其之六
六
翌朝、武兵衛は二日酔いもせず、明六ツ(午前六時)の定刻通りに、御納屋へ着いた。
すると、玄関でオロオロと行ったり来たりしていた役人が、武兵衛を見つけるなり、駆け寄って来た。
「先ほど追加の納魚の知らせが来たのだが。驚くなよ、……鮪を御所望なのだ」
武兵衛は驚いて、追加の差し紙を引ったくって、しっかりと確かめた。
「……やべえ。本当に書いてやがる。西御丸の御膳所からだ……。大奥じゃねえや」
「大奥の女衆が左様な下魚を喰らうはずがないッ。だいたい、高いものしか喰おうとせんのだからな。未明に、上様が急に御帰府なされた。西御丸の役人が慌てふためいておる」
「つまりは公方様が鮪を喰いたいってぇことか」
と武兵衛が叫ぶと、役人は頭を抱えた。
「開闢以来の珍事だぞ。鮪は下魚中の下魚だ。今まで一度たりとも、御城へ上げた覚えはない。今から最高の鮪など、見つかるかね。……納められなかったら一大事だ」
もう一度、差し紙の文字を見た。はっきりと鮪と書いてある。
段々と嬉しくなってきた。
「俺はな、葱鮪鍋が大好物なんだ。本所の長屋で親爺と権助でよく喰った。金持ちは下魚と卑しむが、実は鯛よりも美味え魚なんだ。その味を公方様がご存じだとは。恐れ入谷の鬼子母神だ。……安心しろや。今は旬だから上物があるぜ。納魚の刻限が迫っている。順吉、従いて来い」
役人に言い放つと、市場へ急ぎ足で向かった。
順吉は「宛ては、あるんですかえ」と焦り顔で尋ねてきた。
「千足屋だ。甚兵衛さんの店は、館山浦と付き合いが深い。あの辺りは鮪がよく獲れる」
噂は既に耳に入っていたようで、武兵衛の顔を見るなり、甚兵衛は微笑んだ。
直ぐに板舟に横たわっている、最も大きな鮪を指さした。
「鮪は納魚の本途帳(値段帳)にも載っていない、下魚だ。値段なんぞ、ないに等しい。……恐らく、市価のたった一割の値で買われるだろう。千足屋としちゃあ厳しいが、江戸始まって以来の鮪の納魚の大役だ。その最も大きな鮪を持って行け」
鮪は、色艶といい、躰の丸みといい、絶品だった。
武兵衛は呟いた。
「未明に網へ掛かった時は、まさか公方様の御口に入ろうなどと、思いもよらなかっただろう。道三堀を渡り、御城へ上がる最初の名誉を得た。お前は幸せな鮪だぜ」
鮪を傷めないようにしながら、千足屋の軽子と一緒になって、御納屋の大八車へ移す。
見物衆が集まってきた。
「噂が飛び交ってますとも。俺っちの好物の鮪が御城へ上がる日が来るなんてなあ」
魚河岸衆の中には涙を流して、喜んでいる者もいた。
買出人や近所の住人も詰めかけて、御用札が掲げられた鮪が、御納屋へ運ばれて行く様子を感慨深げに見送った。
大八と共に江戸橋を渡っていると、御城のほうから、太鼓が聞こえてきた。
いつもの閣老衆に、登城を促す太鼓ではなかった。
太鼓を打つ間隔が短い。武兵衛は顔を上げた。
「この歳になるまで、一度しか聞いたことはねえが。……ありゃ、総登城の合図だよなあ」
太鼓の音は長く続いた。
背中の彫物の龍の彫物が疼いた。
上方の敗北の話や、徳川慶喜の突然の帰府――。
何か只ならぬ、危うい情勢に変わりつつあるように感じた。




