其之五
五
四日後から、魚河岸義勇軍による官軍御用船の運用が始まった。
本陣である、品川の東海寺や、その周辺に置かれた陣や宿場に詰めている官兵のお偉い衆を、往来船に乗せて、日本橋川を上り、千代田城の近くの船着場まで送る役目を務めた。
漕ぎ手は廻船問屋の集めた手練ればかりで、腕は確かだ。
船には、義勇軍が世話掛として、二人ずつ乗り込んだ。
船内の案内をしながら、官兵のお喋りに耳を欹てる。
この日は駒蔵と留吉が、乗船したのだ――が。
「会津と荘内ん動きだが、盟約を結び合い、官軍に楯突くつもりんごたる」
「徳川ん歩兵ん脱走隊が下総で、官軍とぶつかったと知らせが来っちょ。いよいよじゃな」
当番が終わって、御納屋の本陣へ駆け込んできたが、二人とも半泣きであった。
「やべえ……。何を喋っているか、訛が酷くて、ほとんど分からねえんですよ」
武兵衛は「覚えている言葉だけでいいぜ」と二人を労った。
駒蔵は懸命に、官軍の会話を、頭の中で江戸弁に翻訳してみた。
「会津や荘内が盟約しそうで、歩兵の脱走隊が、下総で官軍とぶつかった……みてえです」
頭に浮かぶ限りの言葉を、叫んでみせた。
聞いていた甚兵衛が、御留帖にさらさらと筆を走らせた。
「さすがに直に聞くだけあって、〈中外新聞〉よりも早いな。その調子で頼む」
別に小さい紙に書くと、留吉に「田安家の御門へ。義勇軍と言えば分かる」と結び紙を渡した。
勝安房守ではなく、田安家に置かれた政務所へ直接に届ける。
甚兵衛を見ながら、武兵衛はついつい、大きく息を吐いた。
――そんなに安房守を怪しまなくてもいいのになぁ……。
すると、小者の順吉が顔を出して「駒蔵、外で、お香ちゃんが待っているぜ」と知らせてきた。
武兵衛は、駒蔵よりも素早く立ち上がると、玄関へ走った。
玄関先に、お香が立っている。
武兵衛は、その姿を見るなり、つい小言口調になった。
「駒蔵の帰りが待ち遠しいのは分かるが、若い娘が独りで、彷徨いたら危ねえだろうが」
口をはっきりと開けて、伝わるように工夫をした。
お香は俯いて、涙を浮かべた。
泣かれると弱い。慌てた武兵衛は、優しく声を懸けた。
「他人目に付くから、中へ入れ」と玄関へ引き入れていると、駒蔵がやって来た。
「お香ちゃん。……旦那様の仰る通りだよ。もう、昔の日本橋とは違うんだ。この辺りは、御城に近いから、錦裂が沢山歩いていやがる。お香ちゃんが危ない目に遭うのは御免だよ。とにかく、今日は一緒に帰ろう」
お香は小さい声で「御免な……さい」と呟いた。
武兵衛は見ていて、がっくりと気落ちした。
――瞳で追うのは、駒蔵の口許ばかりか。これが娘を嫁に出す親父の心持ちなのかねえ。
「陽が暮れねえうちに、二人でとっとと相模屋へ帰りな。寄り道はするなよ」
武兵衛が声を懸けると、駒蔵は、お香の手を取った。
「お先に失礼します」と会釈して、江戸橋へと仲良く歩いて行った。
初夏の黄昏の日本橋川は、水面に西日が燦めいていた。
手を繋いで、橋の上を渡っていく、駒蔵とお香の後ろ姿を、武兵衛は見つめた。
川の水面の光は、欄干の隙間から、二人の頬を淡く照らし、見詰め合う眼差しや、微笑みすらも、眩しく映し出した。
「若えってのは、良いなあ。明日なんざ気にせず、目の前の恋路を歩むだけで幸せなんだ」
武兵衛がぼやいていると、留吉が近付いて来た。
「兄ィ、いつになったら、鳶口の飛ばし方を教えてくれるんですかい」
武兵衛は、ゆっくりと留吉へ振り返った。
「……今から教えてやろうか。鳶口でも飛ばして、すっきりしてえんだッ」
留吉は顔を明るくして「やったぁ、教わりてえ奴らを呼んできます」と跳び上がって喜んだ。
御納屋の庭に的を置くと、直ぐに鳶口を飛ばす調練が始まった。
〈錦裂〉が江戸府内に増えてきて、身を守る術が必要だった。
気晴らしが、ちょうど良い切掛を作ったのかもしれない。
武兵衛は自分で練り上げてきた技を、惜しげもなく若い魚河岸衆へ伝えた。




