其之七
七
新吉原の大門を潜ると、右に四郎兵衛会所があり、名主の中から月行事が交代で当番している。会所の前を通りかかると、声が掛かった。
「おや、魚河岸総代の相模屋さんと千足屋さんじゃないか……。久し振りに御登楼ですかえ」
武兵衛が「そう行きたい処ですがね、花鳥と井筒の顔を拝みに参りました」と月行事に挨拶していると、甚兵衛が袖を引いた。
「左の番所……。御番所の同心と御用聞きが座っている奥。あれ、彰義隊では……」
武兵衛も振り返って、番屋を見た。。
番屋の奥に、三人ほど陣羽織に袴姿の武家が、静かに座っていた。
聞こえていたのか、月行事の一人が、応えた。
「仰る通り、彰義隊に詰めてもらっております。何せ、錦裂が毎日のように諍いを起こすのでございますから。御番所の方々も手を焼いたので、上野へ頼み込みましてね」
「そんなに錦裂が新吉原へ遊びにやって来るのかえ」
武兵衛が呆れていると、月行事は扇子で煽ぎながら、大きく息を吐いた。
「あちらは江戸見物のつもりなのでしょうがねえ。新吉原の仕来りも知らず、品川宿の飯盛女を買うようなつもりで大見世、中見世と構わず上がり込もうとする。脱走歩兵にも困りましたが、錦裂は節度がなく傲慢でしてね。……彰義隊には本当に助けて頂きっぱなしでございますよ」
隣りの当番も「女郎の間では『情夫に持つなら彰義隊』と持て囃されてます」と語った。
「へえ、そんなに彰義隊の人気が新吉原で上がっていたとはねえ」
武兵衛は感心すると、甚兵衛と共に四郎兵衛会所を過ぎて、江戸町二丁目の稲本楼へ向かった。
途中で、守田屋座頭の四代目中村芝翫と、河原崎座の若太夫の河原崎権十郎と行き逢った。
「こいつは猿若町の。お揃いでいらっしゃるとは珍しや」
武兵衛が声を懸ける。
芝翫は正月の錦絵に登場した人気者で、権十郎は九代目團十郎を継ぐだろうと目されている。
どちらも男盛りで、今後の猿若町を背負う意気に溢れていた。
とはいえ、正月からの混乱で顔見世も儘ならず、大芝居には客足が遠のいている。
「稲本楼からの帰りですよ。魚河岸衆も無理を押し付けられに参りましたか」
芝翫は美しい顔で苦笑いすると「ではまた」と一揖し、権十郎と大門へ歩き出した。
「無理とは……。さて。何の話だろうね、甚兵衛さん」
甚兵衛も、首を捻った。
「さあ、想像もつかないがねえ」
稲本楼は中見世にも拘わらず、新吉原一の人気を誇る御職(呼び出し筆頭)の小稲を抱えており、一丁目の金瓶楼と共に、最も勢いのある妓楼であった。
主人の稲本屋庄三郎の手腕による処が大きい。
手代を走らせていたので、稲本屋に入ると庄三郎が待ち構えていた。
「総代、千足屋さん。……ようお越し下さいまして。ささ、こちらへ」
遊び客は二階へ上がるが、今回は一階の客間へ案内される。
部屋に入ると、井筒が待っていた。面長の艶のある顔立ちだ。
客を相手にするわけではないので、夏の小袖姿だ。女郎の慣わしで、前帯にしている。
兵庫髷に簪を幾つか挿していたが、妙な飾りの簪が一本だけ混ざっている。
飛車、角、桂等の、将棋の駒を結んだものだ。
井筒が「花鳥は急なお客で昼見世に出てござんす。お待ちを……」と言い掛けた時、唐紙が開いた。
抜けるように透き通った肌が麗しい、堂々とした女人が入って来た。
当代一の人気を誇る、小稲である。
「全ては、わちきのせいでありんす。花鳥に申して総代に参ってもらったのでござんすよ」
キリッとした細い瞳で見詰められて、武兵衛は見蕩れた。錦絵になるわけだ。
井筒や花鳥とは、格が違う。
ただ、小稲も立兵庫髷に、将棋の駒を結んだ簪を挿していた。
「花鳥の文にあった相談とは、小稲花魁の話だったのですかえ」
小稲は井筒の隣に座ると、挿してある将棋の駒の簪を、細く白い指で触れた。
「新吉原の女郎は彰義隊を頂くつもりで、将棋の駒を頭に挿してござんす。……すると評判を聞き、徳川方の脱走軍の方々が新吉原へ駆込んで参り、軍資金を貸してくれと仰るのでありんす」
甚兵衛が「つまりは、徳川の兵に使う金を肴問屋衆に用立てて欲しいとの話ですか」と尋ねた。
先ほどの芝翫の話は、これのことだな――と武兵衛も気づいた。
「あい。見世の垣根を越えて、呼び出しや楼主も金を出すつもりでありんす。ですが、新吉原の金にも限りがござんして。猿若町と魚河岸の肴問屋衆へ声をお懸けしているのでありんす」
小稲は両方の掌をしっかりと床に着けて頭を下げた。
「新吉原にも『二君に仕えず』――ぐらいの意地はござんす。江戸を取り戻すため、助けて頂きたい。どうぞ、お聞き届け下さいなんし」
井筒も、同じように、躰を折る。
「立派な心懸けだ。花魁、どうか頭を上げておくんなさい。……でも、庄三郎さんではなく、なぜ、小稲花魁が、勧進元のような振る舞いをなすっているのですかえ」
武兵衛が問うと、顔を少し上げた小稲は、覚悟を決めている表情で応えた。
「楼主が表に立てば、錦裂にどんな仕返しをされるか……。わちきの名で行えば、新吉原にも迷惑を懸けぬでありんしょう。御職となり、小稲の四代目を継いで二年。江戸の皆様のお引き立てで、ここまで大きくして頂きいんした。これは女郎なりの報恩にござんす」
武兵衛は甚兵衛を見た。
魚河岸の肴問屋も内証は苦しい。だが、貯えはそれなりにある。
小稲の矜持を知った以上、できる限りの合力をしたい。頷き合うと甚兵衛が口を開いた。
「……魚河岸と新吉原、芝居町の絆は二百年以上も続いてきた。喜んで助けましょう」
井筒が小稲より早く、「千足屋さん、ありがとうござんした」と手を合わせた。
小稲も、柔らかな微笑みを浮かべて、もう一度、手を突いた。
「……魚河岸衆は江戸府内に顔が広うござんすから、『金が要るなら、小稲の許へ行け』とお味方へ噂を流しておくんなんし。どうぞ、頼みましたえ」
言い終わらないうちに、二階でドスンと大きな音がした。悲鳴も聞こえる。
「あの声は、花鳥では……」
武兵衛は天井を見上げた。
小稲は不安げに唇を開き、鉄漿を見せた。
「錦裂が参っているのでありんす。稲本楼は官軍や一見を上げませんが、馴染みの袋物問屋の駿河屋さんが連れてきたため、やむを得ず……。小稲を呼べとの話を断ったら、代わりに花鳥が座をしめてくれて……」
禿が汗を掻きながら、走ってきた。
慌てふためいたまま、震える声で叫んだ。
「錦裂が花鳥姐さんの将棋の簪を引き抜いて、脚で踏みつけました。どうかお助け下さいッ」
武兵衛は腰に差していた鳶口を手に、部屋を飛び出すと、階段を駆け上がった。
騒ぎで他の部屋の客や女郎が廊下へ逃げてくる。
これを掻き分けながら進むと、唐紙が開いた部屋が見えてきた。
此処に花鳥がいるはず、と武兵衛は飛び込んだ。
部屋の隅には禿が数人、震えて固まっている。
客は町人に身を窶した三人の錦裂。
花鳥は髷を崩され、部屋の真ん中で蹲っていた。
駿河屋は先程の騒ぎに紛れて、さっさと逃げたらしい。
「べらんめえ、稲本楼のような大籬(一流店)で何を騒ぎやがるッ。この安本丹め」
武兵衛が鳶口を投げる構えで叫ぶと、町人風体の侍が懐から管打短筒を取り出した。
「撃つな、これ以上、騒ぎを広げるでないッ」
面長の偉そうな人物が制すと、管打短筒を構えるだけで、躰の動きを止めた。
武兵衛は鳶口を持ったまま、花鳥の前へ走った。
「怪我はねえか、花鳥。……髪が酷え姿になっちまって。可哀相に――」
花鳥は涙も見せず、両手で、折られた将棋の駒の簪を胸の前で握り締めていた。
「相模屋の旦那……ありがたや。参ってくれたでありんすか」
面長の侍が「この女郎の間夫か」と大声で叫んだ。
武兵衛は怒りを抑えながら、相手を睨め付ける。
「俺ァ、花鳥の勧進元……。ただの親代わりだ」
外が再び、騒がしくなった。
番屋に詰めていた彰義隊が部屋に入ってきた。
三人のうち、二人が銃を構えている。
銃を構えていない真ん中の隊士が、鉄扇を手に、一歩前に進んだ。
「客と偽りし、錦裂共よ。其方らは女郎に乱暴を働いただけでなく、町人姿を装っているだけで、御法度に触れておる。糾問のため、天王寺の外隊へ引き渡す。従わねば、斬るッ」
武兵衛は、声と――強気の言葉がそぐわない程の美しい顔に、覚えがあった。
「團十郎そっくりの、毛利秀吉……」
天王寺の糾問所と聞くと、三人の錦裂の顔色が変わった。
「町奉行所へ引き渡すのが筋のはず。身形を偽ったぐらいで、何が法度じゃッ」
秀吉が美しい眉を動かして「お前ら、長州っぽか」と呟いた。
「忘れているようだが、ここは江戸だ。御公儀の法度は、まだ生きている」
錦裂の一人は、再び管打短筒を構えると「参謀だけでも逃げなさんせ」と叫んで、引鉄を引いた。
銃声が鳴り響いたが、鉄鉋玉は彰義隊の頭上の欄間を貫通した。
秀吉は少し目を上げたが、直ぐに錦裂の三人を凝視し、妖しい笑みを浮かべた。
「参謀……ねえ。ひょっとして、お前さん。長州軍参謀の山県狂介(有朋)かえ。こいつは、思わぬ大物が引っ掛かった。糾問所でも、爪の剥がし甲斐があろうってもんだ」
錦裂は「しまった」と焦った。
武兵衛はその隙に、錦裂から管打短筒を奪った。
「毛利様。縄を下せえ。俺が縛ります。大物なら、あとの二人が暴れ出す恐れがあるんで」
山県狂介の傍にいた者が「毛利だと。なぜ彰義隊なんぞに」と叫んだ。
秀吉は鉄扇で、相手の頭を殴りつけた。
倒れ込む姿に、狂介が「?平ッ」と呼びかけた。
「お前は司令の福田?平だな。……良く聞け、賊徒。毛利家の中にもな、手前らの主君と違って、朝敵にもならず、徳川家に忠義を尽くす真っ当な御直参がいるんだ。覚えておけ」
武兵衛は三人を縛り、彰義隊へ引き渡した。秀吉は隣の隊士に命じた。
「敵の参謀と司令を捕まえたと上野の本陣へ知らせ、天王寺まで運ぶ隊士を連れて来い」
隊士の一人が走って部屋を出て行った。武兵衛は再び、鳶口を手にした。
「秀吉様、此奴らを番屋に留め置くのでござんすね。俺が助けますぜ」
「ああ、助かる。二人で三人を運ぶには、心許なかった。武兵衛、頼んだぞ」




