其之三
三
翌正月十日には、上方での、官軍大勝利の噂が、江戸中に広まった。
嬉しい話は伝わり方が速い。
武家屋敷や料理茶屋からの注文が急に増えて、鯛や白魚などの高価な魚がよく売れた。
十一日の朝には、村松町の老舗、酔月樓の庖丁人頭が、自ら買出しにやって来た。
「今宵だけでも、大きな部屋は全て宴席で埋まっていましてね。実に有り難い話ですよ」
庖丁人頭は興奮気味に語った。武兵衛も聞いていて嬉しくなった。
「今朝、伊豆から届いた、今が旬の山葵ですぜ。おまけに持っていっておくんなさい」
いつもの倍も魚を買ってくれたので、庖丁人頭の籠へ、上物の山葵を多めに入れた。
「こんなに、お負けを。相模屋さんには、いつも良くしてもらって。またよろしく」
武兵衛が「よろしく」と見送っていると、お艶が背中を軽く抓ってくる。
「気前が良すぎるよ。うちだって、傾きかけた商売がやっと戻ってきたばかりなのだよ」
「貴重だから、敢えて多く分けるんだ。次は沢山の魚を注文してくれる。互いに恩を返しあってこそ、商売ってのは成り立つんだぜ。……これは先代の教えでもある」
自分の父を出されたら、お艶も引くしかない。ただし、憎まれ口は忘れなかった。
「ここはお前さんが当主の店だからね。……潰さなきゃ、それでいいよ」
昼前には、板舟に並べた魚が、ほとんど売り切れた。鯛や鱒等の高い魚から売れて行き、初売の日以来の儲けとなった。伊右衛門の算盤の音も、久し振りに弾んでいる。
武兵衛は二階へ上がり、印袢纏を脱いで、用意していた羽織と小袖に着替えた。
――商売も上向き、百川で萬吉の唄が聴けるとは。なんと良い日なんだ……。
そわそわしながら、身支度をしていると、お梅が部屋を覗いてきた。
「御茶屋でのお付き合いも、肴問屋衆の仕事の一つだよ。お艶に遠慮ばかりせず、堂々と遊んでいらっしゃい。旦那衆はそうやって顔を売りながら、人としての幅を広げるものさ」
この日のお梅は頭がはっきりしているようだった。だが、姑に甘える訳にはいかない。
「甚兵衛さんに、上方の戦争が噂通りに大勝利なのか、種(情報)を聞こうと――」
話の途中で、お梅が柘植の入歯が飛び出そうな勢いで、大声を出した。
「お上の率いる官軍が負けるわけがねえだろ。何たる罰当たりなッ」
お梅は、三度の飯よりも東照大権現が大好きで、心から徳川家を敬う、古老の一人であった。
武兵衛はその場で躰を折って「へい、負けようはずがござんせん」とお梅に謝った。
「わっちに謝るのではなく、さっさと御城へ向かって詫びねえかい」
怒ると、お艶にそっくりだ。武兵衛は千代田城へ向けて、畳に額を擦り付けた。
「官軍の勝利を疑いまして、申し訳ございませんでしたッ」
「よし、許してやる。折角の衣装が台無しだ。皺を伸ばしてから、楽しんでおいで」
お梅と付女中のお瀧に見送られながら、武兵衛は階段を下りた。すると、甚兵衛が迎えに来ており、畳敷きの小上がりに腰掛けていた。
お艶がお茶を出している。
「邦ちゃんが、来て下さったのだよ。お待たせしないで、さっさと下りていらっしゃい」
甚兵衛の幼名は邦之輔だった。武兵衛はなんだか、腹の上の辺りがチリチリする。
――女房の幼馴染みに悋気して、どうするんだよ。馬鹿か俺は……。
甚兵衛も茶を呑むと、立ち上がった。
「それじゃ、お勝ちゃん。ちょいと旦那をお借りしますよ」
武兵衛はお艶や店の衆に見送られながら、甚兵衛と共に百川へ向かった。




