其之四
四
翌夜から十人ずつ、日本橋の周辺を、魚河岸義勇軍が見廻りを始めた。
この日は一番組二十人を早番、遅番に分けて、十人ずつ二交代での夜廻りの予定だ。
頭には鉢巻きや頭巾、揃いの袢纏に、竹槍、それぞれが手に馴染んでいる魚包丁か、または鳶口を手にしている。
片肌を脱いだ大将の武兵衛は、名字帯刀の源六から借りた大刀を帯に差し、十人の先頭を歩く。
手作りの大きな旗と、その脇には高張提灯で、それぞれ「魚がし」と掲げた。
火消衆の見廻りとは違って、何ともいえない、異様な一群であった。
だが、木戸を通ると、腰の曲がった番人が出てきて、頼もしげに頭を下げる。
――新徴組がいなくなり、町方の見廻りも減ったから、心細かったんだな……。
辻斬りや火付等があれば、昔は火付盗賊改、その後は新徴組が駆けつけた。
年末からは町方や諸隊が引き継いだが、姿を消した。
江戸市民が頼れる武力は、今は、もう誰もいない。
「俺っちが守らなくちゃあなァ。……不逞浪士が腕扱だとしても、負けるもんかえ」
胸の奥から、熱い義?心が湧いてくる。武兵衛は大刀をぐっと握り締めた。
日本橋大通りに差し掛かる。
越後屋ほか江戸を代表する大店が犇めいていた。
盗人が増えて以来、店を早く閉じるようになった。
だが、この夜はあちこちの店の大戸が開いたままで、荷車へ、しきりと行李を積み込んでいる。まるで夜逃げでもするかのような騒ぎであった。
「どうしたんでえ、慌てて。大名みてえに、急な引越し騒ぎだな」
武兵衛は顔見知りの番頭に声を懸けた。
すると、頭を掻きながら、言い難そうに応える。
「戦争で売り物が焼かれる前に、江戸店を閉めて戻れと、上方の本店よりの御指図で」
確かに大通りの名店のほとんどが、江戸根元ではなく、大坂や伊勢からの出店だ。
「上方商人は、しっかりしてらあ。……まあ、無事に辿り着くことを祈ってるぜ」
番頭は疲れたように肩を落とすと、寂しげに首を横に振った。
「運ぶのは旦那様と東下してきた手代で。あたしは江戸者ですから、仕事を失うだけです」
武兵衛は番頭の肩を励ますように、ぽんと叩くと、歩き始めた。
――考えてみりゃあ、府内に数多ある武家屋敷に奉公していた町人も、主人が国許や知行地へ帰っちまったら、仕事をなくしちまうんだ……。こりゃあ、荒れるな、江戸は。
大通りから、瀬戸物町へ曲がった途端、暗闇から誰かが走ってきた。
「魚河岸衆の皆様、圓朝師匠を助けて下さい、盗賊に襲われておりますッ」
武兵衛の傍にいた留吉が提灯を翳す。
噺家の橘家小圓太であった。まだ駆け出しだが、顔は知っている。
「圓朝といやあ、落し噺の大看板だ。助けに行くぞ」との武兵衛の号令で走り出した。
小圓太が「あすこの道を左、裏路地に引き摺り込まれております」と先導する。
狭い路地では、提灯を持った圓朝が行き止まりの塀へ、二人の浪人に追い込まれていた。
「魚河岸義勇軍、参上ッ」
武兵衛は名乗ると、背中の帯に差していた、柄を短くした鳶口を、浪人へ投げつけた。
鳶口はぐるぐると廻りながら、振り向き様の浪人の袖ごと、塀へザクリと突き刺さった。
自分の肘のすぐ傍に鳶口が刺さり、圓朝も喫驚して「ひやああ」と悲鳴を上げる。
もう一人の浪人が刀を抜こうとした。
すると、武兵衛は長脇差ではなく、留吉の魚包丁を奪うと、そのまま走り出し、跳び上がる。浪人は咄嗟に背を丸めて避けようとした。
魚包丁をわざと、浪人の頭のすれすれを掠めて振り下ろす。
右腕の袖を切り裂いたが、肘に刃が当たった。少し肉の切れる感触が手に伝わった。
武兵衛なりに大怪我をさせぬよう、一応は配慮したつもりだ。
「酷かことをする。おまん等、魚屋の癖に、おいたちを殺す気か……」
塀に袖が刺さったままの浪人が、震える声で、やっと言葉にする。
武兵衛はカッと目を見開いた。
この言葉に覚えがある。昨年、江戸市民へあの手この手で、散散に凌辱を働いた、敵そのものだ。
「薩摩の残党か。……誰か縄を持って来い。此奴らを御番所へ突き出すぞ」
武兵衛の鮮やかな包丁捌きに見蕩れていた義勇軍の十人がハッと我に返る。
急いで縄を取り出すと二人の浪人を縛り上げた。
包丁で襲われた浪人は、恐怖で抵抗する気力も失っていた。
そのまま、腕から血を流しながら、三人の魚河岸衆に近くの番屋へ引かれて行く。
蒼い顔をしていた圓朝も、小圓太が「師匠」と駆け寄ると、落ち着きを取り戻した。
「助かりました。すぐそこの〈い世本〉で真を打って、小圓太と浅草へ帰ろうとしたのです。ですが、いきなり二人の浪人にこちらへ連れ込まれ、金を出せと……。難儀をしておりました」
「金を強請るなら、〈い世本〉の席亭じゃねえとな。そんな事情も知らねえ山出なんだな」
「実は財布には、席亭から少々工面してもらった金がありました。ですが、それは明日に江戸を立ち退く、加賀大聖寺に仕える親類へ渡す餞別。どうしてもくれてやれぬ金でした」
三遊亭圓朝は武家の出身である。
そのためか、正月の錦絵に選ばれても驕らず、いつも背筋が真っ直ぐで、品があった。
「討ち入り武兵衛がこんなに喧嘩上手だったとは驚いたねぇ。二本差がなんだってんだ」
急に小圓太の威勢が良くなる。
こちらは下谷の石屋の倅で、江戸っ子そのものだ。
武兵衛は「しばらく夜席は止めたほうが」と忠告した。
圓朝は首を縦には振らない。
「寄席は驚くばかりの賑わいで、昼も夜も大忙し。奉公先から暇を出された町衆が一日中、入り浸っているのですよ。ですから、毎夜、あちこちの寄席に呼ばれておりまして」
武兵衛は納得した。
いつ稼げなくなるか分からない。噺家も命懸けで商売しているのだ。
「浅草まで一人、付けやしょう。明日からは護衛のお弟子を増やしたがいいや」
と留吉に送らせた。四人減って、武兵衛を含めて七人で夜廻りを再び始めた。
――江戸中、しょんぼりしていると思ったが。寄席が賑わっているとはねえ……。
自分もそうだが、江戸っ子は明日より先の心配を余りしない。
根拠はないが、明後日は何とかなると考えて、思い詰めたりもしない。
長屋で腐っているぐらいなら、寄席へ行く。
「……それが正しいのか、しだらがねえだけなのかは、死ぬ頃までに分かると良いがな」
武兵衛は呟くと、提灯の明かりに照らし出された、「魚がし」の大きな旗を見詰めた。




