其之六
六
江戸は、静かなまま、三月十五日の朝を迎えた。
昼前に、町触が出された。
「此度御征討御差下ケ相成、今十五日御討入之風聞も有之候二付、御歎願相成候処」
つまり、参謀の西郷吉之助が申すには、大総督府へのお伺いが済むまで、江戸攻めを見合わせる。江戸の武家も町家も、沙汰が出るまで静穏を保つように、との内容であった。
「お伺いってのは、いつまで待てばいい。沙汰が出るまで、俺のもやもやが終わらねえや」
珍しく、町触を読んだ武兵衛は、御納屋の本陣で、ぼやいた。
昨晩まで気を張っていたので、佐兵衛と甚兵衛は帰らせて、一人で留守居をしていた。
誰もいないので、ぼんやりと煙草を喫う。
つい、一昨日にあった、萬吉との僅かな逢瀬を思った。
――萬吉はあれきり御納屋に顔を出さねえ。と言っても、此方から訪ねちゃ、角が立つ……。
本気で萬吉が俺に惚れているとは、思えねえし。
恐らく、独りで怖かっただけなんだ。
「だとしても、俺はなんてえ勿体ねえことを。千載一遇の好機を……ああああッ」
つい、心の声が口から溢れた。
すると、北町奉行所与力の佐久間健三郎が、やって来た。
機嫌の悪い時に限って、不快な訪問者があるものだ。
「法度が出た。今すぐ、義勇軍を解散してもらいたい」
健三郎は挨拶もなしで、言い渡してきた。
――江戸攻めでは、江戸市民に何もしなかった癖に。相変わらず、態度は昔と同じ、威丈高なままだぜ……。
ちょうどムシャクシャしていたので、無作法には無礼で返そうと決めた。
武兵衛は煙草を喫いながら、助六の仕草を真似て、わざと行儀悪く座った。
「こちとら梁山泊なんだ。私な一軍でござんすから、町方の指図は受けませんぜ」
「徳川家からの命である。これからの大総督府との談判に障りがある。勝手に隊を組むことも、御法度となった。義勇軍は公の隊ではない。だから、即刻、解散致せ。よいなッ」
健三郎が詰め寄ろうとしていると、ふいに、玄関から大きな男が入ってきた。
陣羽織に袴姿で、最近の武家には珍しく、清清しい装いをしている。
「本日、出された法度は『以後、私にて隊名を唱えるを禁ず』というもの。魚河岸衆の義勇軍は、法度が出る以前に隊名を唱えて、創設された隊ゆえ、解散命令に従う義務はない。これ以上、揉めるようなら、この話は彰義隊が預からせてもらおう」
武兵衛は崩した体勢を直してから、相手をよく見た。知っている顔だった。
「……あ、あなた様は、いつか――御城の前で会った、……御役人様」
確か、名は、小田井蔵太といったはずだ。
。
「小田井様。以前、お目に掛かりやした。……はて、彰義隊とは」
「この度、彰義隊頭を拝命した。余りに重責ゆえ、幾度も辞退したが、引き受けることに相成った。田舎育ちの若輩である拙者を厚く登用して下さった御公儀には、一方ならぬ恩義がある。……頭となったからには、一命を擲って、責務を全う致すつもりだ」
健三郎が「拝命だと。彰義隊は私にて集まった、烏合の一隊のはずだが」と反論した。
蔵太は穏やかな眼のまま、慇懃な態度で、御城へ向かって、頭を下げた。
「二月二十三日に浅草東本願寺で結成された折には、左様な一群であった。俺はその場には、いなかった。だが、数日前、彰義隊頭は、老中支配、千石格、御役金八百両の歴とした役職として新設された。彰義隊も、今や徳川家の公の隊となり申した。……何せ、徳川家を取り仕切る、松平確堂様よりの直々の拝命にござる」
武兵衛は初めて聞いた、彰義隊に関心が湧いた。
「……彰義隊ってえのは、どういう役割を担うんですかえ」
「結成時の者は一橋家の家臣が多く、上様の御命をお守りするが、第一であった。だが、公の隊となったからには、いずれは市中警邏も加わろう。その支度として、拙者は見廻りの分担のために、魚河岸義勇軍へ挨拶に参ったのだ。よろしく頼むぞ、相模屋武兵衛」
武兵衛は目の前が不意に明るくなり、蔵太が浅草寺の金剛力士像に見えた。
「……お武家様が、俺っちと一緒に江戸を守って下さるのですかえ」
「いつかは、江戸を敵から取り返したいと考えておる。だが、今は江戸市民を守ることが先である。……とは申せ、彰義隊は生まれたばかりで、新徴組のように動けぬ。江戸の町について色々と教えてくれると、有り難い」
健三郎が「町方が目の前におるのに、こちらは用なしかッ」と不満を露わにした。
すると蔵太は、健三郎の喧嘩腰の視線に抗うことなく、静かに返した。
「町奉行所には、混乱した市中を安寧に保つ大きな役目がござる。彰義隊は忙しい奉行所を助けるために、公の隊と認められた。啀み合わず、共に江戸を守って参りましょう」
蔵太と邂逅したのは、これで、二度目だ。
初めて会った時、蔵太の瞳の奥に、全てを受け止められるほどの深い森を感じた。
今も、健三郎の喧嘩腰の言葉を鎮めながら、そっと躱している。
「義勇軍解散の件は、彰義隊が預かるとの話。御奉行の河内守様へ申し上げておく」
健三郎は言い終わると、居心地が悪そうに、急いで去って行った。
出ていったのを確かめると、武兵衛は、蔵太に頭を下げた。
「小田井様、助かりましたよ。町方がしつこくて……難渋しておりましたので」
「蔵太でいい。おぬしとは、二度目だ。既に気脈を通じたつもりでいる」
「こちらこそ、恐縮でござんす。是非とも、よろしくお願いいたしやす」
――鍛え上げられた躰、大手門前で見た剣裁き。相当な剛勇の士であろうに、どうしたら、こんなに器が広くて、穏やかでいられるんだ。俺とは真反対の人だ……。
武兵衛は、初めて武士に惹かれた。
永井玄番頭への敬慕の念は強い。だが、武士というよりも先に、高徳の人としての瞻仰であった。
武兵衛が知っている武士は、大概が、嘘吐きで吝嗇。威張る割には、剣術や喧嘩が弱い腰抜けばかりで、心底から大嫌いだった。
だが、蔵太は違う。とても敵わないと感じさせる、逞しさと優しさがある。
――蝦夷で勤めていたとか。鮭や昆布を売りに来る箱館商人によれば、蝦夷は途方もなく広い森に覆われているそうだ。蔵太様の泰然とした様子も、蝦夷で培ったものか……。
そこへ同じ身形だが、腹が大きく、小肥りの武士がやって来た。
髭の剃り跡が、青々しい。
「蔵太、探したぞ。渋澤成一郎が軍議を開くとさ。……どうせ、上様を官軍から守る防備策に終始するのだろう。一橋家家臣には、彰義隊が公の隊となった自覚が足りねえ」
口は悪いが、人懐っこそうな笑顔で、小田井蔵太の隣に並んだ。
「武兵衛さん、これは俺の友人の天野八郎。彰義隊の結成に係わったのに、副頭取で構わないという変わり者だ。だが、頭取の成一郎と、事ある毎に角突き合っていてな。お陰でどちらとも知り合いの俺が担ぎ出されて、二人の上司である御頭に補任された訳だ」
「つまりは、蔵太様が弥次郎兵衛の真ん中で、天野様と渋沢様の釣り合いを取っているのですね」
八郎が「弥次郎兵衛か。なるほどッ」と手を叩いて笑った。
笑うと、頬に笑窪ができる。
蔵太と友人だというこの武士も、腹蔵のない、真っ直ぐな人のようだった。
「新門辰五郎と並ぶ、江戸の快男児、相模屋武兵衛。蔵太が申す通り、肝の太い漢だな」
八郎は楽しそうに述べた。
武兵衛は憧れの辰五郎と並べられて、本気で照れた。
「辰親方と並べちゃ、江戸市民に叱られますぜ。俺ァ、まだまだ駆け出しにござんす」
「軍議に出なくてはならぬので、立ち話で済まぬが、聞いてくれ」
蔵太は居住まいを正して、武兵衛へ語った。
「彰義隊は浅草で生まれたが、今は上様の護衛として、上野の寛永寺に屯しておる。浅草と言えば、辰五郎の本拠。東本願寺の屯所の件で、随分と世話になった。……その辰五郎が、相談を持ち込むなら、相模屋武兵衛の許へ行けと申した。だから参った次第だ」
「市中見廻りで相談事とは。まだ賊徒の江戸討ち入りが消えていねえ状況でござんすよ」
「御触書には、見合わせと書かれているが、こちらからの歎願は大総督府に届いておる。後は、細かい条件の談判が残っているだけだ。つまりは、もはや、討ち入りはない」
あっさりと、最も聞きたかった言葉が、蔵太の口から飛び出した。
「……討ち入りは、もうねえんで。それで今後の件で、相談事にいらっしゃったんですか」
武兵衛は安堵の心持ちを取り敢えず胸に仕舞って、蔵太の話を聞いた。
「討ち入りは消えたが、賊徒が府内へ入って参る状況は避けられん。市民を賊徒の乱暴から守らねばならぬ。彰義隊が正式に市中取締を担うより先に、急いで仕組みを作りたい」
「賊徒が府外に留まっているうちに、市中見廻りの支度を整えたいわけでござんすね」
武兵衛の言葉に、蔵太は、ゆっくりと頷いた。
「彰義隊はまだ五百人。とても江戸市中を見廻り切れぬ。今の処、龍虎隊と手分けしても神田川の北側までが精一杯だ。それ故、南側を魚河岸義勇軍に助けてもらいたい。勿論、賊徒が刃傷沙汰を起こそうものなら、彰義隊がすぐに駆け付ける。話に応じてはくれぬか」
蔵太が頭を下げると、八郎も同じようにしてから、言葉を続けた。
「隊士が増えるまでの間だ。……ただ、一橋家出身の一派が、広く隊士を増やす件に難色を示しておってな。本日もこれから、俺と蔵太で、説得するつもりだ」
「こちらこそ、助けて下さいまし。本音を言やあ、彰義隊が市中を見廻って下さるだけで、どれだけ心丈夫か。義勇軍などと申しても、俺っちの武術など高が知れておりますから」
武兵衛は二人の前で、大きな躰を二つに折った。
「神田川南側の件、お引き受け致しやす。火消衆とよく相談して、見廻りを担当すれば、乗り切れましょう。ですから、彰義隊を増やして、大江戸全てを守って下さいまし」
蔵太は、大刀の底を床にドンと立てると「心得た」と返してきた。
八郎は「大袈裟だなァ」と明るく笑ったが、武兵衛は蔵太の真摯な眼差しに釘付けになった。
武士と町人の間に垣根も作らず、漢と漢の約束をして、蔵太は帰って行った。
――俺が初めて惚れ込んだ武士だが、目に狂いはなかった。あの御方は信じられる。
などと、考えてからハッとした。
「捨てられても、相変わらず……武家を頼っちまうのかよ。ったく、しだらもねえなァ」
町の商人はいつになったら一本立ちできるのか――。
武兵衛は頭を左右に振った。
「いや、蔵太様はただの武家じゃねえ。あの漢となら江戸を共に守れる……。しかも、敵から江戸を取り返す算段もしているらしい。いいじゃねえか、いいじゃねえか」
商人の勘が、強く勧めてくる。小田井蔵太に、賭けても損はしねえ、と。




