其之五
五
江戸城総攻めの前日である、十四日の夕刻。
御納屋の本陣は赤々と松明を燃やし、当番の五十人ほどの魚河岸衆が集結した。
ほかの百五十人は、いつでも飛び出せるように、家で待機している。
は組の火消衆も駆け付け、大砲を持ってきたので、日本橋と江戸橋の袂に並べた。
更に、は組はゲベール銃を二十挺も持っており、市場前の固めに使うことにした。
甚兵衛が日本橋の絵図を広げて、義勇軍や火消のは組へ、翌日の戦術を丁寧に解説した。
「賊徒は品川から入って来よう。京橋、茅場側へ大砲を向けた。弾玉を避けながら、橋へ殺到する敵兵を、橋の上で我ら義勇軍が竹槍で迎え撃つ。は組のゲベールは、その後だ」
武兵衛も聞いていたが、どうにも耳へ入ってこない。
――安房守め、なぜ知らせて来ねえ。談判はどうなったんだ。明日は戦争になるのか。
研ぎ終わった鮪包丁を眺めながら、苛ついて脚をしきりに揺すっていた。
「大将が落ち着かぬと、皆も熱立ってくる。近所を見廻ってきたらどうだ」
副将の佐兵衛に促されて、提灯に火を入れると、本陣の外へ出た。
今日と明日は、軍令に示した異変の節なので、義勇軍の袢纏の肩に、名を記した小旗を縫い付けた。
万が一のため、太鼓を持たせて、庖丁の他に竹槍を持った。
本来の見廻りより早い刻限だが、当番の若い衆はそわそわして待っていた。
動いていないと、不安が広がるのだろう。
当番の中には、駒蔵の顔もある。
武兵衛は、皆を落ち着かせようと、明るく声を懸けた。
「今夜は、気張って歩けよ。敵の斥候が潜んでいるやもしれねえからな」
声を懸けると、皆が「へえ」と活きの良い返事をする。
「見つけたら、とっちめても良いんですよね」
駒蔵が威勢良く、尋ねてきた。武兵衛は、大きく頷いた。
「あたぼーよ。ボコボコにして、町方へ突き出してやろうぜ」
緊張感の漂う中、義勇軍は、ゆっくりと歩き始めた。
日本橋川の平田船には沢山の提灯が見えて、江戸から逃れる町衆が、我先にと、大きな船へ乗り込んでいた。
桜の花弁が風に舞う中、江戸橋の上から逃散の様子を眺めると、寂しさが込み上げる。
魚市場を過ぎると、急に静かになった。
店の大戸は厳重に閉じられ、人影もない。
でも空き家ではない。必ず留守居役がいて、店の中で、怖い想いをしながら過ごしている筈だ。
「よし、異変の節だ。火の要鎮の掛け声みたいに、町へ向かって、声を出そうぜ」
と言うと、武兵衛は「魚河岸義勇軍、参上」と声を張った。
独りで夜を過ごしている誰かに届くように。
俺っちがいるから、安心してくれよ、と。
「魚河岸義勇軍、参上」と義勇軍も続けた。
歩いて行くと、大通りの辻で、木材や枯葉を積み上げている人びとがあった。
町場の者とは違う、風変わりな衣服から、浅草弾左衛門の配下であると察した。
「……安房守の莫斯科の策戦の支度が進んでいるのだな」
後は、油を注げば火が付けられるように、江戸の市中の彼方此方に、廃材の山ができた。
敵の斥候に見せるために、わざと大通りの辻に仕掛けているが、これを見て、慌てて逃げ出す住人も多い。
武兵衛とて、江戸を焼く支度を眺めると、背筋が冷たくなる。
敵を欺くには、先ずは味方から――とは申せ、些か、酷な話だ。
「焼けて消えなくとも、江戸に賑わいが戻る日は、いつになるだろうか……」
武兵衛は春の宵の冷たさを感じながら、どうにも気が滅入った。
すると、真っ暗な通りに一箇所だけ灯りが見える。
しかも、大きな笑い声が聞こえてきた。
瀬戸物町の寄席〈い世本〉だ。
明日にも戦争が始まるかも知れないのに、札止の勢いだ。
派手に太鼓や銅鑼がジャンジャンと鳴っている。芝居噺の大詰めのようだった。
吸い寄せられるように、義勇軍は、江戸提灯が並んだ〈い世本〉の入口の前に立った。
幟には、三遊亭圓朝の大きな文字が見えた。
今夜も真を打つらしい。
「明日がアレだってえのに、度胸のある奴がいたものですね」
呆れた声で駒蔵が呟いた。武兵衛は首を横に振った。
「少し違うな。江戸以外に行く宛のねえ町衆は数多いるんだ。何が起こるか分からなくても、残るしかねえのさ。だったら、……最後の夜を楽しむよりほか、あるめえよ」
とはいえ、たった一つの灯りが、武兵衛にとっては、何よりも心丈夫に感じた。
「あんなに大笑いできるんだ。江戸っ子はしぶてえや。……この町は金輪際、死なねえな」
すると、留吉が「舟、舟」と叫びながら、本陣から走ってきた。
「水だ、水。何かあったのかえ」と武兵衛が尋ねると、留吉は息を弾ませて口を開いた。
「安房守の使いが来やした。すぐに戻るようにと、副将が」
やっと来やがったか。
武兵衛は慌てて、手にしていた「魚がし」の旗を、留吉に差し出した。
「残りの見廻りは頼んだぜ。怪しい奴を見たら太鼓を鳴らせ。鳶口ではなく竹槍を使えよ」
留吉と駒蔵が頷くのを確かめると、武兵衛は急ぎ足で、本陣へ戻った。
「どっちだ、どっちだ。安房守は何と知らせて来やがったんだ。吉か、凶か」
逸る気持ちを抑えながら、こんなに走っているのに、ちっとも御納屋に辿り着かない。
武兵衛は漸く本陣の行事部屋へ駆け込んだ。
佐兵衛は笑顔を湛えて、ゆっくりと応えた。
「談判は成った、と。明日の御城への討ち入りはない。莫斯科には、ならぬよ」
「よっしゃあッ。嗚呼、良かった。……江戸は明後日まで生き延びられたァ」
武兵衛は喜んで叫ぶと、とにかく座った。やっと心の底から、安堵できた。
だが、落ち着くと悪態の一つも吐きたくなる。
「……あーあ、面白くもねえなあ。俺っちの出番がなくなっちまったい」
江戸を丸焼けにせずに済む。
言葉とは裏腹に、隠しきれない嬉しさが込み上げてきた。
佐兵衛は、使いが持って来た小さな紙片を見せた。
武兵衛は、慌てて文字を確かめた。
「談判は成立。江戸討入見合わせと相成り候……以上。……見合わせかよ。半端だな」
甚兵衛は「見合わせとは、中止と同じだ」と不機嫌そうに、ぼやいた。
「せっかく防戦の支度をしたのに。あの重い大砲を道の端へ退けねばならない」
本心とは別に、ブツブツ言いながら、防戦策用の絵図を畳んでいた。
ちょうど、お艶とお香が握飯と漬物を配り始めた。
お艶が行事部屋に入ってくる。握飯と漬物の載った皿を置いた。
「邦ちゃん、また眉間に皺が寄ってるよ。腹が膨れれば、機嫌も良くなるさ」
「それもそうだな。俺はいつも考え過ぎる。よくお勝ちゃんに窘められたっけ」
甚兵衛の顔に明るさが戻った。
その隣りの佐兵衛は、煙管を銜えて美味そうに煙草を喫う。
――こんな在り来たりの遣り取りが、心に沁みる。今まで、気が張ってやがったんだな。
心が楽になったら、腹が減った。
武兵衛は握飯を掴むと、いきなり頬張った。
「ちょいと、お前さん。総代らしく、もそっと行儀よくおあがんなさいよ」
すると、お香が廊下を通り掛かった。大きな皿で握飯の山を運んでいる。
「そんな大きなお皿、独りで持ったら危ないよ。全く、本当によく働く子だねえ……」
お艶は慌てて、お香に追い付くと、一緒に皿を運んだ。
「先刻方、品川浦の傳吉の猪牙舟が来てね。賊徒の本軍が品川でウロウロしているけれど、怖がって御府内へ入ろうとしねえってさ。まったく、しだらもねえやさ」
大広間から、お艶の威勢の良い声が聞こえていた。義勇軍は、皆で大笑いとなった。
武兵衛も釣られて笑った。
御納屋の窓から見える夜空には、丸い月が明るく耀いていた。




