其之七
七
江戸で戦争が起きないと踏むと、徳川方の脱走兵は府外へと散って行った。
だが、同時に、勝手に隊名を名乗る連中による、押し借りが横行し始めた。
直ぐさま、奉行所から町々の世話掛名主へ、
「隊号を以て、江戸市民から米金を出させる者あり。断った上で、奉行所へ訴え出よ」
との達が出た。
だが、数日が過ぎても、納まる気配は、なかった。
武兵衛は非番だったが、名主の命により、独りで本陣に詰めていた。
そこへ、三井呉服店の二番番頭の六郎左衛門が汗水漬になって、駆っ込んできた。
「総大将、助けて下さいましッ。店に精忠隊と申す奴らが押し掛けて、金を用立てろと」
「隣の両替店へ行かないで、どうして呉服店へなぞ……」
しかも長らく店を閉めていた。江戸で戦争がないと分かって、少し前に、僅かな店の者で再開したばかり。金など、在っても僅かである。
「隣で金を分捕って、こちらへも来たようなのです。何とかして下さいましッ」
武兵衛は鮪包丁を掴むと飛び出した。
御納屋の前で、見廻りから戻った二番組率いる甚兵衛に出くわした。
「総大将へ従いて行くぞ」と甚兵衛が号令すると、一緒になって三井呉服店に走る。
雲間から、時折、陽の光が差している。
近頃、梅雨前のせいか、毎日が晴れ続きで、暑い日すら、あった。
精忠隊と称する武士は、先祖の遺品のような、古めかしい鎧と兜を身に着け、弓や槍を持っていた。
店の奥まで五人ほどが土足で入り込み、帳場の前で番頭や手代を嚇していた。
「我が精忠隊が、義により賊徒を追っ払ってやるゆえ、三百両を用立てよ」
口調には品があった。金が底を尽きた小旗本の一群か。
「魚河岸義勇軍、参上ッ」と武兵衛は大声で名乗ってから、わざと喧嘩を売ってみた。
「黴臭え鎧に、鉄砲も持たねえで。品川の敵陣へ討ち入ってくれそうにも見えませんがね」
すると、番頭へ鉄扇を突きつけていた者が、武兵衛へと、睨み返してきた。
「何だと、魚屋風情が。生意気な奴め。江戸市民は徳川家への報恩を忘れたのか」
武兵衛は鮪包丁を構え、ゆっくりと店の奥へ進んで行った。
「べらんめえ、肴問屋はな、二百五十年以上、毎日、只同然で御城へ良魚を納めてら。お前らみてえに、代々、のほほんと禄を食んできた鈍な忠義と一緒にしてもらっちゃ困るぜ」
「店の中では狭すぎる。無礼者めッ、表に出ろ」
武兵衛は「望むところだ」と更に挑発した。まんまと乗ってきた。これで店は無傷だ。
通りに出ると、魚河岸義勇軍と精忠隊は互いに睨み合った。
すぐに見物が集まる。
五人の精忠隊は、十二人の魚河岸衆に囲まれ、次第に、怯んでいった。
だが、大将らしき者が、
「魚屋に遅れを取っては、武士の名折れぞ」と叫ぶと、勢い込んで大刀を抜いた。
武兵衛の胸は躍らんばかりに、喜んだ。
――久し振りの大喧嘩か。悪くねえ。俺は、ずっとムシャクシャしていたんだ……。
武兵衛の隣にいた甚兵衛も、止める様子がない。
どうやら同じ心持ちのようだった。
「俺とて、些か剣術の心得はある。武兵衛さんのお荷物にゃ、ならねえよ」
甚兵衛も、腰に差していた大刀を抜き放った。
すると、見物衆を掻き分けて、三人の武士がやって来た。
先頭の小柄な若武者は、二十歳前後か。
陣羽織に小倉の白袴、朱鞘の大小を手挟んでいた。
だが、何よりも見る者を惹きつけたのは、衣装よりも、顔の美しさであった。
「……八代目市川團十郎が甦ったみてえだ」
見物人の誰かが呟いた。
透き通るように白い肌、黒々とした細い眉。
眼は涼しく切れて、きゅっと意志が強そうに結ばれた、赤い唇。
錦絵そのものの、美丈夫であった。
「拙者は彰義隊の毛利秀吉だ。この通りで喧嘩は止めてもらおう。品川を発たれた上野宮様が、直に日本橋をお通りになられる。血の一滴も落として、道を汚すものではない」
目の前の彰義隊士の、妙な姓名が気になった。
だが、その場にいた者が「宮様がお戻りになられたのか」と声を上げると、眼の前の喧嘩など忘れて、すっかりと喜びに包まれた。
既に、三井両替店から話を聞き出していたらしく、毛利秀吉は、そのまま、精忠隊の前へ立った。
「……押し借り行為は、法度に触れる。今、奪った金の全てを両替店へ返すなら、許す。出さぬなら、目付へ突き出す。どちらか選べ」
綺麗な顔の割には、言葉が厳しい。
睨みのほうも、團十郎より迫力があった。
精忠隊の頭は、黙って、懐から奪った金の包みを差し出した。
秀吉は、両替店の番頭を呼んで、包みの中身を確かめさせる。
確かに奪った金の全てがあった。
「……義のために、戦う意思があるなら、彰義隊へ入れ。軍資金なら、たっぷりあるぞ」
秀吉の言葉に「考えてみます」と返すと、精忠隊は、そのまま逃げるように消えた。
「おい、喧嘩はまだ終わってねえッ」と武兵衛が慌てて叫ぶと、秀吉が制した。
「お前さんが〈討ち入り武兵衛〉かえ。御頭が仰っていた通り、勇猛な町衆だな。だが、今は矛を納めよ。程なく宮様が通られる。物騒な物は仕舞って、皆で出迎えよう」
武兵衛の隣りで聞いていた甚兵衛は、大刀を鞘に納めながら、秀吉へ尋ねた。
「宮様の歎願が賊徒に通じて、江戸への討ち入りは、なくなったのでしょうか」
「さあな。だが、先に駿府より寛永寺に帰山された覚王院様によると、厳しい談判だったとか。賊徒は礼儀を知らぬ不成者揃いで、宮様の御行列に無体を働いたとも……」
そこへ「竹」と言いながら、陣羽織の武士が走ってきた。
秀吉は、困った顔で、息を吐いた。
「虎……。合語をあまり大声で申すな。敵に知られたら元も子もない」
言い終えると、彰義隊は橋のほうへと歩いて行った。聞いていた甚兵衛は小さく呟いた。
「無体だと……。上野宮様は、徳川の者ではなく、元は禁裏様のお身内なのに」
日本橋の向こう、京橋のほうが賑やかになった。
青天の下、ゆっくりと日本橋の上を、宮様の輿が渡ってきた。
十五日の町触にあった「歎願が相成候」は、上野宮の尽力であると江戸市民は信じていた。
誰も勝安房守の使いで駿府に走った山岡鉄太郎の名など、知らない。
宮が戻ったからには、江戸への攻撃は見合わせではなく、本当になくなったと理解した。
「宮様のお陰をもちまして、江戸は討ち入られて、焼かれずに済みました……」
沿道に集まった江戸市民の中には、泣きながら手を合わせる者もいた。
武兵衛と甚兵衛ほか、魚河岸義勇軍は、静かに輿が目の前を過ぎていく様子を見ていた。
「公方様が消えた今、大江戸の主人は、上野宮様――になったな」
甚兵衛の呟きに、武兵衛は頷いてみせた。
ふと、玄番頭の秘策が頭に浮かんだ。
「違う……大江戸の主人なんて、小せえもんじゃねえ。宮様は、天海僧正が東照大権現様と取り計らった策で、江戸屋の金公になるんだ。……恐らく、その流れへと動き出す」
つい、口が滑った。だが、甚兵衛は驚いていない様子だった。
「朋友の手紙にもあった。正月の大評定で、主戦(抗戦)派が掲げた大義こそが、上野宮様を推戴し、西の禁裏様と戦う策だったと。……だが、上様は内乱を好まず、恭順を選んだ。だから、荘内や会津、仙台の諸侯は、早々に江戸から国許へ戻り、支度に取りかかった、と」
「奥州の大名は、公方様に逆らってでも、天海僧正の策を決行する気なんだな」
「上様の御台慮よりも、東照神君の御神慮のほうが尊いからな」
武兵衛と甚兵衛は互いに目を合わせ、含み笑いをした。
「どうやら、諦めるのは、まだ先のようだな。甚兵衛さん」
「おおともさ。上野宮様が賊徒に奪われず、無事に帰山した。まだ江戸の勝算は……ある」
「ああ。江戸屋の金公てやつを作って、必ず、俺っちの江戸を取り戻そうぜ」
江戸で戦争が起きないと噂が広まると、府外へ逃げていた市民が少しずつ戻って来た。
ただ、その数は極めて、僅かであった。
嘗て百三十余万人いた人口は、五十万弱に減っている。
大江戸と誇った、世界でも有数の大都市は、呆気なく消え去ろうとしていた。




