俺の分水嶺は……
――分水嶺――
皆様はそんな言葉を聞いたことがあるだろうか?
どうやら分水嶺とは、雨水が分岐する尾根をさすことから、転じて、物事の方向性を決定づける大きな分かれ目という意味があるらしい。
(引用:https://syosetu.com/event/history2024/)
しかし、その大きな分かれ目と言うのは、いつ何処で誰が何を何故どのようにしてという5H1Wがハッキリと分かりさえすれば良いのだろうか?
俺はずっとそう思っていたが、どうやら違うということを思い知らされてしまった。
ここからは、愚かな俺の少し不思議な話をするとしよう。
◇◇◇◇◇
俺は絶望の淵に落とされていた。
それは何故かというと、最愛の妻に離婚を言い渡され、別れざるを得なかったからだ。
しかし、俺には全く納得することが出来なかった。
別に今まで大きな喧嘩をしたこともないし、揉めたことも無かった。
俺達は普通に仲の良い夫婦で、子どももいる幸せな家族だと思っていたんだ。
まさか、自分が熟年離婚することになるなんて夢にも思わなかった。
俺は妻と、いや元妻と別れてから何がいけなかったのか、懸命に考えた。
正直そこまでこれだと断言出来るものはなかった。
しかし、敢えて言うなら2年前の出来事だった気がする。
実はあの時、あと少しで定年退職という際に、自分の部下が会社に大きな損害を与える大失態をしてしまった。
あの時俺は、部下のせいで、最後の最後で自分の泥を塗られたと思い、ものすごく腹を立てていて、元妻に八つ当たりをしていたのだ。
その時から、少し俺達の雰囲気が重くなって、それから会話もたどたどしくなったし、何となく距離を置かれたような気がした。
それから、もしあの時に戻ることが出来たら、こんな事態を避けることが出来るのではないかと何度も何度も考えた。
それはもう3年も考え続けるほどに。
そんなやさぐれた生活をしている時に、俺の目の前に大きな一筋の光が差した。
そして、誰か分からない声で空の上からこんなことを言われたんだ。
「そなたはもう1度やり直したいか? そなたが思う分水嶺に」
俺は分水嶺とは言う言葉は聞いたことはあったが、よく分からないためどう言う意味か聞いたところ、あの言葉が返ってきたのだ。
その時今まで確信したこともなかったあの出来事が、やはり分水嶺だと思った。
だから、俺は迷わずにやり直したいと言った。
すると、大きな光を包まれて、あの日に戻っていた。
◆◆◆◆◆
俺は戻ってすぐに上司に怒られた。
自分の部下が失敗したのだからという理由で、俺は関係ないのに、槍先を向けられてしまったのだ。
まさかこの嫌な出来事を2回も体験するとは、本当に嫌なことだ。
やはりどうしようもなく腹が立ってしまう。
この怒りを誰かに発散したい気分だ。
確かにこれは妻に八つ当たりしたくなる気持ちが分かるが、ここで八つ当たりしたらもう終わりである。
気を付けて帰らなければならない。
「ただいま」
「雅人、お帰り」
家に帰ると、妻は料理を並べて俺を待っていた。
子どもは少し前に社会人となり自立したため、今は妻と2人暮らしだし、妻は専業主婦なのでこの時間帯は料理を準備している。
そのため、俺が帰るとすぐに食事になるのだ。
前回の俺はここで、今までに無いほどの怒りを妻にぶつけていたが、今回は何とか抑えてその場を凌いだ。
ただこの話は聞いて欲しくて、この出来事だけは軽く話すことにした。
「実はな、今日は部下がやらかして、とばっちりを合ったんだ。いつも以上に疲れた」
「そう……お疲れ様」
「お前は、今日はどうだった?」
「私は特になく、いつも通りよ」
話はただ淡々と進む。彼女も何と反応したら良いの分からないようだった。そのため、俺もどのように話を進めたら良いのか分からなくて、そのまま食事が終わってしまった。
確かにあの時のようにいざこざは無かった。
しかし、雰囲気は日に日に少しずつ重くなっていき、お互いに話し合うことも、出かけることもなくなってしまった。
これは正直、前と何も変わっていない気がする。
あの時、怒りを抑えたのにどうして良い方向に変わらないのだろうか。
その考えも切迫して、余計に妻とコミュニケーションが取れなくなってしまったまま、2年と月日が流れ行き、あっという間にあの日をまた迎えた。
俺が定年退職をした日、あの時と同じように妻から離婚届けを叩きつけられたのだ。
「雅人、私と今日限りで離婚して」
何となくその予感はしていた――このままだと、離婚を切り出されると。
しかし、俺はあの時は怒り任せでサインしてしまったが、今はその理由が知りたかった。
何せずっと知りたかったけど、分からないままだったことなのだから、ここで聞いてもバチは当たらないだろう。
「その前に理由を説明して欲しい。離婚はそれからだ」
俺は怒りを抑えて、冷静を装って妻に理由を尋ねた。
すると、妻は今までに見たことがないほど興奮して、語り始めた。
「そっか……分からないんだ。なら理由を教えるね。私は雅人と結婚してから幸せだって思ったのは、葵が生まれる前の1年間だけなの。それからはずっと苦痛だった。葵は生まれながら体が少し弱かったから、会社をよく休まなければならなかったし、仕事だって年を重ねる内に様々な責任が押しかかって大変だった。勿論それと平行して葵を育てなければならなかったから尚更よ。それなのに、雅人は何も手伝ってくれなかった……休みの日も疲れたら休ませろと言って葵の相手をしなかったのに、葵の勉強や友人に口出した。挙句の果てに、葵の大学進学では自分が医者になれなかったからと、望んでもないのに医学部を行かせようとして、苦しませた。雅人は葵の親でありながら、葵のことを見ようともせずに、ただ自分の考えを押し付けた。それって親だと言えるの?」
初めて妻が怒っているのを見た。
怒るとこんな表情をするのだと恐れ戦慄いてしまう。
別に葵のことを粗末に扱ったことも、意思を捻じ伏せていたと思ったことはなかった。
ただ自分は休みの日は休むものだと思っていたからその考えは無かったし、また葵のために医師になった方が良いのではないかと思っての助言をしたつもりだった。
でも今考えてみると、もっと葵と関わる時間を作ろうと思えば作れたし、また話もちゃんと聞いてあげることも出来た。
また、確かに俺は昔医師になりたいと思っていたから、子どもに叶えさせようとしていたのかもしれない。
確かに、俺は親ということをしていなかったのかもしれないと初めて気付かされた。
しかし、彼女の話はまだ止まることは無かった。
「それ以外にもあるよ。例えば雅人はいつも仕事で必要だからとか、ちょっとしたご褒美にって無駄に高いパソコンや時計を私の相談無しで買っていた。雅人が稼いだお金は雅人だけの物じゃなくて、家族のお金だよね。 なのに何で勝手に大量出費するの? あといつも部下のせいでとか言っているけど、それは上司である雅人にも責任あるよね。上司って指導するために、責任を取るためにいるんだよ。そのことを理解していないのに愚痴られて、こっちは気分悪いから。そして、私が嫌だったのは、私のことをお前って呼ぶこと。夫婦は対等な立場でしょう? なのに見下されて腹が立つわ」
そこまで不満を抱えていたなんて、今まで全く気づかなかったことが恐ろしい。
今まで何を思って良い夫婦だと思っていたのだろうか。
「雅人、今までここまで不満を溜め込んでごめんね。私もその都度言えば良かったとは思ってはいたけど、いつも疲れていて言う気力も無かったの。雅人だって、私に不満は多くあるよね。お互いに言ってスッキリさせよう。もう葵も社会人になったし、別れても良い頃でしょう」
確かにそう思っているなら、その都度言って欲しかった。
話をスルーせずに、聞いて欲しかった。
もっと顕に感情を出して欲しかった。
そんなことを思って、俺も不満を言った後に、渡された離婚届けにサインをして、次の日俺達は赤の他人となった。
◇◇◇◇◇
これが俺の愚かなお話さ。
何故やり直すことが出来たのかは、今も分からない。
ただ今分かることは、あの出来事は分水嶺でもなんでも無かったということだ。
あれはただの亀裂を深めるキッカケに過ぎなかったんだ。
そもそも俺達は、はるか前から終わっていた――もうあの時には修復しようがないぐらいに。
もう俺達の関係は2度と元に戻ることもない。
きっと俺には分水嶺なんて存在しなかった。
そもそも俺自身に問題があることから見つめ直さなければならなかったのだから。