其之二
二
上野は嘗て忍岡と称した。
いつの時代か、山の上には、城が築かれていたという。
「魚河岸義勇軍、参上ッ」
黒門の前に到着すると、〈魚がし〉の揃いの袢纏で、一番組を従えた武兵衛が威勢良く、名乗りを上げた。
「何や、貴様らは。目ん前にある大砲ば見よ。奉納などと申しとう情勢じゃなかろうが」
黒門の門前にいた、佐賀兵に止められた。
駒蔵は本心を隠し、わざと遜った様子で前に出ると、愛想よく、返事した。
「奉納は昨日より寛永寺より、お許しを頂いておりましたもの。選りすぐりの鮮魚をお持ちしておりますので、日延べはどうか御勘弁下さいまし」
駒蔵が見せた笊の葉蘭の上には、立派な鯛が載っている。
「山に入れば、死んかもしれんぞ。ばってん、良かか」
佐賀の兵士が、町人とばかりに侮って、脅してきた。
駒蔵の後ろにいた留吉が我慢仕切れなくなり、聞こえるように、ぼやいた。
「佐賀と言やあ、鍋島様か。うちの店は上屋敷の御膳所へ魚を納めていた。『最初の御台場に据えた大砲は、全て佐賀で造られたものだ。御公儀に納められて誉れである』などと、随分と自慢話を聞かされたもんですがねえ。あっさりと二君に仕えやがって、この裏切り者めが」
佐賀兵が「何やとこいつ」と銃を構えた。
武兵衛は袢纏の中へ手を入れて、そっと鳶口を掴む。
すると黒門の脇戸から、銃を構えた彰義隊士を従えて、美しい小坊主が出てきた。
「魚河岸衆の方々、お待ちしておりました。どうぞ、中へ」
小坊主の言葉を聞いて、佐賀兵は引くしかなく、義勇軍は堂々と山内へ入ることができた。
「御廟への奉納に参りましょう。……談判まで、まだ刻がありますゆえ」
歩きながら、小坊主が喋った。隊士は黙って護衛を続ける。
門を入ってすぐ、向かって右側に番屋が見えた。
寺社奉行所と町奉行所から同心が配されていた。それらを総称した「山同心」が名物だったが――今は姿が見えず、彰義隊の隊士が詰めていた。
かつて泰平の頃、桜の時季に花見客が押し寄せると、「酒は差し許すが、山内で魚を喰ってはならぬぞ」と、山同心が、持ち込む荷物を一々確かめたものだ。
あの煩わしさすら、懐かしい。
門から長く緩い坂を上り、日吉山王社を右に見ながら、清水観音堂と文殊楼の脇を通っていく。
左に見えた大仏殿へ一礼して、また歩く。
ようやく五重塔が見えてきた。
その近くにある、東照宮の御門前まで行くと、別の僧侶が立っていた。
武兵衛の手により、鯛の載った笊が僧侶に渡され、門の中へ入っていく。
門から遠くに廟の建物が見える。
皆で合図し、片肌を脱いで、彫物を見せた。
「相模屋武兵衛、並びに日本橋魚河岸義勇軍にござんす。ご挨拶が遅れましたが、本年もよろしくお願い申し上げます」
武兵衛の言葉で、一番組は皆で頭を垂れて手を合わせた。
暫くして顔を上げる。
すると、留吉が抑え気味に「駒蔵ッ。手前、いつの間に色を入れてやがった」と騒いだ。
武兵衛がすぐ傍にいた駒蔵の肩を見ると、刀傷のない右側の肩に、先日まで線しか入ってなかった鯛の彫物に色が付いていた。
「お香も綺麗だって、褒めてくれてんだぜ。東照大権現様に御披露できて嬉しいや」
武兵衛が睨むと、駒蔵は慌てて「お香ちゃん」と言い直した。
「挨拶はもうよろしいですか。小田井殿がお待ちですから、ご案内致します」
小坊主は再び歩き出した。
すると、黒門の外から大勢の声による木遣が聞こえてきた。
祭りが待ちきれない童のように、義勇軍の一番組は、東照宮から文殊楼まで戻った。
坂の下を見ると、を組の袢纏を着た二百人近くが、黒門の外にずらりと並んでいた。
袢纏を着ていない者もいる。噂に聞く、浅草の龍虎隊のようだ。
先頭には、新門辰五郎が立っていた。佐賀兵が道をあけ、門はすぐに開いた。
駒蔵が「うわー、すげえや。兵がびびってら」と感動をそのまま口にした。
武兵衛も、しみじみと感心した。
――見事だなァ。辰親方ともなると、武士すら物ともしねえんだな……。
二百人のほとんどは門の中へ入ると、立ち止まった。
辰五郎が、十人ほどの若頭衆を連れて、長い坂を上ってきた。
武兵衛が迎えようと、坂を下った。
「辰親方、木遣に痺れましたぜ。こっからは、ご一緒いたしましょう」
辰五郎が見上げて、「おお、義勇軍の」と頷くと、並んで歩き始めた。
待っていた、護衛の隊士と小坊主が先導する。
低い声で辰五郎が、口を開いた。
「今、上野御山を一巡りしてきた。敵兵は、ざっと、千二、三百人だったな。数カ所、塀のねえ処があった。今宵、仮の塀を造り、御山へ容易く入れねえようにしておく」
「何故、奴らは御山を取り囲んでいるのでござんすか」
「浅草の六郷屋敷に陣を構えている北陸道鎮撫府が、上野の御山へ移陣するから、彰義隊は浅草の東本願寺へ出て行けだとさ。今朝、急に使者がやって来たと聞いた。数日前からの談判の末に、山を囲うならまだしも、いきなりってえのは。全くの無礼者がやるこった」
「そいつは、あんまりにも、不躾なやり方だ。……承知できるはずもねえや」
辰五郎の話を聞いて、武兵衛も官軍の身勝手さに呆れた。
彰義隊の本陣が置かれている寒松院へ向かっていると、小田井蔵太と天野八郎がやって来た。
門から護衛してきた隊士が「松」と合語を叫びながら、二人に駆け寄る。
八郎が「風。……お疲れ様。もう下がって良いぞ」と命じると、隊士は一揖して、本陣へ戻った。
蔵太は昨日と変わらず、和やかな表情で、話し懸けてきた。
「辰五郎、武兵衛。呼び立てて申し訳ない。談判は清水観音堂で行うので、このまま参ろう。龍虎隊と義勇軍の方々には、寒松院で待ってもらうつもりだ」
武兵衛は蔵太の傍へ行き、小声で確かめた。
「あの……昨日の新吉原の騒ぎの仕返って訳ではござんせんので」
「それはない。……実は明日、四月二十日。上野宮様が彰義隊に護られ、密かに御動座遊ばされる話が進行していた。脱走軍と合従し、日光山にて官軍追討の大号令を発するつもりでな。その後、会津や荘内の兵と共に京師へ進軍する流れだ。回天をひっくり返す、実に大きな策の嚆矢となるはずだった」
武兵衛は蔵太の言葉を聞きながら、背中の彫物の龍の辺りが、嬉しさでぞわりとした。
「ここからは俺の勘なのだが、今、話した策を官軍に漏らした者が寛永寺の中におるようだ。彰義隊で知っていたのは、俺と八郎さんだけ。だから、宮様の近くに敵の間者がいる」
「つまり賊徒は、日光山へ行かせないように、宮様を山に閉じ込め、彰義隊と切り離したいのでござんすね」
「そうだと考える。……敵は間者の知らせに慌てて、兵を出したようだ。官軍様としては、彰義隊から切り離した上で、宮様を京師へ送り、他の宮様と同じく還俗させて、追討軍に加えるつもりなのだ。そうなれば、もう官軍追討の大号令は出せなくなるからな」
すると、円頓院(本坊)のほうから、数人の従僧を従えて、一人の僧侶が歩いてくる。
武兵衛は、その顔に覚えがあった。
――上野宮様が上洛された折、行列の中にいた人だ。ええと、覚王院って御方だ……。
覚王院義観。十五年前に大僧都となり、更に一年前。上野宮より、覚王院の院号を賜り、執当職に任じられた。今年、四十六になる。
大僧都を示す松襲という藍色の法衣に、紋白五條の袈裟。左手に数珠、右手に中啓(扇子)をゆったりと持っていた。
しかし、何よりも目立ったのは、真っ直ぐと先を見詰める、鋭い眼であった。
堅固な意志を感じた。ただ、眉間の皺が甚だしく、怒っているようですらある。
蔵太が頭を下げると、僅かな間、表情を柔らかくした。だが、口調は厳しい。
「奸賊輩め、恐れ多くも宮様のおわす御山に向かって大砲を向けるとは。官軍などと名乗っておるが、どちらが朝敵か。全く以て不埒千万じゃ」
「覚王院様、辰五郎は既にご存じにございましょう。その隣りは、日本橋魚河岸の総代、相模屋武兵衛。義勇軍の総大将でもあります」
蔵太に紹介されたので、覚王院へ頭を下げた。
顔を上げると、覚王院は頼もしげに頷いていた。
「魚河岸の肴問屋衆は、東照宮へ年に幾度も鮮魚を献上し、御布施も絶やさず、徳を積んでおる。其方が〈討ち入り武兵衛〉か。今日の談判を見届け、相手の言い分へ好きに反論してほしい」
厳しい人かと思ったが、声は暖かかった。
武兵衛は素直に「へえ」と応えた。
満足げに頷くと、覚王院は蔵太と歩き出した。
武兵衛は二人の後ろを辰五郎と進んだ。
「辰親方、執当の覚王院様は山内では二番目にお偉い御方だと聞いておりますが」
こそっと、辰五郎に尋ねると、すぐに返事があった。
「寛永寺の執当職は二人おる。もう一人の執当は、大僧正の龍王院堯忍様。五十過ぎで、温和な人柄でな。二十歳過ぎの若き宮様に仏典を教える役目をしておる。つまり、実質で言えば、この御山を取り仕切っておるのは、大僧都にして執当に抜擢された覚王院様だ」
「てぇことは、やっぱし宮様の次にお偉いって訳ですねえ」
辰五郎は首をゆっくりと横に振った。表情を崩すと小声で返してきた。
「そうでもねえ。還暦過ぎて隠居なすった、前学頭にして前大僧正の仏舟院亮端様って御方が、今なお隠然として力を持っておる。だから、覚王院様は三番目と言った処かな」
並んで歩きながら、蔵太とひっそり話を交わし合う覚王院の背中を見詰めた。
――お二人は似ていなさる。命を懸けて守るものを持ち、無私の魂にて、公の大義のために戦っている。だから、躰の心柱も真っ直ぐで揺るがねえんだ……。
武兵衛は二人に惚れ惚れとしながら、少し後ろから、ゆっくりと追って行った。




