃除、明日は餅搗(もちつ)きだ。何よりも稼がねえといけねえ。軽子衆に正月の小遣いを弾んでやりてえしなあ」


 魚の荷を運ぶ軽子の多くは出稼ぎ人で、正月前に江戸へ出て、春が過ぎると故郷へ戻る。 

 だからなるたけ正月前後に利益を上げ、少しでも多く銭を渡してやりたいと考えていた。

武兵衛が板舟を並べていると、使い軽子の駒蔵が通り過ぎて、また戻ってきた。


「相模屋の旦那ァ、相変わらずに早起きでござんすねえ」


 駒蔵は、勢い良く、袖を捲った。まだ細工の途中で、輪郭だけの波の彫物(ガマン)が見える。


 使い軽子は肴問屋に属していない。

 棒()()()や料理茶屋の庖丁人などの買出人が仲買から購った魚を纏めて、買出人が指定した潮待(しおまち)茶屋まで運ぶ役目だ。

 市場では下っ端だが、買出人と粋な()()りができぬでは勤まらない。

 駒蔵は十九歳だが、機転が利く、売れっ子の使い軽子である。


「使い軽子は魚が揃ってからが勝負だろ。こんなに早起きするこたあねえんだぜ」


「昨夜から、おっかぁの具合が悪くって。下手に夜明けに寝ちまうと遅刻しちまうから」


 武兵衛は袖の中から小さな巾着袋を出して、(いち)()(ぎん)を二枚ほど渡した。


「お須磨さんと言ったっけ。寝付いたままか。精が付くから、(うなぎ)でも買って遣りなよ」


 諸色高騰の激しい昨今では、鰻を買うにも、これぐらいは()る。


 駒蔵は左手の中にある二つの一分銀を見て、慌てて頭を下げた。


「そんなつもりでおっかぁの話をした訳じゃねえのに。ありがとうございます」


 出稼ぎの軽子が多い中、駒蔵は珍しく、平松町の裏長屋で生まれ育った江戸っ子である。

 武兵衛は、ちょっと揶揄(からか)いたくなって、駒蔵の袖から見える半端な彫物を指さした。


「くれぐれも彫物に色を入れるほうに使うんじゃねえぞ。親孝行を忘れるなよ」


 威勢良く「へえ」と応えると、駒蔵は一分銀二枚を大切に仕舞った。


「旦那ァ、見て下せえ。どんどん船が入って参りましたよ。今日は忙しくなりそうです」


 駒蔵の声で、武兵衛は顔を上げた。

 店先から日本橋川を眺めると、大きな押送(おしよくり)(ぶね)や高瀬舟、(ちよ)()船が魚を山と積んで、競うように上ってくる。


 朝焼けの空を背にして、ちょうど大型の押送船がやって来た。


水主(かこ)が陽に焼けてら。ありゃあ三崎辺りから、魚を運んで来たんだな」


 大きい押送船は、(ちよう)()からは利根川を上り、または木更津や伊豆など、遠くの海から新鮮な魚を江戸へ届けて来る。速さは蒸気軍艦にも劣らない。


相模屋は名の通り、相州小田原から伊豆辺りに(もち)(うら)(漁場)がある。

 押送船を持っている運び屋こと(たび)(にん)と契約し、季節の鮮魚(なま)や干魚、山葵(わさび)等の商いを主としていた。

 ほかに品川や富津、館山の漁師から、江戸前の鮮魚や貝類を仕入れている。


 魚や貝はすぐに傷んでしまう。少しでも早く店に並べて、売り切らねばならない。

 押送船が川岸から繋がっている平田船へ横着すると、さっそく平田役の小揚衆が、平田船の上に立って、押送船の荷を陸へ揚げ始めた。


 小揚衆から魚を受け取る肴問屋の軽子衆は、誰しもが寒さなど気にせず、自慢の彫物(ガマン)を見せたくて肩を出す。魚河岸では「達磨」や「鯉」の彫物が人気であった。


 武兵衛は早朝に、活気ある市場の様子を眺めるのが、何よりも好きである。


「日本橋の魚河岸衆は、いつ見ても手際が良い。さすがは日本一の魚市場だ」


 ふと品川の傳吉の顔が浮かんだ。大丈夫だっただろうか。

 思わず、水神大神様に向かって、手を合わせた。


「傳さんが、無事に顔を見せてくれますように……」


 すると、川の向こうから「相模屋の旦那ァ」と明るい声が聞こえた。


 傳吉の猪牙舟が芝海老と貝を沢山積んで、日本橋川へ現れた。


 武兵衛は、ホッと胸を撫で下ろした。


 二十八日になると、()(こう)()は二度と不逞の徒が江戸に入らぬようにと、橋番所のない橋の袂に、新たに番所を設け、柵門を建てた。


 町人の風体をしていれば(すい)()されずに橋を渡れるから、()(ほど)の不便は感じなかった。それよりも、橋固めと()(ちゆう)(けい)()のおかげで、薩摩の報復を恐れずに、正月を迎えられそうだ。


 餅搗(もちつ)きが済んだ頃、肴問屋は、()()()を始める。

 正月初売で店に並べる魚を、日本橋川の(いけ)()の分では足りないから、穴蔵やだんべいに貯蔵していく。

 獲れたての鮮魚が持て(はや)される江戸だが、寒風の地下で熟成される魚の味は、年に一度の名物であった。


 大晦日は、番頭の伊右衛門と幸助、手代が手分けして掛け取りのために江戸中を奔走。 

 武兵衛やお艶は、二日の初売で渡す手拭に、相模屋と記した()()(がみ)を捲き続けた。


 夜遅く、店の者が勢揃いすると、(みそ)()蕎麦(そば)を食べる。

 後は、(とし)(がみ)(さま)を迎えるため、売れ残った魚の煮付けを肴に、酒を呑みながら、明け方の元旦を告げる時鐘を待つ。


 元旦の夜明けまでは、(わらべ)であっても眠らない。

 この(なら)わしは、武家でも町家でも同じであった。

 武兵衛の膝に座っているぽん太が、舟を漕ぎ始めると、皆で笑わせて起こす。

 お梅は大女将として、武兵衛の隣に座り、大好きな酒を呑みながら、口を開いた。


「……(おお)三十(みそ)()の今夜だけはね、早く寝ると白髪が増えるし、皺が寄っちまうからね。お艶もこっちへいらっしゃいよ」


「分かっているけど、お母っさん。こっちは、三日分の雑煮や露汁を拵えているんだよ」


 お艶は女中や下女、番頭の女房らと手分けして、雑煮や、数の子、煮豆、田作(ごまめ)等の(くい)(つみ)と、人参、牛蒡、芋や豆腐に蒲鉾の御(せち)を用意していた。

 歳神様への供物の(くい)(つみ)(だい)は別だ。


 なにせ、元旦は千代田城で儀式があり、火事は困るとして、湯屋以外は、火を使ってはならない決まりがある。


 そのため、この夜のうちに、三日分の食べ物を作り置かなければならない。


 武兵衛は空になった徳利を持って「居間の燗酒が足りねえ」とお艶の背中に声を懸ける。


 振り向いたお艶は、左の引眉をひくつかせながら、大声で愚痴った。


「自分で用意しなッ。……まったく、馬鹿げている。女ばっかし、ずっと働き詰めなんてさ」


 相模屋の女将の怒声。これもまた、(おお)三十(みそ)()の風物詩のひとつであった。


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