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其之二

      二


 (うき)()(しよう)()へ入って行くと、(もも)(かわ)(あん)(どん)に火が入っておらず、何か店内が騒がしい。

 まるで引越すかのような勢いの物音がする。


 武兵衛は、不審に思った。だが、わざといつものように、明るい声を出しながら、格子戸を開けた。


「珍しいこともあるものですね……、今日は店を休んでいるのですかえ」


 すると、(たすき)()け姿の主人、(しげ)()()(もん)がやって来た。


「相模屋さん。……すいませんねえ。百川は(みせ)()()いをするのですよ」


 後から入ってきた甚兵衛もハッと顔を上げ、武兵衛と共に「何だって」と声を張った。


「そんなに(ない)(しよ)が苦しいのなら、一言ぐらい、相談があっても。(みず)(くせ)えや、茂左衛門さん」


 茂左衛門に案内されて、玄関脇の、帳場のある小部屋へ入った。

 ゆっくりと、三人で座った。


「金ではないのです。()(しろ)も徳川様のものではなくなり、上様も水戸へ行かれる。しがない料理茶屋ですが、御用を務めさせて頂き、()()()(さま)(どう)(よう)に、徳川様へお仕えしてきた自負がある。……この百川は、()(くん)には仕えぬと決めたのでございます」


「……決心はご立派ですが、(あん)(えい)年間から続いてきた老舗(しにせ)を畳むなんて。(もつ)(たい)ねえのでは」


 茂左衛門は、薄く涙を浮かべながら、静かに語った。


「徳川様などは、(かん)(えい)以前に(とう)(しよう)(だい)(ごん)(げん)(さま)が心血注いで(きず)かれた、二百六十余年の天下を畳まれなすった。百川の店仕舞など、()(まつ)な話でございます」


 そこへ、掃除を途中で()めて、女将も加わった。


「実は、先日、お忍びで、官軍のお偉い衆が数人、客として参ったんですがね。書画も眺めず、席に着いた途端、酒を出せ、(げい)()を呼べと……。()()も、あすこまで行くと、呆れるより先に笑いが込み上げてくる始末で。江戸の料理茶屋の流儀などまったく意に介さず、やりたい放題。……こんな山出(やまだし)を相手に(あきな)いをするぐらいなら、もう百川を畳もうとね」


 女将の言葉を聞いていた茂左衛門は、ほんの刹那、寂しさを(にじ)ませた。

 だが、すぐに清清(すがすが)しく微笑んでみせて、続きを述べた。


「先祖から代々築き上げた(たしな)みも、(きわ)みまで(みが)き、(わざ)()けた料理も、これからの江戸には不要なのですよ。(おお)()()(いき)は徳川様のお(ひざ)(もと)で育まれ、共に滅んでいくのです」


 武兵衛は最後の言葉に胸が締め付けられ、何も言い返せなかった。

 隣の甚兵衛が、尋ねた。


(はん)()を描くぐらいだ、(せがれ)の広重さんや茂左衛門さんは(じよう)(せい)の動きに詳しいでしょう。でしたら、(うえ)(のの)(みや)(さま)の件もご存じかと。それでも、もう徳川様の押し戻しは叶わぬと」


 茂左衛門と女将は、二人して、同じく、頷いた。


「〈(ちゆう)(がい)(しん)(ぶん)〉を読み続けておりますが……。上野宮様が天子に立たれて、その下で(かめ)()(すけ)(さま)()(ぼう)(さま)になられても、それは今までの江戸とは違うものです」


 店の奥からは(さら)(わん)(まと)める音が、絶え間なく聞こえてくる。

 江戸っ子は、()(かく)せっかちで、決めたら、もう後戻りはしない。止めても(ムダ)である。


 武兵衛は、どうしても気になって、ついつい尋ねた。


「茂左衛門と女将さんは、今後、どうなさるので」


 女将が安らいだような表情で、応えた。


「向島に小さい屋敷を用意しました。(たくわ)えはありますので、店の者には、十分に金を渡して、各各(おのおの)、道を決めてもらいます。うちの(ほう)(ちよう)(にん)()(おんな)も腕の良い者が揃っていますから、何処(どこ)へ行っても食べていけます。(あと)()りを決めていなかったことが、実に(さいわ)いでした」


「そこまで支度をなさっているとは。やっぱし(みず)(くせ)えや、茂左衛門さんも女将さんも」


 武兵衛は口を尖らせてぼやくと、茂左衛門は、ちょいと(まげ)()いた。


「知らせたら、引き留められる。誰にも()()られぬうちに、ひっそりと消えるつもりです」


 何処(どこ)までも(いさぎよ)い考えだ。


 だが、やはり、寂しさは止めどもなく(あふ)れてくる。


 武兵衛が涙を(にじ)ませていると、甚兵衛が代わって、両手を()いて、(てい)(ねい)(あい)(さつ)をした。


「皆には黙っておきます。今後、もし困りごとが(しよう)じましたら、遠慮なく、魚河岸の肴問屋衆を頼って下さい。……これまで親しくお付き合いいただき、ありがとう存じました」


 武兵衛も涙を拭くと、頭を下げて、


「総代として、長らくのお付き合いに感謝致します」


 と付け加えた。


 茂左衛門と女将もまた、瞳を潤ませながら、同じように頭を下げた。


 百川を後にすると、武兵衛は悔しくて、甚兵衛に小声で呟いた。


「こうやって、江戸の(いき)の何もかもが、賊徒にぶっ壊されていくのかねえ、甚兵衛さん。俺っちが本気で(あらが)ったら、取り戻せるのだろうか。大好きだった、一年前までの、あの江戸を……」


 見ると、甚兵衛も唇を噛んで、俯いていた。


「全ては取り戻せないだろう。だが、このまま終わるなど、あまりに口惜しくて、できねえ相談だぜ、武兵衛さん。……何とかして、敵を追い出さなくては」


 ――どうしたら、追い出せる。俺っちの江戸を、(やつ)()から奪い返せるんだろうか。


 百川の他にも、(かな)(ざわ)(たん)()(すず)()(えち)()等の、(だい)(だい)()(こう)()()(よう)(うけたまわ)ってきた()()(つかさ)の名店が、次々に店を畳み始めた。


 いずれも、その理由を「()(くん)に仕えず」としていた。


 その流れは、江戸の名のある菓子司や料理茶屋へと、広まっていった。



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