其之四
四
覚王院が本坊たる円頓院へ、衆議を諮りに行ったまま、戻って来ない。
武兵衛は、義勇軍の一番組が休む、彰義隊の本陣の寒松院で、辰五郎と共に衆議の終了を待っていた。
気が付けば、陽は傾き、不忍池の水面を茜色に染める、暮六ツ(午後七時)になっていた。
少し焦れてきた武兵衛と違い、辰五郎は瞼を閉じて、煙草を悠然と喫っている。
だが、武兵衛の苛立ちを察したのか、ぼそりと声を懸けてきた。
「日本一の寺院だからな、坊さんの数も多い。意見が纏まるには刻が掛かるもんだ」
「〈中外新聞〉によると、官軍は神祇官を置く――ようです。甚兵衛さん曰く、官軍の多くが学んだ国学ってえ学問は、仏教や儒教だの外国から流れてきた全てを拒絶しているとか。つまり、坊さんをなくそうとまで考えてやがる。……そうなるってえと、寛永寺はどうなるんでしょうね」
武兵衛も煙管を取り出しながら、辰五郎へ尋ねた。低く落ち着いた声が返ってきた。
「……徹底して、潰しに懸かってくるやもしれねえやなァ」
そこへ、肩に銃を掛けた蔵太がやって来た。
「敵の伝令を捕え、密書を手に入れた。……本日、我が天兵による、宇都宮城攻めが始まったらしい。小山のような大勝利となれば、日光山が近付く」
「それじゃ、とうとう大号令を。宮様が動かれなさるんですかい」
嬉しさが抑えきれないまま、上擦った声で、武兵衛が尋ねた。
蔵太は西洋式の石帯に付いている鉄鉋玉袋を広げながら応える。
「宮様の御動座については明日の衆議で決まる。今は、官軍への返答で大論争をしていた」
辰五郎が煙管の灰を落とし、呟いた。
「宮様が動かれる前に、どうにか山を囲んでいる官軍を追い払いてえものだが」
蔵太が鉄鉋玉を一つ、元込式銃へ押し込んだ。珍しいので、武兵衛は尋ねた。
「その銃、先っちょから玉を入れねえんですな。初めて見ましたぜ」
「元込式なのだ。……捕えた伝令から頂戴した。最新の英吉利のシナイドル銃だ。使える代物か、試し撃ちをしたいのだが。山内では殺生ができぬゆえ、山外へ行ってくる」
「小田井様、俺も御供いたしやす」
武兵衛は暇を持て余していたので、彰の字の入った提灯を手にした。
すっかり陽は暮れている。
蔵太と共に、寒松院の大きな門を出ると、谷中道を西へ向かった。
清水門から山外へと暗闇坂を歩き出した。寛永寺を囲むように雑木林が広がっている。
多くの蛙が鳴いていて、騒々しいほどだ。
ふと見ると、蔵太の眸は、彰義隊頭というよりは、狩人の鋭さに変わっていった。
「この辺りで狸や狐を見かけた。獣の気配は、先程から、ずっと……」
蛙の鳴き声とは違い、林の中でカサッと枯葉を踏む、小さい音がした。
「狐ではないな。眼が赤く光っているが、猫だ。やはり、蝦夷とは違うな」
蔵太が見つめた方角へ提灯を翳すと、確かに二つの小さな赤い光が此方を見ていた。
「……蝦夷の森では熊のほか、何が出るんですかえ」
「兎に、鹿や狐だ。蝦夷での旅では宿場がないから、食べ物を得るため、随分と狩った」
「箱館の廻船問屋の知り合いから聞いたのですが、蝦夷の熊は、どえらく大きいそうで」
「蝦夷の民は、熊を神と呼んでいた。見上げるほどに大きい奴に襲い掛られた時は、殺されるかと思った。……あれほどの殺気を人から向けられた覚えはない」
蔵太は喋るのを止めると、宵闇の林に向けて、銃を構えた。
「……山内へ忍び込もうとする怪しい奴め。出て来ないと、頭を撃ち抜くぞ」
草を踏む音が迫ってきた。
武兵衛は音の方へと、提灯を翳した。
すると、暗がりから、毛利秀吉が現れた。
「あれえ、毛利様じゃござんせんか」
先に、武兵衛が声を懸けた。そのあと、穏やかな声で、蔵太が口を開いた。
「殺気がなかったから、敵兵ではないと感じたが。……どうした秀吉」
「御頭……。本陣へ戻ろうとした処、何処の門も〆切か、敵兵がおり、入れなかったもので」
「合語は」との問いに、秀吉は恰も少女のように恥じらい、頬を朱に染めて俯いた。
「申し訳ありません。本日の合語を、知りません」
武兵衛は、昨日の新吉原で起きたあれこれを頭に浮かべた。
「つまり、秀吉様は……小稲花魁と。んで、そのまま泊まって来たって寸法ですかえ」
秀吉は蔵太へ深く躰を折ると「日暮れまで引き留められました」と土の上に額突いた。
蔵太は銃を下げて、秀吉の頭の近くに、片膝を突く。
「やっぱり喰われちまったか。其方は初心だ。初めての相手が、天下の小稲花魁だったことは、幸か不幸か。……今回だけは見逃そう。本日の合語は〈松〉に〈風〉だ。忘れるなよ」
秀吉は平素の強気な眸を何処かへ仕舞い込み、顔を上げると小さく頷いた。
――こんな色男が二十歳前で初めてだと。俺があの顔に生まれたら、餓鬼の時分からずっと遊びまくっているのに……。
心でぼやいていると、不意に、蔵太と眼が合った。
「恐らく、互いに同じことを考えている。……実に勿体ないと」
「蔵太様は、どうなんですかえ。人気者でしょう、彰義隊頭ですから」
「この御役を拝命してすぐに、妻のお結と生まれたばかりの駒太郎は、八郎殿の妻子と共に御府外へ逃した。……以来、女っ気は一切ない。遊んでいる暇などないからな」
清水門のほうから、隊士がやって来た。
「松」と声を掛けてきたので、すっかりいつもの調子に戻った秀吉が「風」と応えた。
蛙の声が大きいので、隊士は少し声を張った。
「御頭、……覚王院様が呼んでおります。衆議が終わり、談判が再開されるとのことです」
「そうか、御苦労だったな」と隊士に応えると、蔵太は意気揚揚と清水門へ戻って行く。
秀吉と迎えの隊士も一緒にその後ろを従いて行く。ふと、尋ねてみた。
「蔵太様、彰義隊は毎日、合語を変えていなさるのですかえ」
「そうだ。揃いの隊服がない上に、寄せ集めだから。偽者がすぐに出る。更に、官軍の斥候も近頃、入り込もうと躍起になっていてな。面倒いが、彰義隊を守るために合語は厳しくしている」
――しっかりしていらぁ。どこまでも信の置ける御頭様だぜ……。
武兵衛は感心しながら、胸一杯に息を吸った。湿った夏の夜の匂いがした。




