其之二
二
軍令に反した、相模屋の女衆の居残りについて、本陣で吟味されることになった。
本陣こと、御納屋の広間に、義勇軍の多くが集められた。
始まった途端、いつも生意気な口ばかり利く留吉が、畳に額を擦り付けた。
「俺のしくじりが招いたことだ。大怪我をした駒蔵が養生するには、女将さんやお香さんの力が要るんだ。軍令に反しているのは百も承知尽だが、どうか見逃して下せえッ」
留吉の言葉を聞き終えると、佐兵衛は微笑んだ。
「総代の店だから格別に許すのではなく、駒蔵母子を世話をする肴問屋が偶さか、相模屋だっただけ。……つまりは人助けだ。どうだね、許してやっては」
吟味されている武兵衛が黙るしかない中、佐兵衛の言葉は、いつもながら、魚河岸衆の心を捉えた。
総代の武兵衛とは違った意味で、佐兵衛は、魚河岸衆の心の拠り所で在り続けている。
続けて、御納屋取締役名主の一人、村松源六が入歯を填め直して、喋り始めた。
「魚河岸衆は喧嘩っ早いが、人情に篤い。だから江戸っ子の鑑とされる。初めは東っ子と称していた。それを寛政四年の市村座の〈若衆江戸っ子曽我〉を観た魚河岸衆が使い出してから江戸っ子が広まった。つまり、魚河岸衆は江戸の代表として法よりも人情を……」
魚河岸衆は百万遍も聞かされている話である。甚兵衛が、やんわりと遮った。
「軍令は大切だが、侠気も重んじるべきだ。お艶さんは本陣へ夜食を届けてくれると誓っており、我々も助かる。ここは一つ、相模屋の件は目溢しってことで手を打ってはどうか」
皆が快く賛同して、相模屋の女衆の居残りは許されることになった。
武兵衛は立ち上がって「有り難え」と皆に頭を下げた。
すると、甚兵衛が声を懸けた。
「うちの妻子など、我先にと館山の遠縁の家に逃げて行きましたよ。今の江戸に残ろうとするお勝ちゃんの如き女豪傑は、ほとんどいないぐらいだ」
集まっていた魚河岸衆は皆、明るく笑った。
だが、武兵衛は頭を上げなかった。
「今回は怪我で済んで幸いだったと思う。……人って奴は、詰まらねえしくじりで、呆気なく命を落とすもんだ。俺は馬鹿だからそうなるかもしれねえ。だが、義勇軍の皆には、そんな最期を遂げてほしくねえんだ。どうか二度と短慮に走らねえと、此処で誓ってくれ」
御納屋の広間の隅にいた留吉が顔を紅くして俯く。武兵衛は続けた。
「俺の隠業は一朝一夕に真似できるものじゃねえ。どうしてもと言うなら、調練してやる」
留吉ほか、多くの若い魚河岸衆が驚いたように顔を上げて「やったァ」と声を挙げた。
静かに聞いていた源六は、何度も首を縦に振りながら、顔を綻ばせた。
「総代が武兵衛さんで良かった。開闢以来、前例のない情勢だ。力強い総代で――」
言い終える寸前に、入れ歯が外れた。
すると、見ていた皆が「ああっ」と心配する。
源六が無事に填め直すと、今度は暖かい笑いが起きた。
明るい空気の中で、武兵衛は再び、立ち上がった。
「商売も大切だが、今の時勢を見るに、命を守るほうが先だと考える。生きてさえいれば、幾らでも商売は取り戻せる。俺は必ずや、魚河岸衆の命を守り抜く。改めて誓うぜ」
本陣が歓声に包まれた。確かな手応えを感じて、武兵衛は、ホッと息を吐いた。
吟味が解散すると、御納屋には甚兵衛によって、佐兵衛と武兵衛が残された。
甚兵衛が懐から、冊子を取り出す。
「二月に摺られた〈中外新聞〉なる瓦版だ。今までに四号まで出された。開成所(徳川による洋学校)に勤めていた洋学通の面々が作っている。外国の新聞から得た、確かな種が売りだ」
武兵衛は小さい字にうんざりした。眼鏡を掛けた佐兵衛は素早く読むと、口を開いた。
「……二号の、亜米利加の領事が出した、局外中立の法度とは何だね」
佐兵衛の問いに、甚兵衛が淀みなく、解説する。
「日本と条約を結んでいる西洋諸国が万国公法(国際法)に則り、取り決めた。つまり、徳川家と京師の禁裏の間に戦争が起こった場合、どちらへも肩入れせず、中立の態度を保つ。それが局外中立だ。……世界が日本の行方を見ている。江戸に対して、蛮行を行えば、天下を奪った後に、京勢の賊徒は西洋諸国に蔑まれ、条約の改訂内容が酷いものになる」
「……するってえと、公方様が気にしていた、印度や唐土の轍は踏まずに済むってことか」
「今の処はな。ただ、三号にある、江戸開港の期限が迫っている。これで揉めねば良いが」
甚兵衛の言葉を聞いて、佐兵衛が自らの額を片手でポンと打った。
「この混乱で、すっかり忘れていた。築地の外国人町は、どうなったんだっけ。……ええと、江戸開港の期限は、今月の九日か。京師の外国奉行に開港の支度なぞできるのか」
「知ったことか。攘夷ばかり叫んで、外国人を斬り殺しまくっていた無学の素人が、外国人と談判なんぞできるものか、見物だがね」
甚兵衛は意地悪な微笑みを浮かべた。武兵衛と佐兵衛も堪えきれずに笑い出した。




