第一章 戊辰の正月 其之一
めちゃくちゃ大長編なので、最初はゆるっと始まりますが、
後半は血湧き肉躍る展開となります。
よろしくお願いいたします。
一
慶応三年十二月二十五日(一八六八年一月十九日)の朝またぎ。
底冷えはするが、東の遠く、淡い茜に染まった空は、雲一つない晴天であった。
まだ夜が明けきらぬうちから、日本橋魚市場の一日は始まる。
相模屋武兵衛は、市場の中ほど、本船町八郎右衛門地借に、店を構えていた。
二代目にあたるが、肴問屋衆では若く、三十九歳であった。商売への意気込みは人一倍で、肴問屋の主人にしては珍しく、店の誰よりも早く起き出す。
一番番頭の伊左衛門は、馬喰町からの通いなので、姿は見えない。
姑のお梅、妻のお艶と、五歳になるぽん太は、まだ夜具の中だ。
前日の冷飯を茶漬けで流し込み、歯を磨く。相模屋の印袢纏を着込むと、角帯に前掛を締めた。煙草入れを般若の根付で帯に引っ掛けて、大戸を跳ね上げると、店を開けた。
元旦以外の、武兵衛の日々の営みが始まった。秩父颪の寒風は止む気配もない。
「今日も寒いねえ……。昨日より風は穏やかだから、時化が落ち着いてくれるといいがな」
白い息を吐きながら、悴んだ手を摩った。肴問屋の主人にしては、躰が大きい。
若い頃は棒手振をやっていたから、腕力がある。苦もなく、魚を並べる板舟を運んだ。
首筋からは波と龍の彫物が覗き、少し動くだけでも目立つ。印袢纏をひょいと捲り、背中を確かめた。柄を短くした鳶口をこっそり忍ばせて、角帯に差してある。起きてから眠るまで、肌身離さず持っていた。武兵衛にとっては武士の大刀と同じだ。
ふいに、焦げた臭いが武兵衛の鼻腔を掠める。二日前、千代田城の二ノ丸御殿が焼け落ちた。この火事は、天璋院を掠うために薩摩の奸賊が起こした放火との噂であった。
火事見物に行ったおりに、印袢纏へ焦げた煤の臭いが移ったのかもしれない。
明七ツ(午前四時)を過ぎると、市場は最も忙しくなる。
相模屋の一番番頭の伊左衛門も出勤しており、帳場で帳面を睨んで、算盤を弾いている。
大川のほうから、魚を積んだ大小の船が次々に入ってきて、魚河岸に到着し始めていた。
船から魚荷が上げられ、鮮度を保つために納屋で加工し、店先の板舟に並べられていく。
半刻過ぎた頃、小揚衆を一手に束ねる友七が、武兵衛を見つけて駆け寄ってきた。
「てえへんだぜ、武兵衛さん。彼方此方の御門や橋を兵が固めて、〆切になってやがるッ。浅草橋御門周辺の橋の袂に片端から柵を作って、通せんぼしてるそうだ」
友七の言葉を聞き終えると、ハッとして、武兵衛は気づいた。
「討ち入りをやる気だ……。お上が薩摩の浪人や夜盗を成敗しようと動いていなさるッ」
野太い声で呟くと、懸念よりも童のように、胸が躍った。
討ち入りとは、戦争、討伐、襲撃等を指す。江戸では何でもこの言葉で済ませた。
相模屋から通りを挟んで斜向かいにある自分の納屋(魚を捌く作業場兼店舗)の裏手へ走り、日本橋川を覗いた。
目当ての傳吉の猪牙舟がいた。刻限通りに相模屋の平田船へ横付けし、平田役の小揚衆を介して、相模屋の荷揚げ軽子へ、運んで来た魚荷を引き渡している。
平田船とは、犬走(桟橋)の代わりに川に浮かべた船のことで、名の通り、広く平らだ。
荷揚げ衆は魚荷を受け取りながら、品川から来た傳吉の話に耳を欹てている。
「川から見えるだけでも、千人以上の軍勢だ。鉄砲洲の薩摩屋敷の周辺にはどんどん兵が集まっていてよ。今にも討ち入りが始まるって感じだった」
秋からこっち、江戸の人びとは薩摩が雇った浪人に手を焼いていた。
聞いていた小揚衆や軽子はいよいよ雪辱を晴らせるのかと、口々に「ついに遣っ付けるのか」と興奮が隠せない。
小揚衆の一人も、嬉しそうに頷きながら、言葉を添えた。
「……荘内の酒井様を中心に鯖江や岩槻の軍勢が、鉄砲洲や高輪の薩摩屋敷へ向かったって話だぜ。匿っている不逞浪士を差し出さねば、討ち入って成敗する気なんだろう」
「荘内と言やあ、新徴組のお廻りの親玉だ。あすこは強えからな」と皆の声も弾んだ。
そんな話を耳に入れながら、武兵衛は傳吉のほうへ近寄って行った。
「済まねえな、傳さん。帰りの船に芝の手前まで俺を乗してくれねえかえ。船代は弾むぜ」
漁師である傳吉は浅黒い顔を勢いよく、横に振った。
「船代なんて、とんでもねえや。旦那にゃ、恩がある。……御台場ができて、海が汚され、すっかり魚や貝が獲れなくなって死にかけた品川浦を助けていただいた。幾らでも乗って下さいまし」
荷揚げは終わった。相模屋の手代が買仕切を渡すと、傳吉はすぐに帰り支度を始める。
「戦争見物に行くのでしょ、旦那。そういや、品川沖の御軍艦にも動きがありましたぜ」
一番番頭の伊左衛門が、納屋のほうから「旦那様ァ、何処へ」と叫んできた。
「おっと、見つかった。さっさと船を出してくれ。お前さんも品川浦に帰れなくなるぞ」
武兵衛は急いで傳吉の猪牙舟に乗り込む。脱いだ草履を舟首に置いてから、座った。
「行き先も告げずに、勝手に出掛けないでくださいましよ、旦那様ァ」
なおも、伊左衛門が騒いでいる。武兵衛は「疾く、船を出せ」と傳吉を急かした。
傳吉の猪牙舟は素早く、平田船から離れた。そのまま日本橋川から大川へ出る。
大川は箱崎辺まで海であり、冬の寒風も手伝って、手練れの傳吉が漕いでも舟は揺れた。
とはいえ、猪牙舟は速いので、あっと言う間に永代橋を過ぎていく。
橋の上には人集りができており、誰もが薩摩屋敷のある、鉄砲洲の方向を眺めていた。
「もう見物衆が集まり出しているようだ。傳さん、もうちっと速く漕いでくんな」
武兵衛の言葉に、傳吉の艪を漕ぐ手が速まる。
すると、石川島に建つ大きな常夜灯が見えてきた。
――昨年、佐兵衛さんの尽力で、ようやく建てられた江戸前の灯火だ……。
佃屋佐兵衛は日本橋魚河岸衆の肴問屋行事総代である。
常夜灯の建設は幾度も頓挫していた。それを、佐兵衛の人徳と、総代としての意気地で金を集めて、役所に幾度も掛け合い、ついに実現した。
武兵衛はこの常夜灯を眺める度に、見上げた胆力だと――胸が篤くなる。
自分も数年前から、同じ魚河岸の月行事を任されるようになった。
いつの日か、佐兵衛のように、江戸の多くの人の役に立つ漢になれるよう、もっと中身を磨き上げなきゃなるめえ、と密かに誓っている。
「……俺は、まだ何一つ成し得ていねえ。だが、かならず魚河岸を守れる漢になってやる」
明六ツ(午前六時半)の時鐘が聞こえた。
築地を過ぎて、御濱御殿が見えてくる。すると、傳吉が前を見詰めて、呟いた。
「おや、様子がおかしい。舟が溜まっていますねえ。どうしましょう、旦那」
御濱御殿には築地から移った海軍所がある。その前の海に洋式短艇が並んでおり、乗っている海軍らしき若侍衆が、陸側へ船が来ないように、沖へ行けと指図していた。
武兵衛は「海軍さんに話がある」と、猪牙舟を洋式短艇へ近付けさせた。
「魚河岸の者でござんす。芝浦に用があるので、この先へ通しては頂けませんかね」
すると、海軍の証である紺の筒袖を着た、賢そうな若侍がちらと武兵衛の印袢纏を見た。
「薩摩屋敷へ討伐が行われる。陸の近くは危ない。御台場の向こうへと遠廻りしてくれ」
聞いていた傳吉が「それじゃ品川浦に帰れねえやいッ」と叫んだ、その時。
ドオオオンと凄まじい大砲の轟音が鳴り響いた。
武兵衛の腹にもズシンと震えが伝わった。永代橋の見物衆から、歓声が上がる。
「やはり、薩摩は浪人の引き渡しに応じなかったか……」
海軍の若侍が空を仰ぎ、苦苦しげに呟いた。思わず武兵衛は尋ねた。
「今のは、討ち入りの合図なんでござんすかね」
「門を打ち破った音だ。すぐに離れたほうが良い。討伐に巻き込まれるやもしれぬぞ」
親切な海軍さんに礼を言うと、猪牙舟は洋式短艇から離れた。
「傳吉さん、俺を築地で下ろしてくれ。お前さんは海軍さんを突破して品川浦へ戻るんだ。今の風向きだと、火が出たら品川が危ねえ。一刻も早く村へ戻って、手を打つべきだぜ」
傳吉は「へい」と半泣きで漕いだ。武兵衛を舟から下ろすと、慌てて品川浦へ去った。
陸に上がった武兵衛は、築地から芝へと歩き出した。背中の彫物の龍が疼き出す。
好からぬ何かが待っている時に起こる。だが、躊躇わずに前へ進んだ。