其之三
三
駒蔵の左腕は神経が断たれていなかったため、傷が治れば、魚河岸で働けそうだ。
お須磨の病気もあり、使い軽子を辞めて、荷揚軽子として相模屋に雇われることになった。
「……傷痕にも彫物が入れられますかね。左腕だけ色が入らねえと格好が悪いや……」
寝かされている駒蔵は、武兵衛にぼやいた。隣に寝ているお須磨が咎める。
「これ、駒蔵。多くの方々に助けて頂いたのに、彫物が気懸かりなぞ、罰当たりな」
武兵衛は「お須磨さん、魚河岸の者は皆、こんなものですよ」と笑った。
すると、お香が、それぞれの薬を煎じて持って、部屋に入ってきた。
今ではすっかり、二人の世話係になっている。
「全部、飲んで……。文中先生に、あたしが……怒られる」
お香は駒蔵へ薬の入った茶碗をぐいと押し付ける。
駒蔵は不貞腐れながら、起き上がった。
「分かったけどよ。……でも、苦いんだぜ。お香ちゃんも飲んだら分かるって」
武兵衛はお須磨を起こし、茶碗を渡しながら、駒蔵とお香を微笑ましく見詰めた。
そこへ、伊左衛門が急ぎ足で、部屋に入ってきた。
「新門の辰親方が、妙な三一を連れて参りましたとか。御納屋で待っておるそうです」
御納屋まで、遠くはない。
相模屋を出て魚市場通りから、江戸橋を渡るだけだ。
――身勝手な武家なんざ、糞食らえだ。せいぜい待たせてやらあ……。
武兵衛は、わざとゆっくり歩いて、少し刻を掛けて御納屋へ入った。
使者之間へ行くと、既に甚兵衛と佐兵衛が並んで座っていた。
二人の前には、辰五郎のほか、背の小さい、色白の武家が並んで座っている。
「あれ、お前さんは。永井の御前様の屋敷前にいた。勝麟さんかい」
声を掛けるなり、相手は、いきなり睨みつけてくると、とんでもない早口で怒鳴った。
「べらんめえ、態とのんびり歩いて来やがって。おいらを待たせるんじゃねえッ。……それからな、勝麟さんと呼んで良いのは、長崎海軍伝習所の一期生と、永井様と奥方様だけだ。てめえが言うなッ」
武兵衛はのんびり歩いて来たのを、まるで見られていたようで、驚いた。
辰五郎は笑うと、武兵衛へ紹介した。
「こちらは勝安房守様。今は軍事御取扱だ。ちょうど、話を始めておった」
辰五郎の紹介なので、武兵衛は一応、挨拶をする。
安房守も、不貞腐れながら、軽く会釈した。
佐兵衛が進んでいた話のあらましを教えてくれる。
「魚河岸の船を、船頭付きで借りたいそうなのだ。……どうする、総代」
今度は勝安房守が「あれ、総代は佐兵衛さんじゃねえのかい」と吃驚した顔になった。
佐兵衛は、落ち着いた声で、返事をした。
「義勇軍を創るに当たって、総大将になった武兵衛さんに一任したのです」
「人品骨柄、佃屋一門の血筋といい、何処を取っても、魚河岸衆の束ねは、お前さん以外におるまいに。……何だってまた、総身に彫物入れているような、こんな喧嘩馬鹿を……」
武兵衛は聞こえるように、大きな咳払いをすると、総代として尋ねた。
「……軍事の御役目の御方が、どうして、俺っちの船を必要としていらっしゃるので」
すると、勝安房守は居住まいを正して、武兵衛へ応えた。
「江戸御府内の市民の全てを、三月半ばまでに、誰一人たりとも漏らさず、府外へ逃がすためだ。先刻方、大川沿いの船宿や料理茶屋も助けてくれるとの約束を取り付けた。だが、とても足りん。海軍からも動かせる御軍艦を使うつもりだが、それじゃ追っつかねえ」
安房守は、本所風のとんでもない早口だったが、一字一句、しっかり聞き取れる。
「馬鹿を言っちゃいけねえや。半月足らずで、全ての江戸っ子を運ぶなんざ、無茶苦茶だ」
武兵衛が不満を示すと分かっていたように、安房守は今度は、ゆっくりと語った。
「上様は恭順の意を示すため、寛永寺に移った。にも拘わらず、官軍は江戸城への進撃を三月十五日と定めた。女しか残っていねえ城を攻めても無益だと、東征軍へ使者を立てた。色良き返事は期待できねえが、敵の参謀に知り合いがいるから、まだ諦めてはいねえ。だが、談判が決裂した際の策も練らねばなるめえよ。……お前さん、那波烈翁は知ってるか」
「『水滸伝』と『三国志』以外は知らねえな。……甚兵衛さんなら、知っているだろ」
甚兵衛は頷き「ただの兵士から仏蘭西の皇帝になった、一代の英雄だ」と応えた。
「那波烈翁は戦争上手だが、露西亜で大敗した。入城した莫斯科は空っぽで、その夜、各所から火の手が上がり、三日も燃え続けた。那波烈翁の軍勢は這這の体で仏蘭西へ逃げ帰った。……俺はこの故事に倣おうと考えた。江戸へ入った敵の全軍を焼き尽くさんと、な」
あまりに途方もない話に、武兵衛は「何だって」と驚き、思わず、辰五郎を見た。
「俺も最初は吃驚した。だが、安房守様は本気なのだよ。火消衆や浅草の弾左衛門と次々に面談し、火を点ける箇所に油や材木屑を用意させている。次は江戸を空にするため、市民を逃す算段に奔走中だ。……どうでえ、武兵衛さん。手を貸しちゃくれぬかえ」
話を聞いた武兵衛は、思わず唸った。
――江戸の裏を仕切る、長吏頭の弾左衛門にまで、話を通していようとは……。
すると、安房守は、せっかちに煙管を出して煙草を喫った。
「なにが不承知なのか、ええ。武兵衛さんよ。おいらは次へ行かなくちゃならねえんだ」
「……火消衆に放火をさせ、敵を騙して焼き殺す。どう考えても卑怯な遣り口だぜ」
武兵衛が呟くと、安房守は唾を返した。
「お前さんは、上様の首を差し出し、この江戸を敵軍に蹂躙されても構わねえってのかえ」
武兵衛が困惑して、隣の甚兵衛を見る。すると、いつものように平静のまま、応えた。
「俺も安房守様の策は、ありだと考える。そのぐらい思い切らねば、勝つ見込みはない」
「頭の巡りの良い奴は平気な顔で酷え話をしやがる。江戸の町が消えても構わねえのかよ」
呆れてぼやくと、安房守は口調を変えて、童に諭すように、語り始めた。
「……上様は昨年十月に天下の大権を禁裏に返した。西洋の列強国と渡り合うには、日本は禁裏を中心に一つに纏まった公議制の国にしねえと保たねえからだ。これは公のために徳川家が私の支配を捨てた、立派な行いだ。……そこまでは分かるな、武兵衛さん」
武兵衛は、前に永井玄番頭から聞いていたので、頷いた。
安房守もまた、続けた。
「薩摩や長州は上様の譲歩を不知顔処か、徳川家を朝敵などと古臭い言葉で罪人となして、新しい政体から追い出しやがった。これは紛れもなく、己の権勢欲のための私の考えだ」
武兵衛は、前に「賊徒輩は公と私の別が解せぬらしい」と佐兵衛が呟いた姿を思い浮かべた。
なるほど、そういう話だったのか。今、合点が行った。だが……。
「江戸に入府した賊徒を焼き殺すのは、公のためなのですかえ。恨みや憎しみによる、私の行為としか、俺には思えねえ。あんたさんが敵の偉い奴と談判し、戦争を避けることが、公の利益って奴だ。敵を殺してスッキリしても町や家をなくしちゃ、勝ちとは言えねえや」
安房守は武兵衛をジッと見ていたが、ふと、口許を緩めた。
「痛い所を突いてきやがるぜ。さすがは〈討ち入り武兵衛〉だ。……敵の参謀の西郷って奴と談判をするつもりだが、今のところ、勝算は五分五分って感じだ」
「今は二月の終わり。三月十五日まで刻はある。何かもっと勝機を得る策はねえんですか」
「先方の到着待ちさ。おいらは一命を懸けて江戸城への攻撃を止めてみせる。だが、物別れになった際に、江戸の人を救う策も用意しなくちゃ。決死の談判なら、当たり前だろ」
武兵衛は今までの数々の、自分の談判を思い浮かべた。
「いや、俺は決裂などさせねえと決めて懸かるから、何も用意はしねえ。逃げ道を作ったら、弱気になる。金輪際、相手に負けねえと腹を括りゃあ、失敗なぞしねえものだ」
聞き終えた安房守は、眼をカッと見開くと、大声を出した。
「逃げ道を作った覚えはねえ。おいらは江戸五十万の命を背負っているんだ。焼き討ちの策は西郷との談判を有利に運ぶ深謀でもある。ただ、おいらの策を抜きにしても、既に府外へ逃げたい者が大勢、出ている。そのためにも、船を貸してくれろと頼んでいるんだ」
煙草を喫いながら、黙って聞いていた辰五郎が、徐に口を開いた。
「総代。……安房守様の策は、江戸市民を一人も死なせたくねえ、その一心で練ったものだ。家屋は燃やしちまっても、建て直せばすぐに元に戻る。明暦の大火でも甦った江戸だ」
辰親方の言葉に間違いはない。頷きたかったが、安房守に負ける気がして、できない。
武兵衛は、副将の二人を見た。どちらも頷いてくる。
副将のほうが頭の巡りがいい。ここは賛成するしかねえようだ。
渋々ながら、納得した。
「……承知しました。今月に入ってから、魚河岸も茶を挽くばかりで、暇でござんすから」
安房守は安堵の表情を浮かべると、懐から、袱紗に包んだ小判を置いた。
厚みからして、百両はありそうだ。
「船賃は取らないでやってくれ。足りなきゃ、また出す。噂を聞きつけて、早くも江戸市民が船宿へ押し掛けている。魚河岸も明日から忙しくなると思うが、どうか一つよろしく」
頼むからには金を払う。
市井では当たり前の話だが、武家は吝嗇坊だから、払おうとしない。
だが、安房守は町家の流儀を知っているようだ。
武兵衛は少しだけ気に入った。
「遠慮なく頂戴します。これで干上がっていた船頭や廻船問屋が息を吹き返しますぜ」
「いつもの年なら、花見の頃で高値の鯛が売れる稼ぎ時なのに。魚河岸も難儀してるな」
言い終えると、安房守は、さっさと立ち上がった。武兵衛が咄嗟に尋ねる。
「江戸の焼き討ちは、談判の材料に使うだけで、本気じゃねえ。そう承知でよろしいんで」
歩き出した安房守は「もちろん本気だよ」と応えてから、
「そうさせねえために、全力は尽くす。……江戸には既に多くの敵の斥候が入り込んでいる。其奴等に、まずは江戸の彼方此方に戦争の備えや罠が仕掛けてあると、見せつけるが肝要だ。談判を有利にするためにな。……義勇軍さんも、どうか励んでくれや」
安房守が帰ってから、佐兵衛は茶を啜りながら、静かに呟いた。
「まさか、莫斯科の策戦を、江戸で行おうと考えるとは……。恐ろしい胆力の持ち主だ」
武兵衛は考えているうちに、安房守の最後の言葉に含まれていた策謀が見えた気がした。
「なるほどなぁ。……それじゃ、魚河岸義勇軍は、安房守の談判が成功するように陰ながら合力しなくちゃいけねえな。まずは本陣の構えを更に堅固にしよう。夜の松明も大きくして、斥候に江戸の防備を見せつけるんだ。そうすりゃ、敵軍は警戒して府内へ殴り込みを掛けられねえ。つまり、血を見ずに済むって寸法だ」
と語ると、甚兵衛は「おや、先に話されてしまった」と笑った。
「軍師の役割を俺から奪うつもりかい。武兵衛さんは、最早、宋江以上の立派な総大将だ」
武兵衛も煙管を手にしながら、片頬笑んだ。
それまで黙って煙草を喫っていた辰五郎が、話懸けてきた。
「浅草でも龍虎隊ってえ、義勇軍を創った。お互い、安房守の策を信じて江戸を守ろうぜ」
武兵衛は「合点承知にござんす」と応えた。
「辰親方や弾左衛門が認めるなら、安房守は只者じゃねえや。江戸を守り切るには、あいつを助けて行くしかねえ。俺も腹を括りましたぜ」
辰五郎は口許を微かに緩めると、ゆったりと印袢纏を翻しながら、帰って行った。
――来月十五日に江戸を地獄にするか、否か。前日までに勝負が決まる。嗚呼、東照大権現様、どうか江戸をお助けくだせえ……。
武兵衛は心で手を合わせ、江戸の安寧を願った。
魚河岸の肴問屋は、例年より早く、出稼ぎの軽子衆に給金を払い、故郷へ帰らせた。
三月四日、町奉行所は、官軍が江戸へ入っても不敬を働いたり、妄りに動揺しないように、商売以外の鳴物の一切を止めさせた。
だが、市中に広がった不安は膨らむ一方で、町方の話に耳を貸す者はいなかった。




