第三章 魚河岸梁山泊 其之一
一
翌日、月行事三人は、北町奉行所へ出向いた。
面談すると、小出大和守は上機嫌であった。
佐兵衛が魚河岸衆を代表して、申し上げた。
「魚河岸衆は義勇軍を起ち上げ、市場周辺と日本橋、江戸橋を守るべく決しました。本日、牛王宝印の印判の誓紙を取り寄せております故、誓詞は明日、改めてお届け致します」
「必ず加勢してくれると信じておった。義勇軍とは良い名である。漢書の〈陳湯伝〉にも『策慮?億、義勇奮發』とある。……江戸のために、大いに励め」
大和守は嬉しそうに幾度も頷いた。
だが、佐兵衛は顔を上げると、更に続けた。
「日本橋魚河岸衆は、これまでも身を捨てて、御番所、御公儀へ尽くして参りました。昭徳院(家茂)様の婚儀の御大礼の折には、大礼御用として下された五百両では、用意を命じられた良魚が揃えられず、二千七百両余もの大金を、肴問屋が負担した経緯がございます」
「その件は与力より聞いておる。……その後に起きた御納屋の役人の不正に就いてもな」
「この度も、危急大変の秋だからこそ、魚河岸衆は報恩の一念を以て、命懸けの決意を行ったのでございます。我らの重き決断の誠を、どうか、お忘れ下さいませぬよう……」
「勿論、魚河岸衆の赤心は承知しておる。だが、同時に、こちらも其方共の武勇を頼みにしておるのだ。……喧嘩が得意の魚河岸衆であるが、竹槍の稽古ぐらいは行うべきだな」
武兵衛は畏まって聞いていたが、顔を上げて尋ねた。
「魚河岸義勇軍は御納屋を本陣として、提灯や竹槍のほか、味方を見分ける袢纏を用意するつもりです。これらの費えは、御番所が責任を持って下さるのでございましょうな」
大和守の下段に控えていた健三郎が「控えよ、武兵衛」と叱った。
だが大和守は笑った。
「奉行所よりも肴問屋の御内証のほうが豊かなはずだが。急に大礼の話を持ち出したのも、費えの談判のためか。さすがは商人だな。……褒美と共に、奉行所が払うと約束しよう」
「川柳にも『江戸者の生まれそこない金を貯め』とござんす。肴問屋衆は生憎、江戸者にて、誰かの役に立つと分かりゃあ、金を惜しまねえので。いつも懐は寒いものです」
「……まあ、そういうことにしておこうか。まったく口が減らぬのう、肴問屋行事衆は」
武兵衛ほか、皆で恭しく、頭を下げる。刹那、健三郎の仏頂面が見えた。
「橋を警衛する能登守様と長門守様へは、こちらから伝えておく。……この大和守は、どのような艱難に遭っても、最後まで町衆と共にある。よいか、忘れるなよ」
言い終わると、大和守は部屋を出て行った。武兵衛は息を吐いた。
――命を張ろうとしているのに、何とも呆気ねえなあ。どうも武士は信用できねえや……。
残っていた健三郎は、淡淡と語った。
「調練だが、明日より、暮六ツに同心を差し遣わす。竹槍を用意し、御納屋横の広小路へ若い衆を集めよ。悠長に構えておられぬ。稽古は厳しゅうなるぞ。覚悟いたせ」
武兵衛は健三郎の言い方が気に入らなかったが、御番所内なので、我慢した。
呉服橋の北町奉行所を出たが、武兵衛の気は、どうにも晴れずにいた。
「済まねえが、先に帰っていてくれ。……俺は、ちいっと、其処いらを歩ってから戻る」
武兵衛は独りで、御城を眺めたくなった。
呉服橋から道三河岸を西へ進むと、すぐだ。
桔梗濠の向こうに千代田城が現れる。
晴れていたので、濠の水面が風に揺れながら、耀いていた。
御城はいつ眺めても、江戸っ子が誇らしく思う、日本随一の城だ。
「籠城しても、十二分に戦えるのに。……お武家は意気地がねえなぁ」
武兵衛は、わざと大声を出した。
近くの辻番所から、誰かが飛び出して来る気配はない。
だが、代わりに、紺木綿筒袖にシャモ袴姿の歩兵が、歩兵刀を抜きながらやって来た。
「町人の癖に、不敬、不遜だ。早急に詫びねえと痛い目を見ることになるぞ」
脚がふらついている。昼から酒を呑んでいるようだ。
急拵えの歩兵隊は直参もいるが、江戸で食い詰めた荒くれも混ざっている。
この歩兵は武家を装う、後者かもしれない。
――酔っ払いの戎服の兄ちゃんと喧嘩も悪くねえが、御城の真ん前ってえのが……。
場所柄もある。さすがの武兵衛も躊躇いがあった。
だが、相手が引かないので、羽織の下、背中の帯に挟んだ短い鳶口に手を掛けた。
すると、声が聞こえた。
「この江戸で意気あるは、町衆と歩兵のみだと言うのに、互いに揉めてどうするのだ」
細身だが背が高く、総髪で、しっかりとした体躯の武家がやって来た。
歳は同じぐらいか。羽織に袴姿である。
役職は役方のようだが、躰は鍛え上げられた武人そのものだった。
江戸言葉に訛はないが、少し重い。北の男だと、察した。
「何だと、役立たずの木っ端役人が。生意気な町人を成敗するのだ、邪魔をするな」
酔った歩兵が、武兵衛へ斬り掛かろうとした。
武兵衛も咄嗟に右手で鳶口を握った、その刹那――。
役人とは思えぬ速さで抜刀すると、歩兵の喉元へ刃先を突きつけた。
「……町人を侮る奴は好かぬ。怪我をしたくないなら、大人しく刀を引け」
言葉よりも、歩兵へ向ける眼光の鋭さに、武兵衛すら圧倒される。殺気が漲っていた。
逆らって動けば、確実に首を刺し殺される。命が惜しければ、後退りするしかない。
「……便乱坊め。町人を救うために、本気を出しやがって。馬鹿野郎が」
やっと言い返すと、歩兵は刀も納めずに歩兵屯所へ逃げて行った。
――すげえ。役人なんて肩に肉なんか付いてねえ、華奢な奴しかいねえはずなのに。
武兵衛が見蕩れていると、役人風の武士は刀を直ぐに納めて、穏やかな表情に戻った。
「……ひょっとすると、割って入った俺が野暮だったかな」
相手は目聡く、武兵衛の鳶口を認めた。武兵衛は急いで帯に戻した。
「御城の前で喧嘩はどうしたものかと迷っておりやしたので、助かりました」
「……そちらは魚河岸で名を馳せている、武兵衛さんだな。俺は御使番格で御目付支配書役の小田井蔵太という田舎者だ。好いねえ、衣装から魚の香りがする。俺も幼き頃、貧しくて、川魚を捕って商売をしていた。当時は、魚臭いと揶揄されたが、懐かしい匂いだ」
武兵衛は袖を鼻に付けて、嗅いでみる。湿った箪笥の匂いしかしない。
「俺っちの市場じゃ魚臭さは誇りでござんす。しかし、小田井様は鼻が利きますな」
「鼻が利くなら、斯様に苦労はしておらぬ。賊徒に朝敵とされた上様の助命嘆願のために奔走しているが、成果はなし。今も、御老中の立花出雲守様へ助命の上洛を促しに参ったが、二の足を踏んでおられてな……。苛ついていたので、刀を抜いてサッパリした」
「御城の中は、揉めているのでございますかえ」
「御年寄(若年寄)の堀様は、恭順に抗議するため、喉を掻っ切った。あすこに掛かっている、二つの橋の奥、西御丸下乗橋からも、抗議のために幾人の役人が身を投げたことか」
西御丸は高い崖の上に建っている。
そこへ行くために架けられている二つ目の橋は首が草臥れるほどに、見上げる高さにあった。遙か下のほうに、濠の水面が見える。
武兵衛は背筋がぞわりとした。あの高さから落ちたら、助かりっこねえ。
「小田井様は、上様の助命に奔走されているのなら、恭順に賛成って訳ですかえ」
「恭順よりも、主君の御身が大切だ。助命嘆願が成らなかったら、職を辞するつもりさ」
「勿体ねえ話だ。辞めて、どうなさるのでござんすか」
蔵太の眼を見ると、大らかな中に、町育ちとは全く違う、野生を感じた。
「友人が私兵隊を立ち上げると息巻いていたから、入隊して、江戸のために暴れるかな」
「是非とも、俺っちを助けて下さいまし。……再び会えますよう、祈っております」
「助けるなどと。武家や国家が滅んでも、商人は強いから。最後まで生き残るだろうよ」
武兵衛は下げた頭を戻して、その先を待った。だが、蔵太は爽やかに去って行った。
――商人は強かねえ……。戦争になったら、殺されるだけの弱え奴だと思うんだが。
大きな雲が、陽光を隠した。辺りが暗くなり、千代田城が耀きを失っていった。




