其之四
四
三月十一日、品川浦の傳吉が猪牙舟で「敵、品川に迫れり」と知らせてきた。
江戸市民にも噂が届いて「すわ、戦争が始まる」と府内は翌日から大混乱となった。
淡い希望を抱いていた、上野宮の上洛だが、行ったきり、何の音沙汰もない。
どうやら、敵への説得は叶わなかったらしい、と絶望する者も多かった。
魚はまだ僅かだが、荷が魚河岸へ届いていた。
だが、青物市場は戦禍に巻き込まれたくない百姓が、江戸に売りに来ないため、日増しに扱う野菜が減って行った。
米は一両につき、八枡三合しか買えない。
米価は、十年前に物価が高騰した嘉永安政期の、十倍以上になっていた。
――魚も米も野菜もねえとくれば、そりゃ逃げ出すわな……。
江戸から逃れようと、それまでよりも遥かに大勢の町衆が、魚河岸へと押し寄せた。
「荷物は一つだけ。川越は伊勢屋、木更津へは相模屋から出る。館山へ行くのは千足屋からだ。それより近場は大川沿いの船宿から出ている。くれぐれも間違わぬように。よいな」
船の近くでは、名主の村松源六が、魚河岸衆に負けないほどの大声で、差配していた。
腰が曲がった老人とは思えない、気迫溢れる姿に、日本橋の町衆は驚いた。
「市民に尽くすのが名主の使命だと。……見事な仕切で、儂の出る幕がないほどですよ」
本陣にやってきた又右衛門は、泣き顔を隠すように、わざと困ったように語った。
聞いていた、佐兵衛と甚兵衛は感極まって、そっと涙を拭いた。
武兵衛もまた、哀感を滲ませて呟いた。
「脚元もおぼつかなかった爺さんに何か起きたのか。……草創名主の矜持に火がついたのやもしれねえや。……だとしたら、命ってやつは幾つになっても、美しいものですねえ」
しかし、泣いている場合ではない。武兵衛には、役目があった。
「さて、俺も張り切るかッ」と息を吐き、御納屋の玄関を出た。
頭に鉢巻をし、長脇差を腰に差して、彫物を見せるために片肌を脱いでいる。
背後には、廃止になった辻番屋から運んで来た、刺股等の責め道具を並べた。
大門脇に台を置き、その上に立った。
一段上から広小路を往来する衆人へ、睨みを利かせる。
少しでも怪しげな者が通り掛かると「こっちへ来い」と軍配を振って、身許を確かめた。
――まるで山奥の街道筋の博徒のようだ。敵の斥候に見せるための芝居とはいえ、辛えなァ……。
台の上から、ふと見ると、駒蔵が江戸橋をふらつきながら渡って来た。
御納屋の前で立ち止まる。眉間に皺を寄せると、決意の表情で、顔をあげた。
「大将、おいらを義勇軍に復帰させてくれ」
駒蔵を追ってきたお香が「ま……だ、怪我が治っていないのに」と駒蔵の袖を引っ張る。
武兵衛はゆっくりと、台を下りた。
駒蔵をじっと、見下ろす。
「駒蔵。お前は、戦いたくねえと言ってたろ。信念を曲げるつもりか」
圓朝髷ではなくなっていた。お香が結い直してやったらしく、銀杏髷である。
「相模屋でおっ母さんを預かってくれるなら、なんの憂いもねえや。一緒に戦いてえ」
駒蔵の声を聞いて、留吉が〈本陣〉の提灯を揺らしながら、飛び出してきた。
「お前は俺の命の恩人だ、休んでろ。代わりに俺が戦うから。……女を泣かすなよな、色男」
駒蔵が驚いて振り返ると、お香の瞳から涙が溢れていた。
「お香ちゃん、ごめん」と慌てて、照れて俯く。
駒蔵の肩へ、武兵衛が優しく手を載せた。
「俺の妹分を不幸にしたら、ぶっ殺すぞ。……覚悟は、できているのだろうな」
駒蔵はもう一度、顔を上げると、まずは武兵衛を見た。
「お香ちゃんは、俺だけじゃなく、おっ母さんも介抱してくれる。こんな優しい女房を持てたら、どんなに幸せだろうかと思います。でも、今は戦いてえ。……自分だけ幸せになって好い秋じゃねえや」
「武士みてえな口を利くんじゃねえよ。お香と夫婦になる気がねえなら、本人にちゃんと伝えろ。その気にさせたままにするなら、今すぐ、日本橋川へ突き落とすぞ」
駒蔵は、瞳に涙を一杯に溜めたお香を、真っ直ぐに見た。
「そんな顔をしないでくれよ。おいらはお香ちゃんが大好きなんだ。だけど、今の魚河岸は景気がどん底だし、賊徒はすぐそこまで来ている。そんな最中で、自分だけ幸せになるわけにはいかねえんだよ。世の中が落ち着いたら、夫婦になってくれと話すからさ」
駒蔵の唇の動きで言葉を読み、お香は驚きながらも頬笑んだ。
だが、すぐに「相応し……くない」と顔を伏せた。
武兵衛はお香が躊躇う訳を知っている。その上で、二人を見守った。
すると、駒蔵がお香の顔を覗き込んで、耳を人差し指で押しながら、言葉を伝えた。
「おいらがお香ちゃんの耳になる。できないことは何でも手伝うから、気にするなよ」
唇を読み取ったお香は、嬉しそうに頷くと、涙を零した。
「お香は待ってくれるようだ。良かったな、駒蔵」
武兵衛は今度は思い切り、斬られたほうの肩を叩いた。
駒蔵は痛みに耐えて「へい」と頷いた。
留吉は嬉しそうに、駒蔵の怪我をした腕を軽く、労るように擦った。
「安心しろや、俺がお前を死なせやしねえよ。お香ちゃんのためにもな」
駒蔵は照れながら、「おう、共に賊徒をとっちめてやろうぜ」と声を出した。
すると、何処からか、柔らかい風に乗って、桜の花片がひらひらと飛んできた。
今年は知らぬうちに、花見の時季が過ぎて行こうとしている。
江戸城への総攻めが、あと三日に迫っていた。
夜遅くまで、武兵衛は本陣に詰めていた。独りで魚市場の周りを見廻り、戻ってくると、
「旦那、……武兵衛の旦那」
と玄関の奥から、小さく、綺麗な女の声がする。
真っ暗な使者之間の唐紙が、少し開いていた。
怪しみながら、武兵衛が提灯を翳して、使者之間を覗き込むと、萬吉がいた。
「どうしたんだ、こんな夜更けに。女が独りで歩いて良い刻限じゃねえぞ」
萬吉は平服だったが、座っている傍の御重を指差した。
「差しいれをお持ちしたら、誰もいなくて」
「三番組が見廻りに出ているからな。もう少ししたら、みんな戻ってくるぜ」
武兵衛は花冷えで、どうにも寒いので唐紙を閉めながら、使者之間に入った。
すると、いきなり、萬吉が抱きついて来た。
「十五日になったら、江戸は焼かれて、わっちらも殺されちまうんでしょう。……旦那に貰った切手で美しい衣装を誂えたのに。もう、唄うことも、舞うこともできないなんて」
抱きつかれた勢いで、提灯の火が消えた。淡い月明かりだけが頼りとなる。
武兵衛の胸は、火事の時のように、早鐘が打ちっぱなしになった。
「不安な心持ちは分かるが、大丈夫だ。偉い人たちが動いている。希望は捨てちゃいけねえ――」
顔を上げた萬吉が頬を涙で濡らしている。月明かりの中だと、殊更に美しい。
「……怖いの。後生だから、旦那。今だけで良い。何もかも忘れさせて……」
武兵衛は、頭の中が混乱した。
男嫌いの萬吉に、俺は誘われている――のか。
嘘だろ。こんなこと、起きるはずがねえ……。
と思いながらも、武兵衛も、ついつい、強く萬吉を抱き締めた。
鬢付け油の甘い香りに、心が激しく惑う。
「萬吉、……俺は」
言葉が浮かばず、そのまま畳の上に萬吉を横たえようと、躰を傾けたところ――。
「おや、真っ暗だね。なんだい誰もいねえのかよ。……武兵衛、邦ちゃん。差しいれの握飯だよ」
お艶のでかい声が、玄関から響き渡った。
武兵衛は、萬吉を慌てて抱き起こし、離れて座った。
「勝手に上がるよ」とお艶の声がして、ドタドタと音を立てて、奥の行事部屋へ行った。
静まり返った使者之間で、武兵衛は、ようやく我に返った。
「……なんか、済まなかったな」
と小声で詫びた。
「いえ、此方こそ。……つい、気が昂ぶっちまって。お恥ずかしゅうござんした」
萬吉は言い終わると、御重を置いたまま、そっと唐紙を開けて、出て行ってしまった。
「あ……れ。俺ァ、一世一代のしくじりを、やっちまったのか――」
武兵衛は、萬吉の残り香の中で、しばらくの間、茫然と座っていた。




