其之三
三
千代田城の明け渡しが近付いてくると、官軍の兵が江戸府内を恐る恐るだが、彷徨き始めた。
目印は肩に付けた錦の切れ端で、江戸市民は官兵を〈錦裂〉と呼んだ。
「♪宮さん、宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな。トコトンヤレ、トンヤレナ。あれは朝敵、征伐せよとの錦の御旗じゃ、知らないか。トコトンヤレ、トンヤレナ」
武兵衛が番頭の伊左衛門と呉服橋を渡っていると、知らない歌が聞こえてくる。
向こうから傲岸不遜な態度で、二人の錦裂が歩いて来た。
唄っているのも、其奴等だった。
「何だえ、あの妙に野暮ってえ歌は」
「〈トコトンヤレ節〉という、官軍が作った歌らしゅうございますよ」
すると、武兵衛と伊左衛門が擦れ違うと、官兵は、わざと声を大きくした。
「♪音に聞こえし関東武士、どっちへ逃げたと問うたれば。トコトンヤレ、トンヤレナ。城も気概も、城も気概も捨てて、吾妻へ逃げたげな、トコトンヤレ、トンヤレナ」
頭がカッと熱くなった武兵衛は、背中の鳶口に手を掛けた。
だが、伊左衛門に手を掴まれて、抑えられた。
「……旦那様、敵の挑発に乗ってはいけませんッ。相手は気が奢っていて、田舎者と馬鹿にしてくる江戸市民を甚振りたくて、うずうずしているのでございます」
聞いただけで、癪に障った。
だが、鳶口をぐっと握り締めて、息を整えると、何とか堪えた。
「相模屋さん、いえ、総代。……お久しぶりにございます」
畑屋甚次郎が声を懸けてきた。
番頭と手代を連れて、南の方角から歩いてくる。
増上寺に屯する長州の陣屋からの帰りであろう。
近ごろ、どんどん羽振りが良くなっていた。
「おお、甚次郎さんかえ。忙しいようで何よりだ」
総代として、挨拶だけは、一応、返した。
甚次郎は能面のような薄ら笑いを浮かべた。
「……総代、回天を受け入れるべきです。商人は長い物に巻かれて、賢く生きて行かねば」
言い終わると、甚次郎は会釈して、日本橋へと帰って行く。
武兵衛は「回天……だと。天下が変わったなんて、まだ決まったわけじゃねえ」と呟いた。
――俺は信じている。こんな如何様みてえな遣り方で、天下が奪われちゃならねえ。御天道様はしっかり見ていらっしゃる。正義が捻じ曲げられたままで終わって堪るかよ。
「押し戻す日が必ず来る。そのためにも、今はじっと、耐え忍ぶしかねえんだ」
武兵衛は言い聞かせるようにして、手をぐっと握り締めた。
悔しさで、爪が掌に食い込んでしまい、痕が半日も取れなかった。
四月十一日の巳ノ刻(午前十時)、寛永寺を発った徳川慶喜は、水戸へ向かった。
新門辰五郎率いる火消衆と、迎えの水戸の兵が慶喜の周囲を固めて、無事に水戸へと到着した。
この日、彰義隊は、松平確堂の指示により、江戸の市中取締の役目に就いた。
同じ日に、東海道先鋒隊が、江戸千代田城へ入城。
明け渡しは、ここに、ようやく落着した。
その日。市場通りが賑わっていると、相模屋の奥から、お鈴を連打する音が聞こえてきた。
お梅は仏壇に手を合わせ、何度も先代の武兵衛へ、大きな声で知らせている。
「お前様、まだ勝負は着いておりません。屹度、見守って下さいましよッ」
武兵衛は帳場で算盤を弾いていたが、さすがに煩いので「おっ義母さん」と窘めた。
すると「なぜ、城を奪い返さねえんだい」と叫び、お梅は仏壇の前から移動してきて、武兵衛の前に座り込んだ。
武兵衛は、落ち着かせるように、ゆっくりと説明した。
「陸軍も海軍も、脱走して、機会を窺っているのですよ。江戸を戦場にはしたくねえからです。北から一気に押し戻して、江戸にいる賊徒を追い払う策だと聞いていますぜ」
「だったら、それは、いつだいッ。一日だって、我慢できねえんだよ。宮だか、薩長だか知らねえが、そんな奴らに御城に居座られていて、いいと思うのかえ、お前様ッ」
武兵衛は、お梅を見つめた。
死んだ夫と婿を取り違えている。最近はとんとなかったので、吃驚した。
「それは、いつになるかは、まだ分からねえよ。……お梅」
話を合わせながら、応えた。
すると、お梅は頬を膨らませて、不満そうである。
お梅の付女中のお瀧が、武兵衛へと頻りに、頭を深く下げる。
そこへ、二階からお艶が下りてきた。
「朝っぱらから、煩いよ。うちには病人がいるのだから。起きちまったら可哀相だろ」
お須磨が寝ている先代の部屋から、慌てて、駒蔵が出てきた。
「おっかあに、気を遣わないで下さいまし。直に長屋へ戻ろうと考えておりますんで」
「馬鹿を言うもんじゃない。うちにいたほうが良いよ、駒蔵。昼間は、お須磨さんが一人きりになる。……ここ数日、女の独り住まいに錦裂が押し入って、手籠めにする事件が何件も起きていると、先ほど、聞いたばかりなんだよ」
お艶の言葉に、駒蔵は涙を浮かべて、深く体を折った。
「ありがてえ……。薬代も皆、払って頂いているのに。その上……」
台所で下女と一緒に朝餉の支度をしていたお香が、お艶を呼びにやってきた。
武兵衛は、ちょうど良い機会だと感じた。軽く咳払いの上で、お艶へ尋ねた。
「なあ、お艶。お香には、駒蔵がお似合いだとは、思わねえか」
お艶は左の引眉が微かに動かしながら、驚いた顔をして、武兵衛を見た。
「……お前さん。今更、何を言い出すかと思えば。二人はとっくに、理ない仲だよ」
武兵衛は驚きの余り、叫ぶのも忘れて、茫然としたまま、駒蔵へ振り返った。
駒蔵は照れながら、髷の上を指でちょいと掻いた。
「お汁粉を一緒に食べに行ったら、……なんか、その、互いに勢いが付いちゃいまして」
「いつの話だ。……俺は知らねえぞ。だいたい、汁粉屋ってえのは、鰻屋と一緒で、男と女が乳繰り合うために行く店だ。最初から、その気があってお香を連れてったんだろがッ」
やっと声が出た。すると、駒蔵に代わって、お艶が応える。
「四月の始めだったかね。二人して夕方まで出掛けてね。……そりゃ、戻ってきた時の様子を見れば、分かるだろ。初めての逢瀬だもの」
駒蔵とお香は互いに見詰め合うと、照れて、俯いた。
武兵衛はつい、大声になった。
「駒蔵ッ、時を考えろ。江戸の存亡の秋に、お前っ、よくも俺の妹分と――」
自分でも何を言っているのか、もう訳が分からなかった。
すると、お香が、武兵衛の袖を掴んできた。
聞こえなくても、唇の動きは読めるから、頬を赤らめ、見上げてくる。
「駒さんは、……悪くない。あたし、……嬉しかった。好きな人と――」
武兵衛は慌てて耳を両手で塞いで、聞こえないように、わああと、大声で叫んだ。
「そこから先は、何も言わなくていい。相惚れなら、不満はねえッ」
少し離れた処から眺めていたお梅が、大きな声で、ぎゃはははっと笑った。
「駒造もお香も、どっちも二十歳前だ。もう大人だよ。武兵衛さんのことだ、その時分にゃ、女遊びをしまくってやがったろうに。……手前の行いを棚に上げて、何を取り乱してんだか」
先代ではなく、婿の武兵衛と分かっているようだ。急に戻るから、面白い。
「おっ母さん、勘弁してやりなよ。総大将様にとっちゃ、お香は、娘も同じなんだからさ」
言い終わると、お艶も笑い出した。
武兵衛は落ち着きを取り戻し、息を吐いた。
「お前は、お香の相手が駒蔵でも良いのか。認めるってえのかい」
「わっちは悪くないと思うよ。……親孝行だし、優しい子で、よく働くからねえ」
お艶の了承を確かめると、武兵衛は、駒蔵を見詰めた。
「落ち着いたら夫婦になる、って言ってたよな。駒蔵、漢に二言は、なしだぞッ」
駒蔵は、顔を引き締めて「お香ちゃんを幸せにしますッ」と誓った。
すると、店先から「武兵衛さんはいるかえ」と大きな声が聞こえて来た。
「こんなときに煩えな」と舌打ちしながら、武兵衛は草履を突っ掛けて、店先へ出た。
すると、店の前に、勝安房守が立っていた。
背が低いのに、二王立ちをして、牽制しているようだった。
「おや、安房守様。朝から、どうなさいましたんで」
焦燥している顔で「御納屋へ顔を貸してくれ。ちょいと義勇軍に話がある」と応えた。
武兵衛は「へえ」と返すと、そのまま一緒に、江戸橋へ歩き出した。




