其之九
九
独りになった武兵衛は、市場の大木戸を潜った。そこで、ふと考え込んだ。
――もし、江戸が戦場になったら、武家は俺っち町人を守ってくれるのか。
「いや、守っちゃくれねえよなァ。てめえらで何とかしねえと……」
ちょうど使い軽子の駒蔵が魚を運んで来て、ぶつかりそうになる。互いに、ひょいと避けた。
「こいつは旦那ァ、とんだ粗相を。買出人が待っている塩待茶屋へ急いでいたもので」
駒蔵が何度も頭を下げるから、圓朝髷が揺れた。魚河岸でも大流行している。
「俺も、ちいっと考え事してぼんやりしていた。……なあ、駒蔵。茶屋へ荷を届け終えたら、一刻後に御納屋へ集まるよう、市場中に触れて廻ってほしいんだが」
早朝から賑わう魚市場は四ツ半(午前十時)を過ぎると魚の入荷も終わり、客も絶える。
そろそろ、魚河岸衆も暇になるから、ちょうど良い。
「皆を御納屋へって。……何処かへ討ち入るんでござんすか」
「討ち入るか否かを決める寄合だ。できるだけ多くの魚河岸衆に声を懸けてくれ」
聞いた駒蔵の顔から笑みが消えた。
袖を捲って、輪郭だけの波の彫物を見せると、「合点承知」と叫び、荷を担ぎ上げるや否や、潮待茶屋へ走り出した。
武兵衛は駒蔵の後ろ姿を見送ると、自らも肴問屋の主人を見つけては、御納屋へ集まるように声を懸けていった。
一通り、廻ってから、武兵衛はまだ刻があると気付いた。
「甚兵衛さんにばかり頼るのも悪い。俺も事情を探ってこよう。浜町の御前がいいな」
相模屋に戻り、板舟から鯛を選ぶと、笊の上に葉蘭を敷き詰め、載せる。
二番番頭の幸助に持たせて、急いで出掛けた。
途中で角樽を求めれば、支度は万端だ。
「浜町の永井様は、間違いなく、上方から戻られたんだったな」
「へえ。一昨日でしたか、手代が注文を受けたと。確かにお戻りです」
「あの御方は、大御目付を長年に亘って勤められ、公方様の側近でもある。御城の様子も詳しいだろう。頭が良い方だから、俺みたいな馬鹿にも分かりやすくお話し下さるからな」
魚河岸から浜町は近い。
荒布橋と親仁橋を渡り、住吉町から浜町川岸通りを行けば良い。
旗本の永井家は代々、気さくな当主で、新興の肴問屋である相模屋を気に入り、屋敷の御膳所へ魚を届けると、当主がやって来て酒を酌み交わしながら、市井の噂話を楽しんだ。
「……御前様がお戻りと伺いまして。ご挨拶に参じました」
誰何なしに脇戸から入り、武兵衛が番傘を閉じて、勝手口で声を出すと、庖丁人衆が「武兵衛か」と嬉しそうに再会を懐かしんだ。
すると、鼻高々で、主人の自慢が始まった。
「旦那様はな、大坂では先に江戸へ戻られた上様の、謂わば殿を務められた。紀州家の裏切りに遭い難渋したが、残りの兵の全てを、無事に江戸へ戻されなすったのだよ」
当主と妻子が数年も京師に住んでいたため、庖丁人も半分以上が上洛していた。
そのため、この屋敷には留守を預かる数名しかおらず、長らく火が消えたようであった。
相模屋は時節の挨拶を忘れず、留守居の家老に魚を届けて様子を見てきた。
だが、こんなに明るく迎えられたのは、久し振りのことだ。
「皆様もお変わりなく。……でも、庖丁人頭様は、まだ戻っていらっしゃらないんで」
顔見知りの庖丁人が、やるせなさを滲ませて、頷いた。
「旦那様は大坂より戻られたが、京師におわした奥方様や若様は未だに……。御女中や庖丁人、御用人様も一緒なのだと思うが、どうも気懸かりでな。御無事なら良いのだが」
すると、奥から永井玄番頭が、ひょっこりと現れた。
小柄であり、どちらかというと童顔で、常に人好きのする穏やかな表情をしている。
五十を過ぎており、上方で苦労が多かったのか、前に比べて、随分と白髪が目立っていた。
「やっぱり、武兵衛だ。……声が聞こえたのでな。お前さんの顔を拝んで、ようやく江戸に戻ってきたと感懐できた」
優しい声は変わらなかった。
父のように慕っている武兵衛は、ぶわっと涙が溢れた。
「御前様……。何年振りでしょうか。御無事で良うござんした」
武兵衛が涙を拭いていると、目の前までやって来て、玄番頭は座った。
「美味そうな鯛を、ありがとう。早速、夕餉に頂くとしよう。酒は此処で味見しようか」
相模屋の幸助が庖丁人へ鯛を渡した。
玄番頭は自分で茶碗を二つばかり、棚から持ってくる。
武兵衛は角樽を持ったまま、高下駄を脱ぐと、板葺の小上がりへ上がった。
御膳所の隅に二人で座る。
先代の相模屋に初めて連れて来られて以来、こうして酒を共に呑みながら、政事から芝居の話にまで世間話が及んで、長っ尻したものだ。
「火鉢をお借りして、温めましょうか」と声を懸けると、「冷やでいい」と返してきた。
樽から酒を茶碗に注いで、玄番頭に渡す。
すぐに口に運ぶと、和やかな顔になる。
「……嗚呼、江戸の酒はやはり、美味い。京師の酒は香りや味も悪くはないが、命を何度も狙われたし、心から酔えた例がなかった。武兵衛と呑むと、ホッと息が吐ける」
武兵衛のほうは、酔えない心持ちであった。早速、本題に入った。
「実は、魚河岸衆へ北の御番所から、賊徒と戦えと御下知がござんした。御城の評定で何があったのか……。様子が分からねえうちに、返答を決めて良いものかと、悩みまして」
「昨夜、上様は老若衆(老中と若年寄)、と三奉行(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)を集め、天朝に対し、恭順の意を表すとお知らせになった。新任の北町奉行は、抗戦派だから、上様の御台慮(思し召し)に従わず、町兵の策を魚河岸衆まで広げようと考えたのだろうよ」
武兵衛は驚いて、つい声が大きくなった。
「公方様は賊徒と戦わねえんですか。江戸を滅茶苦茶にした野郎に尾っぽを振るなんて」
玄番頭は茶碗を置いた。静かな語り口で、応えた。
「将軍職御辞退の話は江戸にも届いていよう。あれは儂が土佐の山内家の家臣と共に進めた。目的は唯一つ。徳川家が天下をお返しして、一大名となり、諸侯と共に天朝(天皇)様を支えて、一纏まりの国家となる。そのための支度の一部だった。西洋の列強国に食い尽くされぬよう、英吉利の国の仕組みすら取り入れた、新たな国家を創設するためにな」
「天朝様って。……もしかして、京屋の金公のことでござんすかえ」
江戸では、判じ絵と呼ばれる風刺画の影響で、禁裏や天子のことを「京屋の金公」や「金ちゃん」と呼んでいた。
とは言え、町人は金公が何者であるか、よく分かっていない。
「金公で間違いない。師走九日に、薩摩や長州と与する公家衆が、幼い金公を利用し、王政復古なる名目で、目的を捻じ曲げた。徳川家を排除し、己らが天下を奪うためにな」
「甚兵衛さんから聞いた話では、そのせいで鳥羽や伏見で戦争になったと――」
玄番頭は頷かずに、真っ直ぐに武兵衛を見詰めた。
「賊徒は、大坂におわした上様に『新たな国家に加わりたくば、独りで参れ』と京師へ呼びつけた。罠に決まっていると皆が止めた。そこで上様は討薩表を持たせて、先遣隊を上洛させた。案の定、伏見で待ち伏せに遭った。あれは戦争ではなく不意打ちだ」
「敵は騙して公方様を殺そうと企んだってことですかい。……何てぇ、汚ねえ遣り口だ」
「こちらは三万の兵で向かったが、途中で敵に寝返る大名が出て、惨敗となった。相手が〈錦の御旗〉なる妙な旗を拵えて、軍の先頭に掲げたせいでのう。敵は天朝の威光を利用したのだよ。すると、西国の諸大名は、朝敵とされるを恐れて、次々に離叛していった」
「朝敵……とは何でしょうか」
「金公へ叛く勢力を指す。平将門や鎌倉北条家が有名だ。今から三百年前の元亀天正の頃までは、よく使われていた言葉だ。長州も朝敵だったはずだが、王政復古で赦免された」
「朝敵だった奴が、今度は、公方様を朝敵にしようと動いている訳ですかえ」
玄番頭は「まったくだ」と片微笑んだ。
武兵衛は酒の入った茶碗を置いたまま、尋ねた。
「御前様は、公方様の恭順の意とやらには、従うのでござんすか」
玄番頭は酒で少し口を潤してから、武兵衛を凝視した。
「大目付の儂はな、上様の命により、大坂への撤兵を伝えるべく、馬で一日中、鳥羽伏見の戦場を駆け廻った。酷い有様であった。……怪我をした兵が、儂の馬に追い縋り、『敵がいきなり鉄砲を撃って来た。どうか仇を討ってくれろ』と涙声で訴えた。……あの無念の声が忘れられぬ。だから、儂は如何に上様の御台慮であっても、恭順には従えん」
武兵衛は涙なくしては、聞いていられなかった。
三千石の大身旗本と思えない洒脱さがあり、包み込むような暖かさのある人だ。
今まで斯様に厳しい顔の玄番頭を、見た例がない。
――御前様は、いつも正しい。賊徒は、やはり、何処までも汚え野郎なんだ……。
悔しさと怒りで唇を噛みしめた。そのままで顔を上げた。
「この相模屋武兵衛。御納屋での評定を前にして、腹が決まりました。……公方様が立ち上がらねえのなら、江戸を守るために、誰かが賊徒を叩きのめさねえといけねえや」
玄番頭は、ゆっくりと首を横に振った。
煙草盆を引き寄せ、煙管を取り出しながら、語った。
「恭順には従わぬがな、儂はこの大江戸を戦場にしたくはない。戦争に町人を巻き込むのは間違っている。そうならぬ方策を探っておる。だから、無理は致すな」
煙草を喫って、穏やかな瞳に戻った玄番頭を見ると、武兵衛は髷をひょいと撫でた。
「俺は、彫物のせいで水滸伝の九紋龍史進の再来などと言われますが。ただの粗忽者にござんす。喧嘩じゃ一歩も引かねえが、戦争となると、どうも頭が従いて行かねえや」
「史進は、ただの無頼漢ではないぞ。武芸に秀でており、仁義に篤い。梁山泊に入る前には、少華山で首領も務めていた。宋の官軍に属してからは、敵将を幾人も倒している猛者でもある。……魚河岸の月行事たる其方には、ぴったりの渾名だ。誇りに致せ」
「ありがとうござんす。……水滸伝にもお詳しいとは、恐れ入りました」
玄番頭は茶碗酒を呑み干すと、ゆっくりと語った。
「あまり気負うなよ、武兵衛。江戸は大きい。火消衆等の町兵の話も進んでいると聞く。……故に、肴問屋衆は、日本橋の魚河岸と周辺の町を守る方策を考えれば、良いのではないか」
聞き終えた武兵衛は、反省した。力んでいた肩がふと楽になった。
「仰る通りだ。あくまでも魚屋である事を肝に銘じて、評定に臨みてえと存じます」
言い終えると同時に、更に決意が固まった。
やはり、御前様を訪ねて良かった、と心の中で思った。




