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其之三

       三 

 芝口橋を渡り、出雲町から京橋へ続く東海道へ出た。両側には町家が続いている。

 半鐘の音は歩くたびに、遠く、小さくなり、()(はや)、聞こえなくなった。

 空には紙鳶(たこ)が上がり、見渡す限り、長閑(のどか)な年の瀬の江戸が広がっていた。


 ほんの数町先で薩摩屋敷への討ち入りが行われ、火事が起きているとは思えない。


 (やく)(ばら)いの鯨弓が聞こえてくる。横丁の小路を「猫の(のみ)取ろ~」と蚤取屋が歩いている。

 不意に、澄み切った青空のように、武兵衛の心も晴れていった。


「はぁ、これで薩摩の乱暴は終わったんだ。江戸に、ようやく泰平が戻る……」


 八月頃から、江戸市中は次々と異変に見舞われた。最初は〈お札降り〉。伊勢や成田山のお札が何者かによって市中に撒かれた。日本各地にも同様の札が降って、〈ええじゃないか踊り〉が頻発した。だが、江戸では誰もが札を気味悪がって処分し、事なきを得た。


 十月に入ると、辻斬や夜盗が跋扈(ばっこ)した。

 魚市場の近くにある金吹町の本両替、播磨屋中井でも(おし)(こみ)騒ぎがあり、大金が奪われた。町人だけではない。八州廻(はつしゆうまわり)等の役人の屋敷が次々に襲われて、妻子や下男まで皆殺しにされる凄惨な事件も頻発した。


 十一月二日、京橋南伝馬町三丁目橋詰角の乾物屋の大戸に、告発文が張られた。

薩州之(さつしゆうの)(ぎやく)(ぞく)、土州等へ(あい)(はか)り、幕府を滅し、天下に(さい)ならんと欲す。十一月に、御府内に於いて兵を挙げ、(しよ)()(しき)()(ちゆう)を放火し、(こう)(じよう)を襲わん。恐多くも(かずの)(みや)様を奪ひ奉り、(てん)(しよう)(いん)様を窃取、上野を騒して(うえ)(のの)(みや)様(輪王寺宮)を(とらえ)(たてまつ)らんとする謀略あり」


 目付方と町奉行所が調べると、張紙の内容は嘘八百ではなかった。近頃の強盗や殺害が、薩摩屋敷に巣くう(ろう)()(ばら)により、江戸で(そう)(じよう)を起こす意図にて行なわれていると知れた。


 それから一月(ひとつき)。ようやく、薩摩への討ち入りが成った。武兵衛は嬉しさを噛みしめた。


「江戸を荒らし(まわ)った悪党め、ざまあ見ろだ。……さっぱりした処で、肴問屋の主人として、成すべきは商売だ。この数ヶ月分の大損を、年末年始で取り戻してやるぞ、畜生め」


 辻にある()(ぞう)()屋では大勢の客が役者絵を眺めている。ふと、頭に閃いた。


「……顔を売るのも繁盛の基本だ。相模屋は殿(との)(もち)問屋(といや)だ。勝利を収めた御大名家の何処かに出入りしているはずだ。大きな鯛でも持参して、御祝に参じなくてはなるめえよ」


殿持問屋とは、大名の用達を承っている店を指す。戦勝の祝いに鯛を献じておけば、正月の注文も増える。まさに商売の絶好の機会だと言って良い。


 蕎麦屋から(しよう)()()()の好い香りがした。だが、空腹を堪えて、武兵衛は日本橋へ急いだ。

 魚市場は日本橋と江戸橋の間にあり、日本橋川の北岸の魚河岸通りに沿って、本船町から本小田原町にかけて細長く続いている。

 市場外にも、魚商の営む、小さい肴問屋が佐久間町や平松町辺りまで(ひし)めいていた。


 魚商は店先で売ることはなく、専ら料理茶屋や棒手振(ぼてい)への(おろし)である。いつの日か(おお)(だな)となり、魚河岸通りに店を持ちたいと、その日を夢見て商売に明け暮れていた。


 相模屋も先代の初代が苦労したお陰で、裏道から魚河岸通りへ店を出すに至った。


 武兵衛は店先を見た。既に板舟には数尾の魚が売れ残っているだけ。屋敷方、問屋方への魚荷も終わっている。門や橋が(しめ)(きり)を喰らった割には、よく売れたほうだ。


 店先に立つ仲買人の平助が、店の奥へ行こうとする武兵衛を引き留めた。


「相模屋の旦那ァ、今はいけねえよ。もう少し、外をほっつき(ある)ってったほうが……」


 見れば、お(つや)が店の奥で仁王立ちになって睨んでいた。目が合うなり、大声で叫んだ。


「主人が店を放り出して、戦争(いくさ)見物たあ、どういう(りよう)(けん)なんだえ。説明してもらおうか」


 先代武兵衛の一人娘。気性は、荒かった先代をそのまま移したような、(おとこ)勝りである。


 黙っていれば色白の(べつ)(ぴん)だが、男だらけの魚河岸育ちのせいか、()(なり)を気にしない。相模屋の印袢纏に、木綿の小袖。大店に育ったにしては、質素な装いだ。引眉に鉄漿(かね)は付けているが、化粧(おつくり)すら施していない。


 だが、武兵衛は臆することなく、お艶の前に立った。


「討ち入りの行方を探りに行ってたんだ。魚河岸の月行事として当然の役目だろ」


「それなら番頭に行かせりゃいい。相模屋武兵衛に何かあったら、どうするのさ」


 お艶には兄が二人いたが、いずれも五歳になる前に病死した。先代の武兵衛は娘が生まれた時、兄の分も(たくま)しく育って欲しいと、お勝と幼名をつけた。

 願い通りに健やかに育ったが、自分そっくりの激しい気性の娘の将来を懸念し、元服の際に、お艶と名を改めた。だが、既に手遅れであったと、魚河岸では密かに囁かれている。


「まさか、この俺が怪我でもすると思っていたのかえ。見損なっちゃいけねえや」


 そこへお梅が奥からふらりと、やって来た。

 先代相模屋の女房で、お艶の母だ。

 還暦を過ぎているが、肴問屋の元女将としての風格が備わっている。


 ただ、女将の役目を娘に譲って気が抜けたのか、時折、頭が薄ぼんやりして、(ひる)()を二度も食おうとすることがあった。


「そうともさ。武兵衛さんは江戸一の喧嘩上手なんだ。万が一にも怪我なぞするもんかえ」


 今日は、頭がしっかりしているらしい。

 お艶は母のお梅にだけは頭が上がらない。武兵衛は思わぬ援軍の登場を喜んだ。


「どうでえ、お艶。お義母(つか)さんのほうが俺をよく分かっていなさるぜ」


 お艶は左の引眉を動かした。嫌味を述べる時の癖だ。鉄漿を見せて口許を動かした。


「昔は、荒事で鳴らしたかもしれないが、相模屋の主人だってことを忘れないでおくれ」


 機嫌の悪い顔のままのお艶を見下ろすと、武兵衛は少し大袈裟に微笑んで見せた。


「なんだぁ、俺を心配してくれていたのかい。愛しいお艶とぽん太を残して、誰が死ぬもんけえ。(えん)()(さま)に千両積んででも、戻って来るに決まっているだろ」


 お艶の細い腰に片手を回した。お艶は顔を顰めて、武兵衛の手を強く叩いた。


「調子に乗るもんじゃないよ。……大きな声を出さないでおくれ。ぽん太が昼寝中だから」


今年、五歳になる一粒種だ。

 武兵衛もお艶も、ぽん太の話となると、急に言葉が(ほぐ)れる。


お梅がお艶をどかせて、武兵衛の前に飛び込んで来た。童のように瞳が耀いている。


「……それでさ、戦争(いくさ)はどうなったんだえ。薩摩をやっつけられたのかい」


「もちろん、当方の大勝利です。今宵から、枕を高くして眠れますぜ」


お梅は「そりゃ良かった」と呟くと二階へ上がって行った。

 ぽん太の昼寝に付き合うつもりだろうか。


 武兵衛は草履を脱ぎながら奥の間へ上がると、印袢纏を脱ぎ始めた。


「ちょいと、御納屋(おなや)へ行ってくる。紋付に袴で行かねえと、甚兵衛さんが怒るんだ」


さっと着替えて、相模屋を出た。通り掛かった使い(かる)()の駒蔵から、声が懸かる。


「武兵衛兄ィ、()かし込んじまって、もう正月のお支度ですかえ」


 (さかな)問屋の主人でも武兵衛は威張らないから、魚河岸の若い衆に好かれていた。


(がち)(ぎよう)()なんでな。師走から忙しいのさ。転ばねえように、足許に気ぃつけるんだぜ」


 日本橋の本船町河岸を(じよう)(あげ)()にしている、本小田原町組、本船町組、(あん)(じん)町組、本船町横店組の四組の肴問屋は三百四十余名おり、行事は一組四人で、併せて、十六人。


 月行事は、相模屋武兵衛、千足屋甚兵衛、佃屋佐兵衛の三人に定められていた。


 毎日一人が交代で御納屋の行事部屋に詰めて、納魚を手伝う仕事を行う。


御納屋(おなや)()(さかな)()(やく)(しよ))は江戸橋の(みなみ)(づめ)、広小路にある。

 ()()には、(まかない)(かた)の役人七名と、買役の小者が十五人ほど、詰めていた。


 御直買(おじきがい)は役人が不正をしなくても、高級魚が雑魚の値段にしかならず、数百年もの間、魚河岸衆を苦しめてきた。御公儀は見返りとして、租税を免除するなどの(やく)(とく)を魚河岸に与えてきた。だが、この数年の諸物価の激しい高騰の中では、焼け石に水である。


 月行事は御公儀に魚を卸す役目をしながら、賄方の役人の不正に目を光らせている。


「甚兵衛さん、佐兵衛さん、どうやら討ち入りは勝ったようだぜ」


 武兵衛は大声を出しながら、勝手知ったる御納屋の大門へと勢いよく駆込(かつこ)んだ。



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