其之八
八
永井玄番頭の屋敷の門へ行くと、脇戸から小柄な武家が、供も連れずに出てきた。
肌は白く、細身だが鍛え上げた躰をしている。
羽織も袴も粗末だ。だが、眼の光の強さが尋常ではない。
威喝しているようでいて、武兵衛の腹の奥底まで、探っているように感じた。
「魚河岸の旦那衆のようだが。背中に鳶口を隠し、頭に鉢巻かえ。永井家に何の用だい」
ジロリと睨んだまま、早口で捲し立ててくる。本所の訛があり、懐かしく感じた。
「見廻りに出る姿のままで、失礼致しました。永井家に可愛がって頂いている肴問屋にござんす。御前様が逼塞の処分を喰らったと聞いて、当番を放り出して駆け付けた次第で」
睨んでいた眼がすっと和らいだ。片微笑むと、腕を組んだ。
「まあ、そう慌てなさんな。今回の処分は、あくまでも官軍様へ向けての、形だけのものさ。だが、これで好かった。彼方此方で生まれている脱走隊は、人望ある玄番頭殿を大将に担ごうとしきりに誘いに来る。日中だけでも門を閉ざせば、悪い勧誘を防げるからな」
あばよ、と軽く手を振ると、馬に乗るでもなく、飄々と歩いて去って行った。
「妙なお武家だな。……町人みたくもあるが、目付きが刃物よりも鋭かったぜ」
武兵衛が呟いていると、門番が気付いて、脇戸を開けてくれた。
いつものように、御膳所の勝手口へ回る。
すると、夕餉の支度を庖丁人へ指図している玄番頭の妻、彰子の姿が見えた。
武兵衛は懐かしくて、思わず「奥方様」と声を懸けた。
身分のある武家の妻女が結う、屋敷十能は昔のままであった。
だが、京から江戸までの道中で苦労が多かったせいか、まだ四十過ぎなのに、髷が小さくなり、白髪も増えていた。
だが、明るく鷹揚とした佇まいは変わらぬまま、武兵衛へ近付いて来た。
「武兵衛、久しいのう。……したが、その身形は如何した。相模屋の印袢纏ではないが」
「これは義勇軍の衣装です。奥方様の無事なお姿を拝見できて、嬉しゅうござんす」
「……留守中、色々な気遣いをしてくれたとか。御前様も、武兵衛に礼を申しておった」
「とんでもねえ。それより、逼塞の処分を受けたと伺い、慌てて参じました」
彰子は、武兵衛の心配そうな声を聞いて、ホホホと明るく笑った。
「御前様は井伊御大老から永蟄居にされた強者ですよ。永蟄居は死罪の一歩手前。逼塞ぐらい、藪蚊に刺されたようなものです。今も海軍さんと逼塞祝いの酒宴をしておりますよ」
処分の祝いとは、なんと豪気な御方だ。武兵衛も思わず噴き出した。
「祝いと言えば、門の外で小柄なお武家様と出会しましたが、あれも海軍さんで……」
「勝麟さんですね。海軍のはずが今ではなぜか、陸軍総裁ですけれど。御前様とは古い友人なのですよ」
「勝安房がどうしたい。……おや、武兵衛さんだ。しかもまた。勇ましき姿だのう」
酒を取りに永井玄番頭が現れた。小性もいるはずだが、自分でやってしまう人である。
「日本橋魚河岸義勇軍の装いのままで失礼しております。逼塞だと聞きましたが」
「奥や、済まぬが、広間へ温めの酒を幾つか、頼む」
彰子は下女に命じるため、その場を離れた。
しゃがんだ玄番頭にいつもの明るさはなく、憂い顔で、武兵衛に手招きする。
武兵衛が耳を寄せると、玄番頭は小声で語った。
「恭順の効力がないため、朝敵と名指しされた者を処分するしか、策がないのさ。なにせ、助命嘆願で京師へ行った者が次々に追い返されている有様だ。京軍は、どうしても、江戸攻略と上様の首を獲ることを止めようとせぬ。先程、名が出た勝安房は薩摩の大将と知り合いでな。その筋で談判を進めるが、成功する公算は五分五分といった処だ」
玄番頭は素面であった。
どうやら彰子に心配を懸けまいと、酒宴と称しているだけで、同じ考えを持つ有志を集めての、憂憤に駆られた、厳しい寄合らしい。
「奴らは、上様が御城を出ても、許さねえって訳ですかい。……なんといけ好かねえ」
「このままだと、最も悪い情勢となり、町人に迷惑を掛け兼ねない仕儀となるやもしれぬ」
玄番頭が頭を下げてきた。
武兵衛は「顔を上げておくんなさい」と慌てふためいた。
「町人に義勇軍を創らせるだけでも、武士として腑甲斐ないのに。御城を繞って、大きな戦いにならぬよう、皆で相談しておるが。江戸がどうなるか、先が見えなくなった……」
武兵衛は、悄然として項垂れている玄番頭を眺めた。
大目付まで務めた大身旗本の、正直かつ誠実な姿に、胸が熱くなり、瞳が潤んでいく。
「御前様のように、江戸に踏み留まって下さる御方がいる。それだけで、俺っち町人は、有り難てえ。ただ、守ってばかり頂かなくとも、割と強うござんすから。御懸念なく」
「忝いのう。……江戸市民のほうが余程、腹が据わっておる。心より瞻仰致す……」
玄番頭の言葉には、今まで聞いた覚えのない寂寥感が漂っていた。
「ただ、挽回の策がないわけではない。儂はな、勿体なくも、東照神君と祖を同じくする松平家の庶流、大給家の出身でな。幼き頃、幾度も教えられてきた秘策がある……」
再び、玄番頭の声が小さくなった。武兵衛は思わず、顔を寄せた。
「天海僧正は徳川家の繁栄を守る施策を、幾つも東照神君(家康)へ申し上げた。その一つに、上野の東叡山座主に、予め位の高い宮様を据えておく策があった。万が一、徳川家が禁裏より、罪無くして、朝敵名を蒙る事あらば、上野の宮様を天子に擁して、禁裏に抗うべし――と。『縁山秘録』にも記述のある話だがね……」
心地よい声と共に、とんでもない話が耳へ入ってきた。
驚いて、武兵衛は玄番頭を見る。
「喫驚するのも無理からぬ話だ。この秘策を実行すれば、日本に二人の天子が現れ、宛ら南北朝の如き乱世となる。だから、実行するのに、躊躇いがあるのだよ……」
「……あの、今の天子と仰ったのは、京屋の金公のことですかえ」
「そうだとも。つまり、こちらが江戸屋の金公を生み出せば、京屋の金公を担いでいる長州や薩賊の一味を、朝敵と定められるって、寸法なのさ」
「待って下せえ。正月に御城の大評定で、寛永寺の覚王院って名のお坊様が主戦(抗戦)を主張したって話は……」
「儂はその場にいなかったが、『御神慮を遵奉し天海僧正の策を直ちに実行せよ』と説いたそうだ」
「あの、御神慮と言いますのは――」
「東照神君のお考え、思し召し、とでも申すかのう」
すると、屋敷の遠くから「玄番頭様ァ」と大きな声がする。
「……おっと、呼ばれてしまった、戻らねば。武兵衛、この秘策は他言無用ぞ。市中に広まれば混乱を来すだろう。ただ、義勇軍の総大将になら、明かしても良いと思った」
玄番頭は温かく微笑むと、広間へ戻って行った。武兵衛は頭を下げると、屋敷を辞去した。
妙に生暖かい夜風が吹いたかと思うと、雨がぽつぽつと落ちてきた。
「……別の金公を作って朝敵返しをする、ってか。天海って坊さんは、底知れねえ奴だな」
春の宵の雨に打たれながら、武兵衛は上野の山の方角をぼんやりと眺めた。




