其之四
四
魚河岸から百川は近い。
日本橋を背にしながら室町三丁目へと歩くと、浮世小路がある。
大通りから浮世小路へ入ると、香ばしい匂いと、淑やかな三味線の音が流れてきた。
干物や海産物の問屋の並びに、料理屋が犇めく。
瓢箪茶漬や、鰻蒲焼の大金、汁粉や団子等の甘味処の松屋と続き、百川楼の印提灯が見えてくる。
格子戸を開けて、入口から入ると、女将が現れて深く頭を下げた。
「まあまあ、月行事のお二人がお揃いで。どうぞ、ゆっくりなさって下さいまし」
魚河岸衆は常連であるから、互いに気さくに接した。簡単な挨拶を済ませると、小女が二階へ案内する。
二人が通されたのは、奥から二番目の小さい部屋である。
茶と羊羹が出されるが、甚兵衛は、料理茶屋の客としての流儀として、
まずは床の間の絵を座ったまま、静かに眺めた。
梅の花の後ろに富士山が描かれた、正月らしい作品であった。
「寅太郎さん、いや三代目広重の肉筆画ですか。春にちょうど良い、目出度さですな」
甚兵衛が絵を見て呟いていると、武兵衛は小女が運んで来た煙草盆を使って、一服した。
「春と言えば……早く上野の東照宮へ献魚をしてえものだが、寛永寺の〆切は、いつ終わるのかねえ」
魚市場の肴問屋衆は年に数度、東照大権現様へ魚を献上する。
だが、上野宮(輪王寺宮)を掠う薩賊の謀略が発覚した昨年の師走以降、寛永寺は全ての門を閉ざしたままであった。
「まだ続くようだ。献魚が済まないと、どうも胸の辺りに閊えを感じるのだがな……」
甚兵衛が席に着いて、二人で菓子と茶を楽しんでいると、廊下が賑やかになる。
足音は静かで品が良い。武家らしき数人の男が、隣の部屋へ入っていった。
百川の小女は、空いた菓子皿を下げながら、武兵衛と甚兵衛の顔を見ると、先行して応える。
「……奥の間ですか。〈周旋会〉とかで、五人ほどの御留守居役の方々がお集まりです」
大名家の御留守居役の役目は他家からの種(情報)収集にあり、〈新聞会〉を屋敷で行う。〈周旋会〉はざっくばらんな顔合わせの寄合なので、料理茶屋に集うことが多かった。
「武家といやあ、やたら豪勢な料理が並ぶ、柳橋の萬八楼と決まっている。百川楼で〈周旋会〉とは、食通でもいるのかね」
武兵衛は煙草を喫いながら笑った。
すると、唐紙が開いて、別の小女が料理を運んで来た。
酒肴料理なので、半日掛りで饗される本膳料理とは違い、かなり略式である。
まずは小皿に盛り合わせ。蒲鉾も鶉胡麻蒲鉾、椎茸?薯、紅白花型薯蕷。
新鮮な魚だけを食べ、口の肥えた魚河岸衆相手なので、海の物よりも、山の物を出してきた。配慮が行き届いている。だが、吸い物だけは、鯛の皮付き真薯であった。
他に鮑の笹つくりや糸赤貝などの膾など、いずれも凝った料理が並んだ。
椎茸?薯を口に入れた。日本橋界隈と言えば、甘辛く濃い味付けと決まっている。腹持ちが良いので、魚河岸衆は格別にこの味付けを好んでいた。
「百川の料理は、魚河岸衆の好みを知り尽くしているから、どれも美味えや」
武兵衛は出された端から、どんどん平らげていく。他方の甚兵衛は箸の持ち方一つを取っても、優美で静かである。『養生訓』にある通り、少量をしっかりと噛んで食べる。
口の中のものを全て飲み込んでから、甚兵衛が尋ねてきた。
「着ている服は三井で作ったものか。三井と魚河岸の交わりと言えば、五年前の大火事だったね。……あれから、よくぞ良好な交わりを結べたものよな」
あれは、五年前。文久三年(一八六三)十一月二十三日の午前十時。
魚市場の商いが落ち着き始めた頃、直ぐ隣の三井呉服店の竃から出火した。
西北の強い風に煽られ、二刻も燃え続け、魚市場と周辺の町は丸焼けとなった。
ただの失火だったが、若い魚河岸衆は放火による火事だと、強く疑った。
火事の二ヶ月前、本町一丁目の自身番に、三井を訴える天誅紙が貼られたからだ。
「横浜の開港地で異人へ糸類を売り、内国の生糸を高値にした極悪商人の三井八郎衛門」
と、なかなかに辛辣な言葉であった。
魚河岸衆は、呉服店の隣の、同じ三井が営む両替店が無疵であることでも怒りが増した。
「天誅紙を貼られるくれえだ、攘夷志士に放火されたに違いねえ。異国との商売で儲けた三井が悪い。呉服店の再建など、させねえぞ。立ち退かねえなら、殴り込んでやるッ」
焼け残った鳶口や庖丁を手にすると、徒党を組んで、両替店へと殴り込みに向かった。
――二ヶ月も前の貼り紙を軽子や手代が覚えているとは思えねえ。……この騒動は、甚兵衛さんが若い衆を焚き付けて、三井へ強訴に及んだものに違いねえ。
「とは言え、丸焼けにされて、黙って引き下がる魚河岸衆じゃねえものな」
武兵衛は、一面の焼け野原を眺めていると、深川や本所で、失った全てが頭を過った。
――武家には一所懸命って言葉があるらしいが、俺っちにとっちゃ、魚河岸がそれだ。甚兵衛さんは、魚河岸を取り戻すための策を練ってくれたんだ……。
直ぐに自分の演じる役割を悟った。
店の片付けを放り出して、三井両替店の前へ行った。
血走った瞳をして、今にも討ち入ろうとする魚河岸の若い衆の前に、立ちはだかった。
「待ってくれ。こっからは、俺に預けちゃくれねえか。誠意を以て、談判するからよ」
すると、少し遅れて甚兵衛がやって来た。
「一つ、武兵衛さんに任せてみようや。その間に、火事の後片付けをしておこう」
とやんわりと宥め、ついに若い衆を引かせた。
これも甚兵衛の筋書通りだろう。
武兵衛は、三井八郎衛門と強談の末、この地に店を再建する代わりに、市場の類焼者へ一万五千両を無利子十年賦で貸し出す事、
他に表店に十両、裏店に五両、家主には表裏係わらず十両を見舞金として払う事。
――以上の金の授受を、あっさりと纏めた。
「お陰で、すぐに市場は再興できたし、この件以降、魚河岸と三井家は昵懇になれた」
総代の佐兵衛は市場の再開時に、三井に篤く御礼の手紙を書き、互いの絆を深めた。
その後、三井は魚市場から魚を買うようになり、肴問屋衆も着物を三井で仕立てるようになった。
「あの一件は大博打だった。だが、武兵衛さんの強談あっての成功で……感謝している」
甚兵衛は、物静かな文人だが、魚河岸育ちだ。
本音では武兵衛に劣らず、剛気で、荒ぶる魂も隠し持っている。
時には、魚河岸のために、悪知恵も働かせるのだ。
武兵衛は、ふとした時に現れる、素の甚兵衛が大好きであった。
「そろそろ、酒を運んでもらおうかえ。なあ、甚兵衛さん」
武兵衛は手を叩いた。
小女が来たので「剣菱をぬる燗で」と酒を求めた。
酒は空きっ腹には毒とされている。
そのため、料理が終わる頃に、ようやく饗される。
料理の膳が全て下げられる頃、女芸者の萬吉が妹分の御酌を二人連れて、座敷へ入ってきた。




