其之三
三
魚河岸肴問屋行事総代の交代だったが、時節柄もあり、お披露目の挨拶も略式にした。
だが、わずか二代目にして、魚市場の総代を出した相模屋では、大騒ぎとなった。
お梅は喜びのあまりに寝込み、お艶と伊左衛門は祝いに駆け付けた取引先の応対に追われた。
だが、当の武兵衛は、いつもと変わらずに店に立ち、相模屋の者へ檄を飛ばした。
「少しも浮かれるんじゃねえぞ。総代は佃屋一門が担うべき大役だ。俺が推されたってことは、魚河岸が危ねえってことだ。一日も早く、俺が下りられるように祈っていてくれ」
二月朔日には、御納屋の大門に「本陣」と記した高張提灯を掲げた。
夜襲に備えて「魚がし」と入れた提灯も用意した。
甚兵衛の手配は実に抜かりなく、道具が次々に揃い始めた。
二百人の魚河岸衆を二十人ずつ、一から十組に分けて、組織作りも進めた。
この数日で、江戸は大きく変わり始めていた。
御公儀は「近畿関西に知行(領地)ある者は、朝命を遵奉せよ」と達して、まずは西国の大名へ、江戸を去る事を許した。
このために、あちこちの屋敷から、送別の宴を開く支度で鯛や白魚、鱚などの高級魚の注文が魚市場へ殺到した。
久し振りの賑わいだが、西国の大名家が江戸から消えた後の不景気を考えると、手放しでは喜べなかった。
御納屋で佐兵衛が帳面を眺めて、顔を顰めた。
「大名のほうは良いが、御旗本は高い魚の注文が減った。恭順の意を顕すため、鳴物禁止、月代を剃らぬよう、との謹慎の御触が出たせいだ。……つまりは儲けは、五分五分、か」
魚会所の月行事として、甚兵衛は算盤を弾きながら、息を吐いた。
「大名とて、江戸を去って行くのですよ。殿持問屋は今までの半分以下の売り上げになる……。文久の御改革で、参勤の縛りが緩められ、大名の妻子や家臣衆が国許へ引き揚げて以来の危機だ。良魚を高く買ってくれる得意先が次々に消えていく……」
武兵衛は帳面を見ながら、
「料理茶屋や町人の金持ちに売り歩くしかねえか」
と呟くと、甚兵衛は言い終わると唇を噛んだ。
「同じだよ、武兵衛さん。料理茶屋や大店も、真の上客は武家衆だ。それが消えるのだから、どこも、これから凋落の一途だ。江戸は、賊徒が来る前に終わったも同然だ」
佐兵衛は、穏やかに帳面を閉じた。
「さて、月行事衆の仕事は終わりにしよう。甚兵衛さん、義勇軍の支度は進んでいるかえ」
魚河岸行事の三人は、義勇軍の顔として、御納屋で楽しそうに軍議を始める。
気を取り直した甚兵衛が「袢纏は注文したが、旗はどうするか」と尋ねてきた。
武兵衛は、おもむろに白い大きな布を広げた。
御納屋で見つけた太い筆を取り出す。
墨汁に浸すとそのままの勢いで「魚がし」と書いた。
綺麗な字ではないが、武兵衛らしい強さと、荒々しさが漂っていた。
「こりゃあ、名案だ。木の棒にこれを縫い付けりゃ、義勇軍の立派な旗になる」
佐兵衛が先に喜んだ。
甚兵衛も「かなりの倹約になる」と機嫌を直して算盤を弾いた。
「用意は良いか。しっかりと構えて、前へ突けーッ」
御納屋の隣の広小路から聞こえてくる。
夕暮れから、奉行所の同心より、魚河岸で働く若い衆が竹槍の使い方を習っていた。
魚河岸衆は二百人もいるから、その分の竹槍を用意せねばならない。
だが、まだ半分も揃っていない。武兵衛は呟いた。
「伏見じゃ、賊徒は銃をバンバン撃って来たそうだぞ。竹槍じゃ殺られちまうぜ」
「敵に銃を使わせぬ策はある。江戸橋と日本橋の橋の上の狭き処で、投石後に迎え撃つ」
武兵衛が「さすがは呉用先生」と褒めると、甚兵衛は不満そうな表情を浮かべた。
「呉用より、『三国志』の諸葛亮孔明のほうが好きだ。『出師の表』は幾度読み返しても、泣ける」
そこへ、順吉が血相を大慌てで、走ってきた。
「大将、火消の、を組の頭が討ち入って来やがったッ」
武兵衛ら三人が口をぽかんと開けた。
すると、「新しい総代へ挨拶に参っただけだ」とよく通る低い声が近付いて来る。
部屋の前に、背は然程に大きくないが、大名以上に威厳に満ちた老人が現れた。
立ち姿はまるで仁王の如く、眼光は何処までも鋭い。江戸の顔役の一人である。
「案内も待たずに御無礼致した。を組を束ねる、新門辰五郎にござんす」
この数年は、慶喜に乞われて在京し、要人警護や京の町火消制度の強化に尽力してきた。
先月には、徳川家の家宝〈金扇馬標〉を押し戴いて、大坂城を脱出。
子分と共に敵兵の追跡を躱しながら東海道を馳せ下った。
「さすがは辰親方」と江戸では大評判となった。
武兵衛は憧れの人物を目の前にして、嬉しさが零れそうになる。
だが、負けじと、すっと指先を揃えた。
魚河岸総代として失礼なきように、挨拶を返す。
「総代を務めまする、相模屋武兵衛にござんす。辰親方、わざわざのお運び、忝く存じます。ですが、ただの挨拶ではありますまい。如何なる御用向きにございましょうや」
上座を空けると、辰五郎は座った。
佐兵衛が煙草盆を差し出したが、先に口を開いた。
「市中警邏が緩んだ途端、不逞浪士が跋扈し、御府内が剣呑となってきた。……そこで、武兵衛の旦那を漢と見込んで、相談に参った。朝の早い魚河岸衆には真に酷い話だが、日本橋周辺の夜の見廻りを頼みてえ。火消衆等の町兵だけじゃ、手が足りねえのだよ」
辰五郎は鳶口を見せた。
一際ぐんと柄が長く、よく研がれており、刃先が光っている。
「こいつを稽古なしで使いこなせるのは、喧嘩上手の火消衆と魚河岸衆しかおるめえ」
辰五郎の低い重みのある声に、武兵衛は聞き惚れた。
すると、代わりに甚兵衛が尋ねる。
「日本橋はい組とは組の仕切り。手前共が夜廻りしては、そちらの顔を潰すのでは……」
「実は、上様には御退隠を決められ、近々、御城を出て寛永寺に移られる。を組は一橋家や水戸家と共に、護衛に当たらねばならねえ。を組の浅草の穴を他の組が埋めてくれる兼ね合いで、日本橋の見廻りを義勇軍に依頼してえのだ。……どうでえ、助けてくれねえか」
辰五郎は丁寧に頭を下げた。
武兵衛は驚いて、自分も頭を下げた。
「頭を上げておくんなさい。……ようがす、この近隣の見廻りは当方で引き受けましょう」
辰五郎は顔を上げると「ありがてえ」と、少し微笑んだ。
「大名だけでなく、御旗本にも、知行地への帰参が許された。新徴組も二月のうちに荘内へ移るし、江戸は益益、不穏になる。町衆だけで江戸を守る覚悟を決めにゃなるめえ」
武兵衛はもちろん、甚兵衛と佐兵衛も、旗本までが江戸を去る話は、初めて耳にした。
「……そんなに早く、お武家は江戸からいなくなっちまうんでござんすか。新徴組まで荘内へ去るとは。おっかねえ奴らだったが、お廻りさんとして、頼りにしてきたのに……」
武兵衛が愚痴っていると、甚兵衛は辰五郎へ尋ねた。
「酒井家が荘内の国許へ戻るとは、もしや、戦争の支度を行うためでしょうか」
辰五郎はゆっくりと頷き、良く響く低い声で応えた。
「会津の松平様も、上様が御城を出る頃に、家臣を伴って江戸を立つと聞く。いずれの御家中も、恭順と抗戦に分かれ、揉めている最中だ。だが戦支度は続けている」
「日本中で、戦争が始まる恐れが……。元亀天正の乱世に戻ってしまうのですか」
「そうさせぬために、上様は恭順を貫かれ、御城から出て、謹慎されるのだ。……陸軍総裁を勤めている勝安房守様も、江戸を戦火から救うために奔走されておられる」
佐兵衛は首を捻りながら「勝様……ですか。初めて、耳にする御名です」と応えた。
辰五郎は「覚えておいて損はねえだろう」と応えると、立ち上がった。
「大江戸は東照大権現様と、四神相応を駆使した天海僧正に護られている。何があっても、大丈夫だ」
玄関まで辰五郎を見送ると、武兵衛は頭の中で算盤を弾いて、冷汗を掻いた。
――ちっとも大丈夫じゃねえぞ。大名だけでなく、御旗本の上客までごっそりと消えちまったら、屋敷方の魚荷をどう売り捌けってんだ。魚河岸はどうなる……。
武兵衛が部屋に戻ると、佐兵衛が重苦しい顔で、呟いていた。
「上様が御城を退去されると、御直買も大奥のみとなる。納魚の負担は減るが、徳川家の御当主が御城から消えれば、日本橋魚河岸の権利も揺らぐ。……悩みの種は尽きぬのう」
――俺が総代である以上、魚市場を潰すわけにはいかねえ。だが、こんな状況だ。いったい、どう守りゃいいってんだよ……。
聞いていた武兵衛は、方策が浮かばずに、ただ深く息を吐くしかできなかった。




