其之八
八
正月二十日前後になり、大坂から次々に兵が戻って来ると、鳥羽や伏見での敗戦の様子が、帰府した武家衆の口から語られて、ようやく敗戦の真実が分かってきた。
魚市場でも、仲買人と客との会話と言えば、魚の良し悪しの次に、政事の話ばかりだ。
相模屋の店先でも、客同士が、大声で盛り上がっていた。
「賊徒は、先に徳川家が発砲したから朝敵などと決めつけてやがる。だが、その場にいた御武家の話だと、御触書の通り、薩賊のほうから鉄砲を撃って来たってよ。敵が悪いんだぜ」
「だったら、なぜ直ぐにも戦わねえんだ。恭順論なんて、あり得ねえ話だろうが」
恭順論とは、徳川や徳川恩顧の大名や小名(旗本)が、禁裏(天皇)を取り込んだ薩長土肥勢力に恭順の意を表し、降伏を受け入れる意見のことである。
江戸城内は勿論、大名家の内部でも、意見が割れて、主戦(抗戦)論と大きく、対峙していた。
「仕掛けられたのはこっちだろう。戦わねえうちから、負けを認めるなぞ、情けねえぜ」
店の奥で聞いていた武兵衛も、煙草を喫いながら、深く頷いた。
翌日の正月二十一日の江戸は、雪交じりの雨が冷たく降り続いていた。
この日、四組肴問屋月行事の相模屋武兵衛、千足屋甚兵衛、佃屋佐兵衛の三人は、魚河岸衆二百余人を代表して、呉服橋の北町奉行所へと、急遽、呼び出された。
月行事を全て呼ぶなど、滅多にない。武兵衛は初めての経験であった。
――背中の龍の彫物が疼く。……俺の勘に狂いはねえ。良からぬ話に決まっている。
三人が畳に額を擦りつけていると、奉行の小出大和守秀美が部屋に入って来た。
前任の井上信濃守が年末に過労で急死し、数日前に着任したばかりである。
慌ただしく席に着くと、大和守は、いきなり喋り始めた。
「薩長の賊徒が江戸へ下って参ったら、魚河岸の者、一致して防戦に当たるべし。同心協力致さば、願いの筋は何事により叶えて遣わす。銘々道具を携え、乱暴人を捕えよ」
思いも寄らない御下命に、武兵衛は驚いた。
――待てよ、魚屋まで町兵にする気か……。
毅然として顔を上げる。噛み付きたい心持ちを抑えて、穏便に抗って見せた。
「魚と銭の勘定、喧嘩は得意でござんす。……ですが、賊徒を捕えるってぇのは、そちら様の御役目ではござんせんか」
大和守の傍に座っていた与力の佐久間健三郎が、睨め付けてから、代わりに応えた。
「相手は江戸へ攻めて来る逆賊だ。捕えずとも良い。その場で殺して構わぬ」
武兵衛は耳を疑った。町方の与力は、殺生を好まぬはずでは……。
――魚屋に人を殺せだと。今日の北の御番所(奉行所)の連中は、妙だぞ。
すると、隣の甚兵衛が黒紋付の羽織の袖を引っ張った。武兵衛に「待て」との合図だ。
「斯様に重大な御指図の場合は、南町の黒川近江守様がお立ち会いになる慣例では……」
甚兵衛は顔を上げないままで、静かに尋ねた。
聞いていた大和守の顔が、微かに歪む様子を武兵衛は見逃さなかった。
だが、応えたのは、健三郎である。
「南の御奉行様は、御用により御城に詰めておられる。……して、返答は」
肴問屋行事総代の佐兵衛は、急かされても、貫禄を見せながら、ゆっくりと口を開いた。
「余りにも大役にて、この場で即答はできませぬ。御納屋に立ち戻り、魚河岸の衆と相談してからの返答で、よろしゅうございますでしょうか」
魚河岸は御城への重い納魚負担があるため、租税が免除されているし、奉行所からの命令を拒む特権も有していた。
不満に顔を歪ませ、健三郎が応えずにいると、大和守はゆっくりと頷いた。
「即答は無理であろうな。だが、できるだけ早い返答を。支度の刻は、あまりないぞ」
言い終わると立ち上がり、与力と共に、せっかちに部屋を出て行った。
武兵衛ら月行事もすぐに退散するべく、奉行所を出た。
雨はまだ止まない。
三人は呉服橋から日本橋へと、番傘を差して歩き始めた。
武兵衛がぼやいた。
「てっきり、戦争の兵糧を調達しろいって話だと。まさか、魚河岸衆に戦えとはねえ」
二人の少し後ろを歩いていた、丸い顔の佐兵衛が、静かに呟いた。
「いよいよ大評定で動きがあったのやもしれぬなあ。……主戦、つまりは、抗戦に決まったか」
日本橋が見える処まで歩いて来て、ずっと黙っていた甚兵衛がようやく呟いた。
「……先ほどの席に南の近江守様がいないのが、解せん。この御下知には裏がある」
すると、佐兵衛は明るく笑った。魚河岸最古の老舗、佃屋の当主だけに、品が違う。
「裏とは何だね。お前さんは智恵が廻るだけに、疑り深くていけないよ」
常に温柔な佐兵衛を、武兵衛は尊敬していた。自分もこうありたいと願う。
「さて、俺っちも、御納屋で大評定を行おうぜ。魚河岸衆の腹の中をしっかり見極めてから、返答しねえと」
武兵衛の案に、二人共に「異論なし」と即答した。甚兵衛は付け加えた。
「武兵衛さん、俺は佐兵衛さんと共に取締役名主の皆さんに会って、話を伝えて来る」
甚兵衛は名主との調整役を買って出た。佐兵衛は肴問屋行事総代として、同行する。
「分かった。俺は魚河岸衆を集めて来る。一刻後に、御納屋で落ち合おう」
「役人の知り合いに、御城で何か起きたか、手紙で詳しく尋ねてみるつもりだ」
甚兵衛の言葉に、武兵衛は頷いた。市場の門前で分かれると、それぞれに動き始めた。




