其之六
六
御納屋へ行くと、甚兵衛から「友人が届けてくれた」と書状を渡された。
謹慎した徳川慶喜から十二日に出された、直参への御達と付紙の写しであった。
「江戸市中には明日にも、〈上意之御書付〉と称して、これが貼り出されるらしい」
謹慎に到った子細を語り、江戸へ入府する官軍に対し、軽挙妄動を慎めとの内容である。
「……鮪公方は、どうして恭順なんぞしたんだえ。大勢の役人が堀へ飛び込んだってのに」
どうしても、武兵衛の不満は、消えなかった。
甚兵衛が、御達の最後にあった、付紙の一文を指さした。
「『遠く印度の敗、近くは支那の地、同属相食し、西洋諸国がその虚に乗ず。皇国(日本)また殆ど同じ轍に陥らんとす』とある。日本人同士で殺し合うと、仏英に国土を奪われるから、薩長の賊徒と戦うのを避けよ、と書かれている」
「天竺や唐土はそんなに酷いのか」
「国内で相争う隙に、西洋の強国に、領土や主要な港を奪われた。王朝は崩壊寸前だ」
甚兵衛が応えていると、聞いていた佐兵衛は長嘆息を吐いた。
「薩長の賊徒は、それすら分からぬ。元亀天正の戦乱の世と同じ頭なのだよ」
武兵衛は、不満こそなくなったが、無性に悔しさが込み上げてきて、泣けてきた。
「賊徒と本気で戦えば、日本が危なくなるから、止めたのか。腰抜けじゃなかったんだな」
だが、甚兵衛は泰然とした眼差しで、顎に手を当てながら独り言ちた。
「北では戦支度を止めておらず、盟約を交わし、共に戦う動きがある。上様は恭順することで、その旗印になることを巧みに避けた。……会津や荘内は、他に旗印が見つかるのだろうか」
昼過ぎに与力の佐久間健三郎が御納屋へやって来た。いつになく不機嫌だ。
「昨日、北町奉行の大和守様は辞職され、本日、外国奉行より石川河内守様が着任された」
使者之間で聞いた月行事の三人は、思わず顔を見合わせる。
健三郎は淡淡と続けた。
「大和守様は西国に知行地をお持ちで、やむなく勤王誓書を官軍に出された」
「勤王誓書ってのは、何でえ」と武兵衛が尋ねた。
甚兵衛が代わって「賊徒に寝返る約定を取り交わしたということだ」と応える。
武兵衛は怒りのあまりに、躰がカッと燃えるのを感じた。思わず立ち上がる。
「『最後まで町衆と共にある』などと抜かしてやがった癖に。あの裏切り野郎めッ」
大きな声で叫んでいると、佐兵衛は怪訝な顔で、健三郎に尋ねた。
「待って下さい。今の……官軍とは、よもや賊徒の束ねる京軍を指したのですか」
健三郎も吐き捨てるように「上から、そう申せと命じられただけだ」と述べた。
聞き終わると、武兵衛は、心底、呆れ尽くした。
だが、叫ばずにはいられなかった。
「いつの間にあっちが官軍に。それじゃ、こちとらが賊徒なんですかえ。はあ、冗談じゃねえや。金輪際、抗わねえ証に、四日前に公方様は東叡山寛永寺へ謹慎なすったんでしょうが。それを、賊徒扱いとは……。巫山戯るのも大概にしやがれってんだ、便乱坊めッ」
武兵衛は建物が軋むぐらいの大声を出したが、甚兵衛と佐兵衛は止めなかった。
「奉行所が混乱しておるので、略式だが、此処で新しい御奉行様からの御下知を伝える」
武兵衛は憤激を抑えると、座った。他の二名と共に、渋々ながら、頭を下げる。
「江戸の防戦に当たると誓詞を出した日本橋魚河岸衆の、御公儀に対する忠義心は、真に天晴れである。だが、刻一刻と情勢は変わっておる。本日ここに、魚河岸衆への御下知を廃する。直ちに義勇軍を止め、武備を解き、平生に戻るように。……以上、申し伝えたぞ」
健三郎が言い終えると、武兵衛は驚きより先に、怒りが込み上げた。
「俺っちの命懸けの決断は何だったんだッ。何処が、天晴れだ。こん畜生めッ」
「もう一つ、知らせねばならぬ。日本橋の警衛を担っていた陸軍奉行並の能登守様が辞職され、勤王誓書を総督府へ出した。江戸橋を守る長門守様も直に、敵に鞍替なさろう」
武兵衛は立ち上がった。カッとなって熱くなった躰が、急に冷えていくのを感じた。
「そんな話を聞かされたら、義勇軍は畳めねえや。歩兵が脱走し、武家は勝手に江戸を捨てていく。……そんなんで、橋を、町衆の暮らしを、誰が敵から守るってえんだ。ええ、与力さんよ」
「新しい御奉行が着任された。だが、御奉行所も、明日はどうなるか分からぬ身だ。……そもそも、俺だとて、春の御切米がまだ貰えておらぬのだからなッ」
扶持米取りは毎月、蔵米取りは春(二月)、夏(五月)、冬(十月)に給付されるが、牢屋下男等の金銭の支給すら、二月からは、ぱったりと止まっていた。
気の毒だとは思うが、武兵衛としては、引き下がる気はなかった。
「いいか、新しい御番所(奉行所)の親玉に伝えろ。俺っちは武備を解かねえ。このまま真の義勇軍となって、日本橋魚河岸を、いや、江戸市民を守っていく。勝手にやらせてもらうぜ」
「奉行所の御下知に逆らえば、無法者と同じぞ。魚河岸衆は水滸伝の叛徒になるつもりか」
「どうせ賊徒なんだろ、水滸伝と変わらねえや。日本橋魚河岸は、本日から梁山泊だッ」
「勝手にせい。奉行所は義勇軍の費えを払わぬからなッ」
と言い捨てると、健三郎は、そのまま大刀を掴んで、部屋を出て行った。
武兵衛は「塩を散け」と大声で怒鳴ると腕を組み、忿然としながら、胡座を掻いた。
「……佐兵衛さん、甚兵衛さん。勝手に決めちまったが、俺は謝らねえよ」
すると佐兵衛が「誰が異を唱えるとでも」と応えると、甚兵衛も続けた。
「賊徒を官軍などと言い出す尻腰もねえ御番所に従うことはない。こちらこそ官軍なのだ」
武兵衛は「ああクソッ。袢纏や竹槍の支度金を取りっぱぐれた」とぼやいた。
すると、順吉が大きな塩壺を持って「しっかりと散いてやりました」と伝えに来る。
「竹槍の稽古がなくなるから、その半刻は昼寝に使おう。夜廻りする若い衆を休ませる」
甚兵衛が見詰めてきて「……急に大将らしくなんなすって、頼もしい」と頷いた。
「上からの御下知がなくなったら、俺が決めねばなるめえ。しっかりするのは当然だ」
武兵衛は御納屋を出ながら、妙に晴れ晴れとした心持ちになった。御番所の下で動かされるなど、本音を言えば、窮屈だった。大きく吸って、息を吐いた。
肩が軽くなって、楽になった。
「魚河岸梁山泊か。……悪くねえな」
武兵衛は手始めに、傳吉の案内で、品川浦と芝の雑魚場へ談判に出掛けた。
買仕切の値を上げる見返りとして、東海道を下って来る敵の様子を知らせてもらう盟約を交わした。
次に、副将の甚兵衛、佐兵衛と三人でじっくりと練ると、魚河岸衆へ軍令を発した。
一、異変の節は合図として太鼓を打ち鳴らし、銘銘、非常装束に目印の小旗を肩に付けて集まるべし。進退駈引は合図の太鼓に従い、決して一人で動かず、助け合う事。
一、家内の者は近在へ立ち退かせ、なるべく身軽となり、御軍用を大切に心得る事。
一、軍令に反すれば、肴問屋の者は入荷の魚を取り上げ、御軍用金に遣うべし。仲買人は市場の商いを差し止め候事。
一、合語は「舟」と申せば、「水」と答える事。
更に、「時節にこと寄せて商売を怠るなかれ」と釘を刺すのも忘れない。
魚河岸衆は武兵衛の軍令によく従い、夜廻りの時には、合語を使うようになった。




