其之五
五
大人気の噺家である圓朝を救ったため、魚河岸義勇軍の評判は鰻登となった。
夜廻りをすれば、あちこちから「頼むぜ」だの「安心して寝られるよ」と声が懸かる。
眠い眼を擦って役目に励む若い衆に、活気が生まれてきた。
誰かの役に立つ嬉しさ。それだけで、睡眠不足も吹っ飛んだ。
揃いの袢纏も四十枚に増え、本陣の備えも次第にそれらしくなってきた。
昼間に、武兵衛が魚市場を歩けば、板舟の前で魚を吟味している買出人からも声が懸かる。
「魚河岸衆の評判に負けちゃならねえと、神田の火消衆も気合が入って、助かってるよ」
武兵衛は、良い気分になって、相模屋へ戻った。
すると、板舟に魚がまだ残っている。景気は悪くなる一方だ。
小さく息を吐くと、奥から伊左衛門がすっ飛んで来た。既に小指が立っている。
「旦那様、一大事ですよ。たった今、本所からレコが付き添いの婆と乗り込んで……」
お香が此処へ顔を出すなぞ、妙な話だ。武兵衛は客間へ急いだ。
唐紙を開けると、お香とお末婆さんが座っている。
「おばちゃん、何かあったのかえ」と声を懸けて、座った。
「店に顔を出して済まないねえ。……でもね、昨夜、お香ちゃんの家に盗人が入ったんだ」
武兵衛は慌てて、お香を見た。
お香は美人ではないが、色白で、大きな黒い瞳が際立っている。
白い歯を少し見せながら、少し不安げに頬笑むと、武兵衛へゆっくりと頷いた。
「物音に気付かなかったのが、むしろ幸いしたんだよ。金目の物は盗られたけど、お香ちゃんが寝入ってたから、そのまま帰ったようだ。だけど、近頃の本所は物騒になってねえ。戦争の噂もあるし、あたしも川口で鋳物をやっている甥っ子の許へ移ろうかと思ってさ」
「お末おばちゃんには、ずっとお香坊の世話を頼んで済まなかった。すぐに他の人を……」
言い懸けた時に、盆に茶碗を載せて、お艶が入ってきた。
「お前さんも薄情だね。物騒だって言ってるんだから、相模屋へ置いてやればいいだろ」
「良いのかえ、お艶。……だったら、助かるのだが」
お艶はお香とお末婆さんの前に、茶碗を置きながら、呟いた。
「妾の一人や二人が何さ。相模屋武兵衛の女房が悋気を起こすとでも思っているのかえ」
すると、お末婆さんが楽しげに、大きく口を開けて笑い出した。
「女将さん、違いますよ。お香ちゃんは武兵衛さんの妹分です。虎狼痢で幼馴染みの権助さんが死んでから、身寄りがなく、耳の悪いお香ちゃんの世話をしてきただけ。色事なんかじゃありません。……十八歳になるから、そろそろ縁付かせなくちゃ、って……」
今度はお艶が驚いた。急に目付きが優しくなった。
「……耳が聞こえない。だから、盗人に気付かなかったのかえ」
「お香坊は四歳の時に風疹で高熱を出して、耳がいけなくなった。少しは話せるんだぜ」
武兵衛がお香へ「そうだよな」と尋ねると、「はい」と幼子のように可愛い声を出した。
すると、最初はホッとした顔をしていたお艶の引眉の眉根に、みるみる皺が寄っていく。
「知っていたなら、武兵衛の妹分に相応しい立派な相手をとっくに探していたのに……」
「伊左衛門がお香を妾だと騒いだものだから、話し辛くなっちまったんだろが。……それに魚河岸衆は口も悪いし、耳について取り沙汰される。だから連れて来なかったんだ」
「この御時世じゃ、娘さんの一人所帯のほうが余程、危ないよ。ねえ、お末さん」
お艶の言葉にお末が頷いていると、隣のお香が畳に頭を擦り付けた。
「……御免なさい。女将さんに、迷惑を懸けて……しまい……ました」
音もちぐはぐで言葉もたどたどしい。
だが、誠意に満ちていた。お艶はお香の手を、優しく取る。
「あんたが謝ることじゃない。悪いのは、武兵衛なのだよ。どうか、頭を上げておくれ」
武兵衛がお香の肩をトントンと合図を送ると、お香は顔を上げた。
お艶が話し続ける。
「ここがあんたの家よ、お香ちゃん。鉄漿もまだね、眉も落としてない。わっちが教えてあげる。耳がどうのと文句を言わしゃしねえ。非の打ち所がない娘に、屹度してやるから」
お香は、お艶が話す口許をじっと見て、「よろしくお願いいたします」と挨拶をした。
「なんてえ気立てのいい娘だよ。お前さん、お末さんにたっぷりと御礼と餞別をね」
言い終えると、お艶は「ぽん太、こっちへおいで」と大声を出す。
すると、唐紙の隙間から、ぽん太が顔を出した。
「お前のお姉ちゃんだ。挨拶をおし」と話をどんどん進めていく。
お艶の声は明るく、いつになく弾んでいた。
――お艶の奴、やっぱし俺の妾の話にやきもきしていたんだ。可愛い処があるや……。
「天下の相模屋武兵衛が妾の一人も拵えられねえなんて、情けがねえったらありゃしない」
いきなり憎まれ口を叩く。お艶のいつもの照れ隠しだ。武兵衛はこっそり笑った。




