表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/79

其之六

       六

 

 四月十九日。珍しく、新吉原(なか)(いな)(もと)(ろう)()(ちよう)から、相談があるとの手紙が届いた。


「半年以上、顔を見ていなかった。新吉原(なか)へ行って、相談を受けてみようと思う」


 書状を読んだ武兵衛は、思い切ってお艶に告げてみた。


 すると、あっさり許してくれた。


突出(つきだ)しの世話をした女郎(じようろ)ね。今は(ちゆう)(さん)だっけ。呼出し昼三まですぐだ。(ねぎら)ってやりな」


 魚河岸の肴問屋衆は、新吉原で女郎として売り出す「突出し」の親代わりとなる。

 衣装や売り出しの支度を調えたり、小遣いをやったり。

 そんな妙な慣わしがあった。


「呼出しは無理だろう。花鳥は、元は(かわ)(ごえ)の大きな(あぶら)(どん)()の娘で、七つになるまで乳母(おんば)日傘(ひがさ)で育った。おっとりしていて、野心がねえのだよ。小稲(こいな)の妹分で満足している始末さ」


「確か、(おや)()さんが病になって、高価な漢薬の借金と、蔵の火事が重なっちまったんだっけ。親類の勧めで身売りしたと聞いたけれど。……親孝行の(かがみ)のような()(むすめ)さんねえ」


 お艶が(りん)()を起こしていない。気味が悪いくらいだ。


「稲本楼には、甚兵衛さんが突出しの世話をした()(づつ)もいるから、一緒に行ってくるぜ」


 武兵衛は、探るように、お艶を見た。

 煙草を喫っているお艶は、不快な様子でもなく、微笑んでくる。


「新吉原は、(キン)(キレ)がやって来るようになって、苦労しているようだ。気をつけてね」

 

 話をすると、甚兵衛も武兵衛の誘いに乗った。

 すぐに、手代を使いに出して、稲本楼へ行く()(はず)を付ける。


 女郎(じようろ)を買いに(とう)(ろう)するわけではない。

 だが、魚河岸総代として、身嗜(みだしな)みは、しっかりと整える。

 ()(ばこ)から花鳥の小遣い金を取り出し、袱紗(ふくさ)に包んだ。


 夏の羽織を選び終えた処に、甚兵衛がやって来て、そのまま猪牙舟へ乗り込んだ。


「大川を上るのも、久し振りだ。いつも品川のほうへ下ってばかりだったぜ」


 船頭の仙吉は魚河岸の近くの船宿〈喜扇(きせん)〉の看板だけに、大川に出ても、揺れが少ない。


 夏の陽が眩しく、(はこ)(ざき)(なか)()では、海女が(うなぎ)を獲っていた。


 江戸のありふれた風景だ。


 そこから(しん)(おお)(はし)を過ぎて、両国橋へ向かう間、左側の浜町(はまちよう)(ぎし)は武家屋敷が続き、対岸の深川から本所にかけては大きな御舟(おふな)(ぐら)がある。


 一年前と、何一つ変わっていない。


 潮の香りを帯びた川風が心地よく、行き交う舟を眺めていたら、ふいに、今年に入ってからのあれこれが、(すべ)て夢のように思えてきた。


「江戸は景色だけを見ていると、泰平の頃と何一つ変わっちゃいねえな」


 武兵衛が呟くと、()(ぬぐい)で汗を拭っていた甚兵衛も、ゆっくりと頷いた。


「……江戸は変わっていない。ただ、賊徒が日本を()じ曲げようとしているだけだ」


 そこに、()(あい)()く、仙吉の世間話が、するっと流れてきた。


()(ばん)(しよ)御救米(おすくいまい)ですが、ついに蔵が空になるまで(くば)り終えたそうですね。『ありがたや、お救い米で江戸中の、多くの人がみんな助かる』とまぁ、こんな歌が流行ってます」


「賊徒の奴め、ざまあ見ろだな。飢えて、江戸から去ってくれりゃあ良いのだが」


「……川越から来た船頭の話ですと、()(やま)で徳川様の脱走軍が(キン)(キレ)に大勝したそうで。ちょうど日光の()(さい)(れい)の日だったものだから、小山宿じゃ縁起が良いと、(せき)(はん)を炊き、酒を振る舞って、脱走軍と共に、大いに祝ったそうです」


 仙吉の話を聞いて、武兵衛と甚兵衛は、相次いで「いつの話だ」と尋ねた。


「昨日の十七日です。脱走軍は日光を目指して、そのまま進軍していくそうですよ」


 武兵衛は甚兵衛と顔を見合わせて、喜んだ。


 甚兵衛は手拭で目の端の涙を押し拭う。


「日光が()れたら、(うえ)(のの)(みや)(さま)も動かれるのではないか。……徳川様の再興の日が近付いた」


 両国橋の下を通ると、(わず)かな(あいだ)、日陰で涼しくなる。


 武兵衛は急に冷めた心地になった。


 ――嗚呼、やはり、違う。夢なんかではない。もう泰平の江戸じゃねえんだ……。


 暢気(のんき)だった頃。

 新吉原へ出掛ける(ちよ)()(ぶね)の上といえば、船頭と客は、(さる)(わか)(ちよう)の芝居の評判や、役者が着た衣装の紋様の話を、盛んに交わしたもんだ。


 新吉原の女郎や女芸者に野暮とされぬよう、登楼する前に、流行の(ネタ)を仕入れるのである。


 まったく、()んだ()()()りだったなぁ……。


「猪牙舟の上で、(つや)っぽい話もせず、政事(まつりごと)の話をしているなんざ、()()の極みだな」


 大きな両国橋を越えると、また日差しに(さら)される。


 見上げると、橋の袂に(キン)(キレ)がいた。武兵衛は、睨み付けた。


彼奴(あいつ)らのせいだ。御城だけじゃなく、江戸の愉しみも粋も、根刮(ねこそ)ぎ奪おうとしてやがる」


すると、仙吉が対岸の本所を眺めながら、口を開いた。


『ああ、あれも一生、これも一生。こいつは(しゆう)()を変えざあなるめえ』


 見事な節回しである。


 まるで四代目(いち)(かわ)()(だん)()そのものだ。甚兵衛が笑った。


鋳掛松(いかけまつ)だね。一昨年の当狂言(あたりきょうげん)船打込橋間白波ふねへうちこむはしまのしらなみ〉の台詞だ。随分と流行(はや)ったな」


 武兵衛は、ふと考え込んだ。


 宗旨――生き方を変える、か。俺なら、どう変えてえかねえ。


「いや、考えている暇はねえな。今は目の前の敵に(あらが)うだけで、手一杯だ」


 猪牙舟は(しゆ)()(まつ)を過ぎて、ゆっくりと(さん)()(ぼり)を目指した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ