其之四
四
勝安房守は前に見た頃より、随分と痩せていた。
「お疲れなんじゃござんせんか。……顔色も良くねえし」
「官軍と徳川の間を取り持つなんざ、誰も遣りたがらねえ役目だ。この数日で、二度も背後から撃たれた。鉄鉋玉が馬の尻を掠ったお陰で、落馬で済んだがよ。……官軍は俺を怪しみ、直参からは裏切者呼ばわりだ。おいらが手を引いたら、どうにもならなくなる癖にさ」
ブツブツと小声で、更に、愚痴が続いた。
「うちの妻や娘共は『なぜ戦わず恭順なぞするんだ、腰抜けめ』とおいらを詰る始末だ」
つい、可笑しくて笑いそうになったが、さすがに気の毒に感じたので、堪えた。
「うちも、義理のおっ母さんが、明け渡しの日は半狂乱でしたよ。宥めるのに往生しましたぜ」
橋を渡り、御納屋へ着いた。入って行くと、当番の佐兵衛がいた。
「……まだ納魚を止めていなかったのかい。律儀だね、魚河岸は」
使者之間で、安房守は呆れ顔で、上座へ座った。
「徳川様が消えたわけではありませんので。今まで通り、続いています」
武兵衛の隣に座った、佐兵衛が応えた。
せっかちな安房守は、煙管を取り出しながら、本題に入った。
「来たのは、総督府からの達を伝えるためだ。いや、あくまでも表向きなのだがね」
武兵衛は「裏と表があるお話なんでござんすか」と面白そうに揶揄った。
安房守のほうは、まったく気にせず、話を進めた。
「今、徳川の御軍艦は脱走中だ。これは、数日中においらが連れ戻す。それはさておき、江戸前の海には、官軍の御軍艦が皆無だ。数隻が投錨しているが、小せえ雑魚船ばかりさ。……総督府は、御城は手にしたが、海を徳川に握られたままで、ひどく懸念を表している」
「……まさか、義勇軍に船を出せって話ですかえ」
「総代は、察しが良くて助かる。江戸前海を行き来するための往来船の御用を頼まれてくれねえかと。……これは、二君に仕えることには、ならねえから」
佐兵衛が疑うように、ジロリと安房守を睨み付けた。
「詭弁を弄するのはお止め下さい。義勇軍が出す往来船が、徳川の御軍艦に対抗するためのものなら、立派に裏切に当たり、二君に仕えるに等しくなります」
「表向きは、そうなる。だが、裏がある。一つは、往来船で暢気な顔をしながら艪を漕げば、乗っている錦裂の話が耳に入る。訛がきついから聞き取るのに難渋するとは思うが、内容が知れたら儲けもの。二つは、魚河岸義勇軍が断れば、他の雑魚場に話が行く。さすれば、徳川海軍にも都合が悪くなる。……御軍艦の傍を敵の漕ぐ往来船が彷徨くのは困る」
佐兵衛が、甚兵衛のように、顎に手を当てて考え込んでいると、安房守は続けた。
「徳川海軍――いや、おいらもだが、往来船の御用は、味方である義勇軍に頼みたい」
「敵と仰いますが、芝の雑魚場とは、盟約を交わした間柄なのですぜ」
「武兵衛さん、甘いぜ。増上寺の傍だってんで、近頃じゃ、すっかり薩長に手懐けられてな。……日本橋魚市場を出し抜こうと、機会をじいっと狙っているよ」
知らなかった。
だが、芝の雑魚場と日本橋魚市場は昔から、何度も揉めてきた。
互いに数十人で徒党を組み、大喧嘩になりかけたことも。……だから、あり得る話だ。
「おいらは忙しいんだ。義勇軍が断るなら、この脚で芝へ行くつもりだ。その後は、彰義隊が揉めて、割れたから、その様子を見に寛永寺へも行かにゃあなるめえし」
「彰義隊が割れただとォ。それで、蔵太様は、どうなったんで……」
「頭の小田井蔵太は変わらずだ。頭取の渋澤成一郎が、商人から隊名を使って金を巻き上げたとかで、激怒した副頭取の天野八郎に斬られかけた。だが、成一郎は蔵太に救われ、そのまま一橋家の元家臣衆と共に抜けた。新たに、振武隊と名乗るらしい」
「……市中見廻りの話は、どうなるんで。但でさえ、江戸市民は錦裂から乱暴を受けて、困っておりやす。隊士が減ったら、見廻りそのものが始められなくなるじゃござんせんか」
「総代、懸念は無用だ。抑も、成一郎の一派は、上様の護衛以外に関心がなく、市中見廻りも乗り気ではなかった。そいつらが消えたおかげで、蔵太の指揮も隊士全体に行き渡り、むしろ都合が良くなった。総督府からも、官軍の護衛や門の守衛に、彰義隊を使いたいと、徳川へ相談があったぐらいだ」
聞き終えた武兵衛は思わず、噴き出した。
「彰義隊が官軍の護衛ですって……。なんだえ、そりゃあ。情けねえなぁ、賊徒も」
「さあさ、総代。決めてくれ。魚河岸義勇軍も、官軍の御用を務めるか、否かをさ」
急かしてから、安房守が懐から金を出した。
五十両はあるだろうか。
頼んだからには、金を出す。安房守は町の流儀を守っていた。
「足りねえ分は、これで賄ってくれ。……それで、前の総代は、どうなんだい」
武兵衛は佐兵衛を見た。佐兵衛はゆっくりと口を開いた。
「……不承知と言いたい処だが、魚河岸衆の苦境を思うと、此処は応ずるべきだな」
安房守は煙草を喫う暇もなく、煙管を仕舞うと、さっさと立ち上がった。
「いつも魚河岸には面倒い話ばかり持ち込んで、済まねえな。……今回も助かったぜ」
武兵衛は、安房守を見上げた。
「……市場は長らく厳しいままにござんす。漕ぎ手や廻船問屋は、商売替えすら難しく、更に苦しんでいる。安房守様のお陰で、首を括らずに済む者が大勢、現れましょう」
言い終わると、深く躰を折った。安房守はチラと振り返った。
「おいらは愁嘆場が苦手だ。恩なぞ、感じなくていい。江戸じゃ、困っていたら助け合うのが当たり前だろ。魚市場が潰れて、江戸市民が魚を食えなくなるほうが不味ぜ」
言い終わると、勝安房守は足早に玄関へと去って行った。佐兵衛は嘆息した。
「……あの御方は評判が悪い。私塾に出入りする者は西国人ばかりと聞く。今回のお申し出を引き受けて良かったのだろうか」
「二度も後ろから、撃たれたそうですぜ。……あの御方なりに、命懸けで、江戸のために動いていると、俺は信じておりまさ」
「総代は勘が鋭い。俺も少し、安房守様を怪しみ過ぎていたのやもしれぬ。何より、この御用で、魚河岸衆が助かるのは、真の話だからな」
佐兵衛は、すぐに御用部屋に戻り、算盤を弾いた。
傍に座った武兵衛は、佐兵衛の出した数字を見ながら、御用船として使う押送船や猪牙舟に払う手当を、割り出し始めた。




