表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/79

其之三

     三 

 

 翌正月十日には、上方での、官軍大勝利の噂が、江戸中に広まった。

 嬉しい話は伝わり方が速い。


 武家屋敷や料理茶屋からの注文が急に増えて、鯛や白魚などの高価な魚がよく売れた。


 十一日の朝には、村松町の老舗(しにせ)酔月樓(すいげつろう)(ほう)(ちよう)(にん)(がしら)が、自ら買出しにやって来た。


「今宵だけでも、大きな部屋は全て宴席で埋まっていましてね。実に有り難い話ですよ」


 庖丁人頭は興奮気味に語った。武兵衛も聞いていて嬉しくなった。


「今朝、伊豆から届いた、今が旬の山葵(わさび)ですぜ。おまけに持っていっておくんなさい」


 いつもの倍も魚を買ってくれたので、庖丁人頭の籠へ、上物の山葵を多めに入れた。


「こんなに、お()けを。相模屋さんには、いつも良くしてもらって。またよろしく」


 武兵衛が「よろしく」と見送っていると、お艶が背中を軽く(つね)ってくる。


「気前が良すぎるよ。うちだって、傾きかけた商売がやっと戻ってきたばかりなのだよ」


「貴重だから、()えて多く分けるんだ。次は沢山の魚を注文してくれる。互いに恩を返しあってこそ、商売ってのは成り立つんだぜ。……これは先代の教えでもある」


 自分の父を出されたら、お艶も引くしかない。ただし、憎まれ口は忘れなかった。


「ここはお前さんが当主の(たな)だからね。……潰さなきゃ、それでいいよ」


 昼前には、板舟に並べた魚が、ほとんど売り切れた。鯛や(ます)等の高い魚から売れて行き、初売の日以来の儲けとなった。伊右衛門の算盤の音も、久し振りに弾んでいる。


 武兵衛は二階へ上がり、印袢纏を脱いで、用意していた羽織と小袖に着替えた。


 ――商売も上向き、百川で萬吉の唄が聴けるとは。なんと良い日なんだ……。


 そわそわしながら、身支度をしていると、お梅が部屋を覗いてきた。


「御茶屋でのお付き合いも、肴問屋衆の仕事の一つだよ。お艶に遠慮ばかりせず、堂々と(あす)んでいらっしゃい。旦那衆はそうやって顔を売りながら、人としての幅を広げるものさ」


 この日のお梅は頭がはっきりしているようだった。だが、姑に甘える訳にはいかない。


「甚兵衛さんに、上方の戦争が噂通りに大勝利なのか、(ネタ)(情報)を聞こうと――」


 話の途中で、お梅が柘植(つげ)の入歯が飛び出そうな勢いで、大声を出した。


「お上の率いる官軍が負けるわけがねえだろ。何たる罰当たりなッ」


 お梅は、三度の飯よりも(とう)(しよう)(だい)(ごん)(げん)が大好きで、心から徳川家を敬う、古老の一人であった。


 武兵衛はその場で躰を折って「へい、負けようはずがござんせん」とお梅に謝った。


「わっちに謝るのではなく、さっさと御城へ向かって詫びねえかい」


 怒ると、お艶にそっくりだ。武兵衛は千代田城へ向けて、畳に額を擦り付けた。


「官軍の勝利を疑いまして、申し訳ございませんでしたッ」


「よし、許してやる。折角の衣装が台無しだ。皺を伸ばしてから、楽しんでおいで」


 お梅と付女中のお瀧に見送られながら、武兵衛は階段を下りた。すると、甚兵衛が迎えに来ており、畳敷きの小上がりに腰掛けていた。

 お艶がお茶を出している。


「邦ちゃんが、来て下さったのだよ。お待たせしないで、さっさと下りていらっしゃい」


 甚兵衛の幼名は(くに)()(すけ)だった。武兵衛はなんだか、腹の上の辺りがチリチリする。


 ――女房の幼馴染みに(りん)()して、どうするんだよ。馬鹿か俺は……。


 甚兵衛も茶を呑むと、立ち上がった。


「それじゃ、お勝ちゃん。ちょいと旦那をお借りしますよ」


 武兵衛はお艶や店の衆に見送られながら、甚兵衛と共に百川へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ