第四章江戸城総攻め其之一
第四章 江戸城総攻め
一
二月末になると、上方より攻め寄せている官軍が、来月には江戸へ達するとの噂が飛んだ。
そのため、武家のみならず、町人も次々と、老人や妻子を江戸府外へ退去させた。
魚河岸の肴問屋衆も軍令があるため、早々に妻子を江戸以外の親類へと預け始めていた。
武兵衛は、お艶やお梅等の女たちとぽん太を、知り合いの木更津の網元へ遣ろうと考えた。
ところが――。
「わっちは、木更津に逃げたりしない。総大将の女房として、江戸に残るからね」
義勇軍の夜廻りのため、握飯を拵えていたお艶は、武兵衛の説得を拒んだ。
「ぽん太の母ちゃんだろ。お香坊もいる。軍令なんだぜ、俺に恥を掻かさねえでくれ」
握飯を作り終えたと思ったら、お艶は菜切り包丁を手に取り、自らの首に寄せた。
「それ以上しつこく逃げろと強いるのなら、わっちは、此処で死んでやる」
お艶の眼の色に芝居はなかった。武兵衛は穏やかな声を出して、止めようとする。
「賊徒が江戸に入ったら、女にどんな悪さを仕掛けるか。強淫されるだけじゃ済まねえぞ」
「わっちは、ただ殺されたりなんかしないよ。簪で奴らの目ん玉を潰してやるさ」
台所の騒ぎを察して、お香がやって来ると、お艶にしがみ付いた。
「あたしも……残ります」
絞り出すように、お香が言葉を発した。
お艶は庖丁を持っていない手で、抱き寄せる。
相模屋へ入ってから、お香はお艶の傍で炊事から店の手伝いまで、一通りを教わった。
今では、ぽん太のお守りもできるし、お梅にも気に入られ、可愛がられている。
――いつの間に、お艶にこんなに懐いたんだ……。二対一になっちまったぞ。
「つまらねえ意地を焼くんじゃねえ。……ずっと木更津にいろって話じゃねえんだぞ」
「総大将なんだよ、お前さんは。死んだら、誰が骨を拾うのさ。わっちしかいないだろ」
武兵衛は「そんな簡単に死んで堪るか」と怒鳴った。
「よくぞ申した、お艶。それでこそ、相模屋の娘だ」
お梅が付女中のお瀧と共にやって来た。武兵衛はいよいよ追い詰められた。
「おっ義母さんまで……。忘れちまったんですかえ、文久三年の英夷船の騒動を。生麦で英人が一人、殺されたってんで、戦争になりかけた時だ。江戸の海沿いの者は、逃げた。だが、戦争にはならずに、ひと月もしねえうちに戻れたでしょうが。あれと同じですぜ」
お梅は険しい顔で「耄碌婆だからって、ごまかしは利かないよ」と武兵衛を睨み上げた。
「今度、江戸へ攻めて来やがる畜生輩は、辞めちまった公方様を殺さねえと気が済まないと言いやがる。野蛮人の英夷よりも凶悪なのに、ひと月で納まるものかえ」
お梅が息をも継がせず早口で喋り終わると、隣のお艶も勢い付いた。
「そうともさ。今度は江戸を売ったら、もう二度と戻れなくなるかもしれないんだろ」
武兵衛は、女への説得は全く不得手だった。困り果てて、愚痴を零した。
「妻子は逃すと義勇軍の軍令で決まってんだよ。背くと、相模屋は商売ができなくなる」
すると、お艶も怒るのをやめて、甘え声を出して、手を合わせてきた。
「魚河岸から離れるなんて真っ平だよ。……毎晩、本陣へ握飯を作って持って行くからさ」
すると武兵衛は「何でえ、魚河岸かよ。俺じゃないのかえ」と口を尖らせた。
そのままお艶に近付いて「本当は俺もお前と離れたくねえ」と囁こうとした――その時。
店先から大戸を激しく叩く音と共に、「舟、舟」と叫び声が聞こえて来た。
「大将、駒蔵がやられた。運び込んでもよろしいですか」
夜廻り当番の留吉の声だ。武兵衛はお艶と共に店の表に駆けつけて、大戸を開けた。
戸板に乗せられて、駒蔵が運び込まれる。痛みで気絶していた。左肘から肩に掛けて布が巻かれているが、血に塗れている。留吉が申し訳なさそうに語った。
「辻斬りが行商人を襲っておりやした。俺は大将を真似て鳶口を投げたのですが、外れちまって。それで怒った辻斬りがこっちへ襲い掛かったのを、駒蔵が庇って、斬られた。……挙げ句に、辻斬りには逃げられちまって。みんな俺のしくじりのせいだ……」
「どうせ、柄の長いままで投げたんだろ。あれは短くしなきゃ、巧く飛ばねえんだよ」
武兵衛がぼやきながら傷口を見る。深く斬られてはいないが、血は止まりそうもない。
「こいつは外科を呼ばなきゃ塞がらねえ傷だ。馬喰町の原澤文中先生に遣いを……」
お艶は「あいよ」と手代を馬喰町へ走らせ、焼酎と晒を用意した。
武兵衛は留吉へ振り返った。
「済まねえがな。駒蔵の長屋に行って、病身で寝たきりのお須磨さんを運んで来てくれ。……この傷じゃ、駒蔵はしばらく帰れねえだろうから。戸板はうちのを使ってくんな」
留吉は自分を庇ってくれた駒蔵を見詰めて、溢れる涙を袖で拭いた。
「すぐに迎えに行って参りやす。大将。どうか、駒蔵を、よろしくお頼みします」
夜廻り組は戸板を用意すると、留吉を手伝って、堀江町の裏店へ走った。
「お前さん、駒蔵を早く奥へ運ぼうよ。ちょうど、おとっつぁんの部屋が空いている」
武兵衛は「先代の部屋を使うなんて」とお梅にも確かめた。すると、穏やかに頷いた。
「お使いなさい。あすこは広いだろ。親子二人が寝るには、ちょうど良い」
駒蔵を運んでいると、お香が戸板の端を持った。武兵衛は笑った。
「そんなに気を遣わなくていいのだぜ、お香坊。お前さんは使用人じゃねえのだから」
引眉にしたお香は険しい表情を見せながら、辿々しいが、はっきりと応えた。
「違い……ます。立派な人……だから、助けたい……」
その声で気が付いたのか、駒蔵が呻いた。
「しっかりしろい、駒の字」と武兵衛は励ましながら、先代武兵衛の部屋へと担ぎ込んだ。




