第七章 報復 其之一
第七章 報復
一
閏四月に入っても、江戸での物価の高騰は止まなかった。
府内商人の生業が衰微すると、下請けである末端の商家では離散する者、首縊りや身投げも増えた。
こうした江戸府内町人の苦境を全く顧みることなく、官軍の江戸在陣による町家の出費は、嵩む一方であった。
負担に苦しむ名主衆は幾度も、町奉行所へ窮状を訴えた。
日本橋魚市場では、江戸に人が戻った分、魚が売れるようになった。お陰で、相模屋もどうにか生計は成り立っている。
「拝搗の米にゃ魚が欠かせねえ。なにせ江戸っ子は三日、魚を食わねえと死んじまうって聞くしなァ。って……おい、駒蔵ッ。お前、この不景気に彫物なんぞ増やしやがって」
店仕舞の支度をしていた際、、駒蔵の腕の彫物に、更に色が増えているのを、武兵衛が見つけた。
「……俺の若え頃とは違う。先が見えねえ世の中で、銭を彫物なんぞに使うなって話だ」
駒蔵は、今では相模屋の荷揚軽子である。
と言うわけで、主人である武兵衛の前で、慇懃に両手を突いた。
「黙っていたのは、お香と、いえ、お香ちゃんと祝言を挙げるまでに仕上げておいて、吃驚させたかったからです。浅草に腕が良くて安く彫ってくれる人がいるので通っています」
「浅草だと。やけに遠いじゃねえか。今は辻斬りや錦裂が彷徨いて危ねえんだ。もっと近くで探せ。大伝馬町辺りに、魚河岸衆がよく使う彫師がいろいろあるだろうが」
「前に通っていましたが、高いので止めました。銭は、ちゃんと貯めています」
武兵衛は袖の中から小さな巾着袋を出して、一分銀を三枚、畳の上に置いた。
隣の部屋で、ぽん太と綾取りをしていたお香が、さっと立つ。
そのまま、駒蔵の隣に座ると、三枚の一分銀をぐいと、武兵衛へと押し戻した。
「要らねえってことか。お香……」
お香は頭を縦に振ると、懐から小さい財布を取り出し、そのまま駒蔵へ渡した。
「お香……ちゃん。そんな野暮は、できねえよ。俺の彫物は、自分で稼いだ銭で刻むんだ」
武兵衛は駒蔵の肩を強く叩いた。
細い躰は前へ傾き、痛そうな顔をしている。
「それでこそ、漢だ。祝言は、もう少し落ち着いたら、挙げような」
駒蔵はお香とじっと見つめ合っていて、半分も聞いていない。お香も同じように、駒蔵を見つめて、ちっとも武兵衛を見ようともしない。
「嗚呼、もう見ていらんねえ。祝言まで待てねえって顔してやがる。……お艶、一階の物置にしている離れだが、駒蔵とお香の夫婦部屋にしたら、どうだろうか」
駒蔵が驚いて武兵衛を凝視する。お香も察して、同じように見詰めてきた。
お艶は、熱いお茶を出しながら、武兵衛の横に座った。
「この前は、理ない仲だと聞いて憤慨していたのに、許すのかい。駒蔵とお香ちゃんを」
茶を呑む心の余裕はない。煙管に煙草を詰めながら、ブツブツと小さい声で返す。
「許さねえったって、できちまったもんは、元に戻せねえだろ。お須磨さんもお香ならと喜んでくれている。だったら、もう俺がとやかく嘴を容れる余地なんぞねえ」
駒蔵は武兵衛とお艶を交互に見上げて、畳に額を擦り付けた。
「天地神明に誓って、必ずお香を幸せにするし、いつの日か店を持てるように精進します」
隣のお香は駒蔵の様子を見ると、話の内容を察して、嬉し涙を浮かべながら、躰を折った。
綾取りの続きをせがみにやって来たぽん太が、お香に尋ねた。
「お姉ちゃん、相模屋からいなくなっちゃうの」
すぐに応えることができないお香に代わって、お艶が話した。
「先の話さ。お香姉ちゃんはね、駒蔵と夫婦になるけれど、当分は相模屋で暮らすから」
ぽん太は小さく頷くと、畳に顔を着けているお香の背中にしがみ付いた。
気が付いたお香が躰を起こして、ぽん太の頭を優しく撫でる。
「もっと早くお香を相模屋へ連れて来るんだった。ぽん太は姉ちゃんが欲しかったんだな」
聞いていたお艶が、武兵衛の尻をキツく抓ってくる。痛えッと心の中で叫ぶ。
「馬鹿だね、お前さん。妹だって、弟だって……これから作れば好いじゃないか」
見上げてくる眸が甘く潤んでいる。武兵衛に誘いを断る謂れはない。
「そうだなぁ。……若い夫婦に負けていられねえや。今夜、励むか」
「その言葉、忘れないでおくれ。……すぐ、呑みに行っちまうから」
「分かった、分かった。今夜は出掛けねえよ」
ふと見ると、顔を上げた駒蔵が、頬を朱に染めている。
恥ずかしいと言うよりも、決意のため、紅潮しているようだった。
「旦那様、離れの掃除ですが。お香と一緒に、すぐに取り掛かってもよろしいのでしょうか」
武兵衛はすぐに、駒蔵を睨み付けた。
「べらんめえ、調子に乗るんじゃねえや。気が早すぎるんだよ」
駒蔵は口を尖らせて、ブツブツと呟いた。
「仕方がねえじゃありませんか。一日でも早く、お香と暮らしたいんですから」
「はァァ。何だと……」
武兵衛は口を開けたまま、言葉が返せない。
すると、お艶が面白がって、笑い出した。
「威勢がいいね、駒蔵。それでこそ、漢だ。相模屋武兵衛に負けるんじゃないよ」
二階から、お梅が下りてきた。足腰だけは、しっかりしており、歩き方も危なげない。
「ちょいと、騒がしくしなさんな。臥せっているお須磨さんが起きちまうよ」
武兵衛は驚いた。袢纏姿で帳場に座っていた頃のように、今日はしっかりしている。
「違うのよ、おっ母さん。祝言は後にして、そこの離れで、二人は夫婦として暮らすのさ」
お艶が訳を話すと、お梅は戸棚の上のほうに隠していた皿を持って来る。
そのまま、駒蔵とお香の前に置いた。皿には、饅頭が四つ並んでいた。
「両国名物、丸福のお饅頭だ。わっちの大好物だが、二人の門出を祝ってみんな遣るよ」
お香は、お梅の口許を見て、言葉を解した。
「勿体ない。一緒に、食べましょ……う」
お香は、ぽん太に一つ渡すと、もう一つの饅頭を半分に割って、駒蔵に渡した。
お梅の持って来た皿には饅頭が二つ残っている。
駒蔵は半分の饅頭を手にしたまま、頭を下げた。
「大女将さん、ありがとうございます。いただきます」
言い終わると、お香と仲睦まじく、見詰め合いながら、半分ずつの饅頭を口に入れた。
お梅も嬉しそうに、饅頭を一つだけ口に入れた。入歯だがしっかり噛んで呑み込む。
「残りの一つは、お香と駒蔵でお須磨さんに持ってお行き。夫婦になる話を知らせなきゃ」
お梅の言葉を聞きながら、武兵衛は、嬉し涙で目の前がぼんやりとした。
「……優しくて、似合いの夫婦だな。もう負けたぜ。離れの片付けを手伝ってやる。独りになるお須磨さんにゃ先代の部屋はデカすぎる。二階の空き部屋で暮らすといいや」
そこへ、懐かしい顔がやって来た。三番組の年寄同心、臨時廻の遠藤定三郎である。
「東海道鎮撫総督府が、御番所に市中の取締を頼んで来たから。また、ぶらぶら見廻りが再開したんだ」
勘定場手前の小上がりに定三郎が腰掛けた。武兵衛は煙草盆を差し出す。
「気をつけろよ、武兵衛。魚河岸義勇軍は彰義隊と連んでいるから、官軍に煙たがれている。……あまり、出しゃばらねえほうが、身のためだ」
「はあ、しかしですねえ。義勇軍は船を使って、官軍の御用も務めておりますんで。彰義隊だって、御門の護衛を担っているとか。つまりはどちらも錦裂を助けているって寸法で」
恍けた顔で武兵衛がぼやくと、定三郎は煙草の灰をカンと音をさせて落とす。
「なんだってえ。……官軍ってえのも、訳が分からねえな。心配して損をしたぜ」
すると、店の外から、大きな歌声が聞こえてくる。
「♪一ツトセ、日の本中をしろしめす、御上の御恩の有り難き、コノばんぜらく、
二ツトセ、再び栄える千代の萩、萬国中に並びなき、コノしたわしや、
三ツトセ、御代の柱は島津様、忠義にかたひいし心、コノ潔き――♪」
武兵衛は「塩撒いてこいッ」と叫んだ。歌はまだ続いている。定三郎が呟いた。
「ありゃ、官軍さんの唄だな。〈国尽くし一ツトセ節〉ってやつだ。京の金……じゃなかった、禁裏様や長州、薩摩、尾張や土佐、彦根を褒め称える数え唄で、十六まである」
二番番頭の幸助が塩の入った壺を抱えて、店先から戻ってきた。
「塩を撒いておきましたが、気付きもせずに、酔っ払った官兵が通り過ぎて行きましたよ」
定三郎は煙管を仕舞うと、静かに立ち上がった。
「とにかく、町家の者は、武家のいざこざに巻き込まれねえようにな。静かにしていろよ」
忠告は有り難かった。だが、武兵衛は定三郎の言葉を、そのまま受け入れられない。
去っていった定三郎の背中を見ながら、つい言葉が口から零れ出る。
「静かにしていろだと。……いつまで大人しくしていれば、官軍は消えてくれるんでござんすかねえ」
――いつもそうだ。御番所は江戸に暮らす町人を守っちゃくれねえ癖に、大層な御託だけ並べやがる……。
その点、彰義隊は違う。
町人と一緒に官軍と戦ってくれている。頼もしい相棒だ。
「どちらかを選べと言われたら、俺っちは梁山泊だ。御番所ではなく、彰義隊に附く」
武兵衛は頬に止まった蚊を叩き潰した。
蚊が増えて、空気が蒸し始めると、梅雨は、もうすぐだ。




