不思議なミサキの灯台~真実の言輪~
雲ひとつない空が青い。
どこまでも透き通るような青空が広がっている。絵具やペンでは絶対に表現できないであろう絶妙な青色。
そして、その青を写して更に濃くした色鮮やかな青い海。顔を上げれば空の青、眼下には海の青。綺麗な風景だった。真っ直ぐに目を向けると、空と海の境界線が見える。じっと見つめていると、二つの青が混ざり合って境界がぼやけてしまう。空も海もない、ただ青い世界に迷い込んでしまったかのようだ。
馬鹿な空想を繰り広げる私の髪を海からの強い風が巻き上げた。目にかかる髪の毛を払いながら、ふと苦笑する。
ここには死にに来たというのに、目に毛がかかる事が我慢ならないなんてどうかしてるわ。あと一歩踏み出せば、そんな些細な事どうでもよくなるのに。
私は足元を見る。つま先の先、僅か数十センチ先にはもう地面がない。ここは切り立った崖の上だ。
ここは太平洋に面した孤頭岬という岬である。草と岩があるだけで見るべきものは何もなく、辺りにも何もない。切り立っているので、下まで降りることが難しく、釣り場としても不人気だ。ここに来る前に 色々と調べたので間違いない。
少しだけ顔を覗かせると、遥か眼下に白く泡立つ波間が見えた。
本当にあと一歩、いや、体を前に傾けるだけでこの世の全てと、さよならすることができる。ごく簡単なことだ。
それでも最後に一目、この世の何かを目に焼きつけたくて、私は未練がましく後ろを振り返った。覚悟を決めてやってきたのはずなのに、このザマだ。なんて情けないんだろう。満足に死ぬ事も出来ないなんて。
私の胸の辺りにくる柵の向こうに大きな灯台が見える。人気はなかった。さっきも言ったが当然だ。ここは観光名所でもないし、はっきり言ってしまえば、自殺スポットなのだ、この岬は。
しかし、陰惨な場所であるはずの岬に立っている灯台は古びているが、誰かが手入れでもしているのか、輝くような白さを誇っていた。
振り返った私の目に、抜けるような青空と灯台の白のコントラストが美しく映った。海と空も綺麗だったが、色にメリハリがある分、空と灯台の方が私の心に響いた。
もう十分だ。死の前にこれだけ美しい景色を見られたのだから、もういいだろう。死に逝く私へのプレゼントだ。
さあ、一歩踏み出そう。
私が深呼吸して、文字通り決死の一歩を出そうとした時、背後から声が聞こえた。
「おや、自殺ですか?」
声がしたことに驚いてバランスを崩してしまう。落ちる、と思って反射的に柵にしがみついた。落ちたかったはずなのに。
しかし、ついさっき後ろを見た時は全く人気がなかったのに、一体どうなってるの? ここは猫の額みたいな広場しかなくて、とてもじゃないけれど隠れる場所なんてないはずだけど……。
「うーん、自殺かぁ……なら、もうちょっと左から落ちた方がいいのではないでしょうか。そこは下が完全に海でしょう? この高さなんでほぼ確実に死ねると思いますが、万が一助かった時、ひどい後遺症を負うことになるかもしれませんよ。その点、左はけっこう岩場ですから間違いなく墜落死できますよ」
これから自殺しようとしている人間を目撃している人物とは思えないほど、のんびりした声音だった。そもそも、自殺を止める気がないのだろうか。今も確実に死ねる方法を教えてくれたわけだし……。
私は困惑を抱えながら突如現れた人物を見やる。姿を確認するとさらに困惑が深まった。
そこにいたのは少女だった。
おそらく十代後半ぐらい、小柄でスリムな体型で、目が大きな愛らしい顔つき。腰の辺りまでありそうな長い茶髪が強烈な風に煽られ、バタバタはためいている。数サイズは大きそうなだぼだぼのTシャツに、あちこちほつれたダメージジーンズとボロボロに履きつぶれたスニーカー。そして、頭に野球帽。野球帽には何故か、ひらがなで『やんきーす』と書かれている。
「――と。まぁ、自殺ポイントを教えておいて何ですが……自殺なんてやめませんか? 月並みな事を言わせてもらいますけれど、自殺していい事なんて、なーんにもないですよ。痛いし、苦しいし、飛び降りだから死体はグチャグチャになりますし、なんと言っても信じられないぐらい痛いですよ。保険金をかけてるなら話は別ですが、それでも、そのお金はあなたが使えるわけじゃありませんしね。大体、自殺の場合の保険金支払いは審査が厳しいんじゃないですか? 門外漢なもので、詳しい事は知りませんけれど。それに、あれです、崖から落ちてもやっぱり死ねないかもしれませんよ。よく言うじゃないですか、崖から落ちた奴は死なないって。大抵、記憶喪失とかになって帰って来るんですよ。崖から落ちた人はね。まあ、フィクションの話なんですけれど。ただ現実はフィクションより奇なり、とも言いますからね」
少女はそんな事をまくし立てて、ニカッと笑った。口の間から真っ白な歯がのぞく。少し八重歯が目立つが、それも可愛らしいポイントだろう。
何というか、私と違って生きる気力に満ち溢れている少女だった。そんなはずないのに、彼女がうっすらと輝いて見える。
「あ、あなたは誰……?」
内心に渦巻く疑問が思わず口をついた。それに対して、謎の少女はクリクリした瞳をこちらに向けて、ちょこんと小首を傾げる。芝居がかった仕草だったが、意外と少女には似合った。
「私ですか? もちろん、ミサキちゃんですよ」
何がもちろんなのかはさっぱりわからないが、彼女はミサキというらしい。
「ミサキさん……ね」
「いいえ、違います」
確認のために呟いたのだが、彼女はすぐにきっぱりと、こちらが驚くほど強く否定した。
「え? でも、あなた……今、言ったわよね?」
「言いましたよ。でも、ミサキさん、とは一言も言ってません。私はミサキちゃんです」
彼女は腰に手を当てて胸を張る。
どうやら、彼女はミサキちゃんと呼ばれたいらしい。何か並々ならぬこだわりがあるのかもしれない。それによく考えると、彼女は『ミサキさん』よりも『ミサキちゃん』と呼ぶ方がふさわしい気がする。
「そう……あなたはミサキちゃん、なのね」
「ええ。ミサキちゃんですよ」
ミサキちゃんは嬉しそうに笑った。しかし、彼女が何者なのかは全く分かっていない。
「それで、ミサキちゃん……あなたは何者で、こんな所で何をしていたの?」
ここの景色は雄大かもしれないが、観光名所でもない。何度も言うが、基本的にひと気はないはずなのだ。
「私はあなたの自殺を止めにきた天使です」
ミサキちゃんは野球帽のつばをクイッと上げて、真剣な瞳でこちらを見つめてくる。
まさか、そんな事が? しかし、彼女のまとう不思議な空気を見ると、どうにもありそうだと思ってしまう。
「え? いや、冗談ですよ? そんな真摯な瞳で見られてもちょっと困っちゃいますね」
彼女はあっさりと前言を否定して微かに微笑む。
「天使なんて、そんなわけないじゃないですか。自殺を止めることができたのも偶然です。めずらしく人がいるなと思いましてね。観察していたら、どうにも危ない雰囲気になってきたので慌てて降りて来たんです」
「降りて来た?」
「ええ。灯台から降りて来ました。なんたって、私はここの灯台守ですから」
「トウダイモリ?」
聞き慣れない単語に一瞬意味が分からなかった。
「はい。この孤頭岬の孤崎灯台の、灯台守です」
灯台守か……何か時代がかった不思議な響きを持つ言葉だ。現在ではあまり馴染みのない言葉。
ミサキちゃんは跳ねるような軽い足取りで、こちらに近づいて来くると、ずい、と手を伸ばす。
「こちらにどうぞ。危ないですよ、そんな所にいたら」
私は自殺しに来たんだけど……。そう言おうかと思ったが、どうにも気勢が削がれた。こうなってしまえば、自殺する雰囲気でもないし、もう私には崖の先に足を踏み出す覚悟はなくなってしまった。
ニコニコ顔のミサキちゃんを見ていると、毒気が抜かれる気がする。
突っ立ったままの私に痺れを切らしたのか、彼女は柵から身を乗り出して私の手を取った。
「ほら、何やってるんですか。こらち側に来て下さい。そちらは危険ですよ」
彼女に腕を引っ張られ、私は柵を乗り越えた。ほんの二メートル程移動しただけで、安堵感がこみ上げてきて体から力が抜け、その場にへたりこんでしまった。決死の覚悟を決めてきたはずなのに、とんだお笑い草だ。結局のところ私は死ぬ根性なんてなかったんだろう。
「おやおや、お疲れのようですねぇ。まあ、あんな場所にずっと立ってれば、そうなっちゃいますよ。……そうだ! こうやって知り合ったのも何かの縁です。孤崎灯台を守る――引いては孤頭岬を守る――この灯台守、ミサキちゃんがあなたをもてなしましょう。疲れているようですし、いかがです?」
ミサキちゃんはこちらを覗きこんでそう言った。屈んだことで彼女の長い髪が垂れ、風になびいた。彼女の毛先が私の頬をくすぐる。
「私は……」
「なぁに遠慮はいりませんよ。私は気ままな独り暮らしですから。灯台の内部、気になりませんか? 見学なんかいかがです? ……ふむ。その様子だと、あまり気にならないようですね。……じゃあ、こうしましょう。ぜひ私とおしゃべりして下さい」
彼女はへたりこんだ私に視線を合わせるように、膝を抱えてしゃがみ込む。
「気ままな独り暮らしは気ままですけど、やっぱり退屈なんです。よかれと思って来て下さい。何にもありませんが、コーヒーぐらいならお出しできますよ」
ミサキちゃんは軽やかに立ち上がると、優雅な仕草で灯台の頑丈そうな扉を示した。
「さて、今度はあなたのお名前をうかがいましょうか。このままじゃ、自殺さんという物騒でひどいあだ名で呼ぶことになっちゃいますよ」
ミサキちゃんの後に続いて、灯台の内部に足を踏み入れた。
「愛原凛。愛しい原っぱで凛とする、よ」
「可愛い名前ですね。では、凛さんとお呼びしましょう」
細く薄暗い通路を案内され、小さな扉の前に連れて来られた。
「あ、頭、気を付けて下さいね」
ひょいと頭を下げて、扉をくぐるミサキちゃん。彼女は頭を下げていたものの、そこまで大げさに下げなくとも、小柄な彼女は頭をぶつける心配はないように見えた。しかし、それは言うべきではないだろう。私は何も言わすに頭上に注意をしながら扉をくぐった。
「じゃーん! キッチンダイニングでーす」
ミサキちゃんは両手を広げながら声を上げた。
「狭いですけど、くつろいで下さいね」
確かに部屋は狭かった。ただ、灯台の内部であることを考えると当然の事かもしれない。狭い部屋だが、きれいに整理され掃除が行き届いていた。小さなテーブルと古びたキッチンが備え付けてある。
「凛さんは座って待ってて下さい。お客様ですから」
ミサキちゃんは私を強引にテーブルに座らせると、自らはそそくさとキッチンの方へ近づいた。
「コーヒーがいいですか? それとも紅茶?」
「コーヒーをお願いできる?」
「はーい、了解しました。運がいいですよ、凛さん。実はですねぇ……最近いいコーヒー豆を手に入れましてね」
彼女は嬉しそうにそう言って、キッチン下の収納棚の前にしゃがみ込んだ。しばらくゴソゴソやっていたミサキちゃんは突如として動きを止めた。
「どうしたの……?」
「……ごめんなさい」
「え?」
「コーヒー豆……ありませんでした。そう言えば、昨日、最後の豆を挽いちゃったんでした」
「べ、別に紅茶でも大丈夫よ?」
意外なほど意気消沈するミサキちゃんを見ていられず、私はそう声をかけた。どうしてもコーヒーが飲みたいわけじゃない。紅茶だって全然かまわない。
「……そうします。紅茶だって安っぽいティーバックじゃない本格派ですから、ご安心を!」
そう叫んで棚の中に頭を突っ込むミサキちゃん。
「あ、ありました!」
棚の中からこもった声が聞こえる。帽子のつばにちょっとだけ埃をくっつけたミサキちゃんが這い出してきた。
「これです!」
彼女は嬉しそうに茶色の缶を掲げる。缶には白い紙が貼られていて『紅茶・葉っぱ』と書かれている。何だか、すごい生活感あふれる缶だった。
「ふへへ。これですよ。これがまた、いい茶葉でしてね……貰い物なんですが、ナントカっていう品種のファーストフラッシュらしいんです」
カポンと音を鳴らしながら、缶の蓋をあけるミサキちゃん。そして、中を覗いた彼女の動きが固まった。
「……腐ってる」
ミサキちゃんの呟きと同時に、異臭が私の鼻をついた。発生源は茶色の缶である。高級品でも腐ってしまえばひどい臭いになるらしい。まあ、あの缶は棚の奥に眠っていた感じだったし、腐っても仕方ないのかもしれない。
「……でも、茶葉って発酵してるんですよね? じゃあ、ちょっとぐらい腐ってても……」
未練たっぷりの視線で缶をのぞきこむミサキちゃん。心苦しいがこう言わざるを得ない。
「……やめた方がいいと思うわ」
「ですよね……」
再びカポンと音を鳴らして蓋を締め、床に膝をついて肩を落とすミサキちゃん。顔に縦線が入りそうなぐらい深く落ち込んでいる。
彼女の手から缶が滑り落ち、カランと音を立てて床を転がった。円筒形の缶はコロコロ転がって私のつま先にぶつかる。私はテーブルの下に潜り込んで缶を拾った。
「私がなおしておきましょうか?」
「いえ、大丈夫です……」
しょげかえったミサキちゃんは私の手から缶を受け取ると、もう使えない茶葉をゴミ箱に放り込んだ。そのままトボトボと食器棚に近づいて手頃なコップを二つ手に取り、水道水を並々と注ぐと静かに私の前に置いた。
「水です……」
「おいしい水ね!」
気まずい空気を吹き飛ばそうと明るく言ったのだが、ミサキちゃんは私の対面に座ってしょげたままだ。このシーンだけ見ると、ミサキちゃんの方が自殺しそうな雰囲気がある。
何を話していいのか分からずに、微妙な沈黙が部屋を包んだ。私は手持無沙汰になって部屋の中をあちこち見回した。一見すれば普通の部屋と変わらない。少し狭いし古びてはいるが、こじんまりとしたいい部屋だ。眼隠しされて連れて来られても、ここが灯台の中だなんて絶対に分からないだろう。
「なんてことでしょう……コーヒーでおもてなしするつもりが……水を出すことになろうとは……孤崎灯台の灯台守として、不甲斐ない限りです」
「気にしないで。私は助けてもらったんだもの。水だってすごくおいしく感じるわ」
「優しいですね。凛さん」
ミサキちゃんはしばらく宙を見つめたまま固まったあと、頭をブルブルと振って姿勢を正した。
「切り替えました。もう大丈夫です! さて、凛さん! 楽しくおしゃべりしましょう!」
彼女は『やんきーす』帽子を脱いでテーブルに置いた。テーブルの向こうから身を乗り出した彼女の大きな瞳がキラキラと輝いている。この子はさっきまで私が自殺しそうな人間だったと忘れているのだろうか。それとも、それを思い出させないように明るく振る舞っているのだろうか。
「えっと、ミサキちゃん。あなたはどうして灯台守なんてしてるの? そもそも、灯台守って未成年でも出来るものなのかしら?」
「おろ? 未成年? 何を言ってるんですか、凛さん。私はれっきとした成人ですよ?」
「え? 成人? ミサキちゃん、あなた成人なの!?」
「……驚きすぎでは? ひどいですよぉ。私ってそんなに童顔ですかね?」
彼女が童顔かそうでないかと問われると、童顔だと答えざるを得ない。小柄だし、目は大きくて可愛らしい。雰囲気だって大人と言うよりは青春時代のような瑞々しさがある。私の青春時代は――十年近く前の話だが――これ程の初々しさはなかった……気がする。
「まーよく言われるんですけどねぇ。実年齢より絶対若く見られるんですよ」
「……じゃ、ミサキちゃん、いくつなの?」
「二十四歳です」
「私と二つしか変わらない……」
下手したら十歳ぐらい下だと思ってたのに……。
この輝きの差は何なんだ。二十四歳と二十六歳というのはこんなにも違うものなのだろうか。二年前の私はこんなに天真爛漫だっただろうか。
「凛さん、何でへこんでるんですか。人生いくつになっても輝き続けられますよ。それに凛さん、お綺麗ですし仕事もバリバリ出来そうじゃないですか。私の見立てって結構当たるんですよ。……ま、コーヒーと紅茶の見立ては失敗しましたが」
「私は出来る人間なんかじゃないわよ。ダメダメの弱虫なの」
私はゆるゆると首を振って、ミサキちゃんの言葉を否定する。これが今の本心だった。今の私に自信なんてこれっぽちもないのだ。
「フムフム……そこまで自分を卑下するのは、あれですか。やっぱり崖の縁に立ってた事と関係あるんですか?」
「……ある……んだと思うわ」
「ふーむ。そうですねぇ……凛さん、よかったら内心に溜まってる悩みを吐き出してみませんか? 私たちは知り合ったばかりですけど、だからこそ、話せる事もあると思いますよ。心の澱はぶちまけちゃった方がいいです。ドロドロの思いはぜーんぶ出しつくしてみればいかがです? 安心して下さい。ここには私以外、誰もいませんから。盗み聞きされる心配はありません。私だって他言はしませんよ。灯台守は職務上知った他人のプライバシーを洩らしちゃいけないんです」
それに、とミサキちゃんは続ける。
「あれですよ。凛さんと楽しくお喋りしようという私の野望のためにも、あなたのお悩みはすっきり解決しておいた方がいいでしょう。悩みを抱えたまま楽しい会話をするなんて、消化不良を起こしちゃいます。……ま、話したところで悩みがなくなるのかはさて置いて、もしかしたら、私が力になれるかもしれませんよ」
ミサキちゃんはエヘヘと笑った。
見ず知らずの少女――本人によれば見た目だけ――に個人的な悩みなんて、話すつもりはさらさらなかったが、私は気がつくと説明のために口を開いていた。
ミサキちゃんの穏やかで不思議な雰囲気に呑まれたのかもしれないし、もしかすると、ただただ誰かに聴いて欲しかっただけなのかもしれない。
長い間、遠距離恋愛をしていた彼がいた。私が東京、彼が大阪。
いた、という過去形なのは、もちろん別れたからだ。
別れた、というか、裏切られたのでケンカして、一方的にフッたのだけれど。そして、彼は去って行った。
《『君が進行形を俺』するつもりやった》などという意味不明のメッセージを残して。
遠距離と言ったって、今どき、距離がいくらあろうが顔を見たいと思えばいつだって見られるし、話だっていつでもいくらでも出来る。それでも、それだけでは足りなかったのだろう。画面の向こうにいる人と本当に心通わす事は、私にとって難しすぎたのだ。直接会ったって互いの心内が見えるわけではないのに、ネットワークを介してなんて、傲慢すぎた。
仲はよかったと思う。時々、些細な事でケンカしたけれど、すぐに仲直りができた。デートだってうまくいっていたし、破局の兆しなんて全くなかった。それどころか、結婚するなら彼とだと思っていた。私は酔っぱらう度に、友人たちに――特によく飲む親友に――も彼と結婚するのだとのろ気ていたという(残念ながら、私はそんな事を言った記憶がない)。
彼はよく笑う人だった。いつもふざけた事ばっかり言って、彼と出会うまではジョークを理解できない頭の固い女だった私を笑わせようとしてくれた。
彼と出会ったのは、友達の内の誰かに誘われた合コンで、正直なところ、第一印象は最悪だった。私には理解できない言葉を操り、場を盛り上げようと必死な男。なのに、微妙に恥ずかしがっている。それが彼だった。
何を言ってるんだ、こいつは。恥ずかしいなら大人しくしてろ。
私が一番最初に、彼に対して抱いた感想はそういうものだ。
後から聞いた話によれば、その時の彼は遠くから友人の元へ遊びに来ていたところを、その友人に誘われて、断りきれずに合コンへついて来ていたらしい。知り合いはその友人一人だけで、場を盛り上げるトークをするのはいつもの数倍恥ずかしかったと言っていた。地元とノリも違うし、ノッてくれないから困った、と彼は愚痴をこぼしていた。
その場では彼の事を、少々ムカつく男としか認識していなかったが、数日後、間違って彼に電話してしまったのだ。いつもなら合コンで入手した気に入らない男の連絡先など、一瞬で消し去ってしまうのだが、なぜか彼の連絡先だけ残っていたのだ。
何にせよ、間違ってつながってしまった電話口の向こうで、彼は相変わらす、馬鹿なことを言っていた。間違い電話だと説明したにも関わらず、私が電話を切ろうとしているのにも関わらず、面白い事をくっちゃベっていたのだ。その時の話は私のツボに入って、私は思わず笑ってしまった。と、同時に「こいつはこんな事、言いながら、またきっと顔を赤くしてるんだろうな」と思うと、どうにも可笑しさが込み上げて来て、私が電話をつないだまま、大笑いしてしまったのだ。久しぶりにした大笑いだったと思う。
そこから、彼との付き合いが始まった。時たま、電話していい感じに笑わせてくれる便利な男。そんな立ち位置だったのに、私はいつの間にか毎日のように彼に電話するようになってしまったのだ。彼と話ができない日には相当落ち込んで、そんな自分に気付いて愕然としたりした。
彼の笑い声を聴くと心が躍った。
彼の話で、彼と一緒に笑うと幸せな気分になった。
恋人に胃袋を掴まれるという表現がある。私の場合は、彼に笑いのツボを掴まれたのだ。落ち込んでいても、笑顔になれる方法を掴まれた。怒っている時も悲しい時も、彼に無理矢理にでも笑わされると、すぐに暗い感情が吹き飛んで気分が明るくなった。
たまに盛大にスベることもあったけど、いつでも彼は楽しかった。人を笑わせる事が好きな割に照れ屋で、私の親友と初めて会った時も場を盛り上げようと頑張っていた。そこまで頑張っているのに、初対面だった親友を意識してか、話がウケた時もスベった時も、彼は頬を赤くしていた。
基本的にへらへらしていて、頼りになるとは口が裂けても言えないけど、優しい人だった。「プロポーズする時は、楽しくびっくりするぐらい派手に、一生思い出に残るぐらい強烈なプロポーズをしてね」私はよく冗談交じりでそう言った。照れ屋な彼が照れるのが見たくて言っていたところもあるけど、半ば本気だったと思う。
彼は顔を真っ赤にしながら「恥ずかしいから無理、絶対せぇへん」――つまりは絶対にしない――と毎度のように言っていたけれど、私はそれを期待していた。
好きだったのだ、彼の事が。
どうしようもなく。
そんな彼に裏切られた。
彼が遠方にいるため、デートは大体、月に一回か二回だった。それが突然キャンセルされた。私にとっては彼の身振り手振りを交えた生の声を聞いて、一ヶ月分の元気をもらう大切なデートなのに、彼が急ぎの用があるからという理由でドタキャンとなったのだ。その日、私は中々プロポーズしてくれない彼に業を煮やして、逆プロポーズでもしてやろうか、と狙っていたので余計にガクッときてしまった。気張っていたのに、ひどい肩すかしを食らった気分だった。
腹立ちまぎれに、彼に内緒でおいしい物でも食べてやると息巻いて、私は外へ出かけた。彼に会えない寂しさを抱えて部屋で一人になっていればよかったのに、私は外へ出てしまったのだ。
どの店がおいしいだろうか、とグルメ街をブラブラしていると、彼にそっくりな人を見つけてしまった。彼に会えないから、ちょっとでも似た人がいるとそう思ってしまうのだろうと、他人の空似だと、そう思ったのだが見れば見るほど彼にそっくりで、私は思わずその後を尾けていた。しばらく観察しても、ますます彼に見えてくるし、その笑顔はどう見ても彼のものだった。
用事があると言っていた彼がどうしてこんな所に? この辺に用があったのだろうか、とも思ったのだが、それだと私の顔ぐらい見に来てくれるはずだ、と思い直した。いくら用があるとしても私の地元近くまで来るのならば、少しぐらいデートはできるはずだ。ただでさえ少ないデートの機会を逃すなんて、そんな事するはずがない。
意を決して彼に声をかけようとした時、彼がいきなり駆け出した。姿を見失わないように必死で後を追った。尾行がバレたのかとも思ったが、彼は一度も振り向かなかったから、そんな事はないはずだ。
どこまで走るんだろうと思ったが、彼は意外とすぐに立ち止まった。
「ねえ……」
と、声をかけようと思った。口を開きかけもしたけれど、開いた口から言葉が出ることはなかった。
彼と待ち合わせしていた人物は、私の親友だった。
彼女とは十年来の親友だった。よく遊び、飲みに行っては互いに愚痴り合い、なんでも相談できる大切な友人だった。彼に対する悩みもたくさん聞いてもらった。彼が中々プロポーズしてくれないだの、こっちからグイグイいった方がいいのかとか、最近、彼の口調が移って困るとか、彼のギャグがスベることが多くなったとか、深刻な悩みから、どうでもいい些細な悩みまで幅広く聞いてもらった。
そんな彼女が、彼を待っている。微かに笑いながら、楽しげに彼を待っていた。駆け寄った彼も半笑いで、楽しそうに彼女と話していた。
私は言葉も出せず、それどころか足さえ動かすことすら出来ずにただ立ちすくんだ。
駆け寄って二人に詰め寄り、どうして二人で待ち合わせていたのか聞きたかった。どうしてそんなに楽しそうに会話しているのか問い詰めたかった。用事があると私に嘘をついてまで、私の親友と会っている理由を聞きたかった。
だけど、私の意思に反して、体は一ミリたりとも動かなかった。人混みの中で立ちすくんでいるのだから、ひどく迷惑になっていたはずだが、その時の私にそんな意識はなかった。
二人から顔を背けることすらできないし、逃げ去りたいが足も動かない。だけど、目からは涙がこぼれた。涙もコントロールできなかった。
そんなはずない。
あの二人が付き合ってるなんて、そんな事はないはずだ。彼は私と付き合っているのだし、彼女は私の親友だ。二人とも浮気なんてする人間じゃない。どれだけそう思い込もうとしても、目の前の現実がそれを否定する。
とめどなく溢れる涙が頬を伝う。涙はびっくりするほど冷たかった。その冷たさで体を縛っていた呪縛が解けた。
私は二人に詰め寄ることも忘れて、すぐにその場を立ち去った。非情な現実から目をそむけ、ただ逃げ出した。
どこをどう走ったのか、私は気付くとアパートに帰り着いていて、自分の部屋に飛び込んでベッドに潜り込でいた。みじめで情けなかったけれど、泣き声だけは上げるまいと唇を噛みしめて、マットレスに強く顔を押し付けた。
どのぐらいの時間そうしていたのか、インターホンが鳴ったので、反射的に立ち上がった。動くのがひどく億劫だったけれど、何も関係ない宅配便とかだったら待たせるのも悪い。私は泣き腫らした酷い顔のまま、玄関へ向かった。
「はい……」
「おーい、俺でーす!」
玄関扉の向こうから聞こえてきたのは、能天気な彼の声だった。
「サプライズで来たで!」
いつもなら嬉しいはずの彼の声がひどく耳障りだ。私がどういう思いを抱えているか気が付いていないのか。私を裏切っておいて、よくもそんな楽しそうな声が出せるもんだ。
「おお、驚きのあまり声が出ぇへんようやな! びっくりした?」
私はチェーンを掛けたまま、扉を開けた。
「おっと、なんでチェーン?」
「私が気付いていないと思ってるの?」
「え?」
扉の隙間から見える彼のポカンとした顔が恨めしい。
「本当にバレてないと思ってるの?」
「え? バレてんの!? まいったなぁ……」
彼はショックを受けたようだったが、顔は半笑いのままだった。その顔を見ると我慢の限界を超えた。今まで噛み殺してきたどうしようのない憤りが溢れて来た。
「バレてるも何も、今日見たのよ! 一体、どういうつもりなの!? どうしてあんな事したのよ!?」
「え? 何言うてんの?」
キョトンした顔で、あくまでとぼけようとする彼に怒りが爆発した。
「帰って! もう帰って! 二度と来ないで! もう会いたくない! 顔も見たくないし声だって聞きたくない! 早く消えて!」
「ちょっ! 何でや! 待て!」
私は彼の言い訳を聞かずに、扉を乱暴に叩きつけるように閉めた。
「いきなり何言うてんねん! 説明してくれ! なあ――」
「そっちが説明してよ!」
「おい、何か行き違いがあるって!」
「もうやだ! 説明する気ないんでしょ!? 私を裏切ってたくせに!」
「なんの話や!」
「とぼけないでよっ!」
「らちあかんわ! ええい、聞け! クッソ、もうええわ――結婚せぇへん!」
彼の怒鳴り声に、私を支える最後の力が抜けた。
彼の言葉がグルグルと頭の中を回った。
結婚しない結婚しない、結婚しない。
「こっちだって、願い下げよっ!」
「おい、お願いやから落ち着いて聞いてくれ――」
ドンドンと扉が叩かれ、彼の声が聞こえたけれど、私は耳をふさぎ、扉にもたれてズルズルとうずくまった。
彼はしつこく扉を叩き、色々と言っていたようだったが、私は耳から手を離さず、ぎゅっと目を閉じたまま、彼がいなくなるのを待った。
しばらくしてから、コトンと郵便受けに何かが落ちる衝撃を背中で感じた。耳から手を離すと彼が遠ざかって行く足音が聞こえた。
私は放心状態でありながらも、彼が郵便受けに何を入れたのかが気になって、そっと中身を取り出した。
メモ用紙程度の紙切れだ。何か文字が書かれた上から、線でグチャグチャに消された下の方に、殴り書きでこう記されていた。
《『君が進行形を俺』するつもりやった。落ち着いたら連絡ください》
意味が分からなかった。
進行形? 何が? 浮気が進行形って事? それだったらふざけてるにも程がある。落ち着いたら連絡してください、なんて……誰がするものか!
その場は怒りが勝ったが、時間が経てば経つほど虚しさが込み上げてきて、私は抜け殻のようになってしまった。
彼が好きだった、本当に好きだった、と気付いた。
生きる気力がなくなった。
普段ならそこまで落ち込むことはない……はずだが、彼と親友が浮気をしていたことが意外なほどショックだった。
私は破れかぶれになって、自殺スポットである孤頭岬に出かけることにした。
「……というわけなの」
私は一応の話を終えた。彼の容貌や名前については詳しく語らなかった。言わなくても大筋は伝わるし、彼の話をすると、私が彼を思い出してしまって辛い。
「今思うと、フラれたぐらいで死にたいなんて、馬鹿みたいよね」
私は快活に笑おうとしたのだが、頬が引きつっただけだった。まだまだ乗り越えるとはいかないようだ。
ミサキちゃんはひどく真剣な表情で私の話を聞いていた。軽く宙をにらみながら、指先でトントンとテーブルを叩いている。
「……凛さん、いくつか、つかぬ事を伺いますが……まず、あなたのご出身はどちらでしょう? 西日本育ちかな、と最初は思ったんですが、どうやら違うようなので」
表情は真剣ながらも、どこを見ているのか分からない虚ろな目で、ミサキちゃんはポツンと言った。どうしてそんな質問が出てくるのか、その意図はよく分からなかったが、私はとりあえず答えた。
「……東京出身の東京育ちだけれど?」
「なるほど、では、彼氏さんの出身は大阪ですか?」
「ええ、そうよ。でもどうして?」
「えーと、あれです。最初にあなたが西日本育ちだと思ったのは、私が茶葉の缶を落とした時に、あなたがこう言ったからです。『私がなおしておきましょうか?』ってね。あなたは明らかに『なおす』という言葉を、物を『直す』ではなく『片付ける』という意味で使ってましたよね? これは西日本特有の――主に関西圏の――言い回しですから、西日本出身なのかと思ったんですが、お話を聞いていく内にどうやら違うらしいと気付きまして。なら、親しい人に西日本出身の方がいて、それで言葉が移ったのかな、と思っていたんですが、ビンゴでしたね。あ、彼氏さんが大阪人だという事は話の中の口調で簡単に推測できました」
ミサキちゃんはしょぼくれていた時も、しっかりと私の言動を見ていたらしい。そんな細かい所に気付くなんて、彼女は何者なんだろう。
「ふむふむ。ここまでは間違いないと思ってました。予想通りです。して、ここからが問題ですが、彼氏さんのお名前は、コウタロウ、さんですか?」
のんびりと言われたミサキちゃんの言葉に絶句した。
彼の名前は有馬幸太郎。
一体、どうして分かったのだろう? 私は一度も言わなかったはずなのに……。
「その反応の見ると、正解だったようですね。……ふふふ」
それまで無表情だったミサキちゃんの顔が、輝かんばかりの笑みに変化する。まるで花が咲いたようだ。
「ふふふ、凛さん。幸せ者ですね」
「え? な、何が?」
彼氏と親友に裏切られた私が幸せ者?
「ミサキちゃん? 何を言ってるの?」
私は僅かに腰を浮かせて、ミサキちゃんの方へとにじり寄った。
「まあまあ、落ち着いて下さいよ。凛さん、あなたはちょっと思いこみが強いですよ。しかし、コウタロウさんの話を聞いておくべきだったと思いますね」
ミサキちゃんはニッコリと笑った。
「ふふふ。わかりませんかね。ならば、不肖このミサキちゃんが、ご説明いたしましょう」
「さて、結論から言ってしまえば、凛さん。あなたはコウタロウさんに裏切られてなどいません。彼は常にあなたの事を大事に思っておられますよ」
「ど、どういうこと? 彼は私に内緒で、親友と会ってたのよ? どう考えたって、裏切ってるじゃない」
「よく考えて下さい。男女が二人きりで会うからと言って、全てがやましい事であるはずないじゃないですか。例え、それが彼氏と親友であってもです」
のんびりと笑いながら言うミサキちゃんに軽い怒りを覚える。
「そんなこと――」
「――あります。そうですね、例えば? 彼女に喜んでもらおうと、その親友に色々と聞きたい時とか? それがプロポーズに関することなら尚更ではありませんか? 特に彼女が派手なプロポーズを望んでいる場合など?」
「……確かにそれは……」
「そうですよね。ありえますよね? 記憶に残るような素敵なプロポーズをするには、彼女に内緒で、彼女の望みを知る必要があります。それにはどうすればいいのか?」
ミサキちゃんはどうですか、とでも言うように小首を傾げた。私はしぶしぶ答える。
「……彼女の望みをよく知る人物に聞く……例えば親友に」
彼女は満足気に頷いた。
「とまぁ、色々言いましたが、ここまでは一般論であくまで推測にすぎません」
ヒョイと肩をすくめるミサキちゃんに肩すかしを食らった気分だ。
「でも、あなたの場合は違います。コウタロウさんはあなたの事を大事に思っていますよ。間違いありません。これは裏付けが効くと思います」
「どんな証拠があるの……?」
「手紙です。ポストに入っていたよく分からない手紙です」
「あの意味不明な手紙?」
「はい。文面はこうでしたよね《『君が進行形を俺』するつもりやった。落ち着いたら連絡ください》。ここで重要なのは『君が進行形を俺』です。そして、ポイントはコウタロウさんが大阪出身であること、それから愉快なジョーク好きだということです」
「どういうこと?」
ミサキちゃんが何を言おうとしているのか、さっぱり分からない。
「一つずつ行きましょうか。まず『君』というのはもちろん、凛さん、あなたの事です。これは納得していただけますよね? 次に『進行形』ですが……何か思いつくことはありませんか?」
「進行形って言ったって……何か進んでるの?」
「一昔前を思い出していただければわかると思いますよ。凛さんの一昔前――失礼――学生時代に『進行形』といえば……?」
「学生……英語?」
「そうです! 進行形と言えば英語のイング。すなわち、現在進行形イング、ingですね。つまり『君が進行形』というのは『リンイング』となります」
「リン……イング?」
「リンイング、リーイング……リング。もっと簡単に言えば、あなたはローマ字で『rin』 それにingを合体させて『ring』」
「リング……指輪?」
ミサキちゃんはニヤリと笑った。
「もちろん、英文法としては穴だらけどころか大間違いもいいとこですがね。ま、これはクイズみたいなものですし、ジョークの一環ですから」
しかし、指輪がどうしたのだろう。彼とのつき合いで出てくる指輪と言えば、もちろん婚約指輪か何かだろうとは思うものの、結局、それが正しいとしても手紙の文面は『指輪を俺』という訳の分からない言葉になる。
「続けましょう。『俺』の意味は少し飛躍しますが……ます、『俺』というのは間違いなく彼氏さん本人の事ですよね。一人称ですし、そこは確実に納得していただけると思います。そして、話は少し変わりますが、前提として、男が指輪をどうするのか? 女性に贈る――無論、用途はそれだけに限りませんが、何をするにも、その前に根本的なステップが必要になりますよね。指輪は空から降って来ないし、地面からも生えてこない。購入しなければいけません。自分で作るのなら話は少し変わりますが、それでも何らかの材料は必要になります。そうです、何をするにもまず『買う』ことが必要なわけです」
ミサキちゃんは軽やかに指を動かして、テーブルを鍵盤のように叩いた。トトントトンを軽い音がした。彼女は伴奏と共に続ける。
「コウタロウさんは生粋の大阪弁遣いなのでしょう?『買う』って言うとき、特に『買ってあげたい』時になんて言いますか?」
「え? ちょっと待って……」
彼が大阪人だがらと言って、そんなに簡単に大阪弁は出てこない。
「……買ったる?」
「そうですね。他には?」
他? えーっと……。
うんうん悩む私を見て、ミサキちゃんは助け舟を出してくれた。
「ヒントです。私はこの答えで、彼氏さんの名前を推測しました」
「……名前って、幸太郎の? ……あっ! 買おたろう?」
ミサキちゃんの笑顔が大きくなった。
「コウタロウさんは『俺』に自分の名前を上乗せしたんです。その上で読んでしまえば、意味が通るような言葉として、ね。『君が進行形を俺、するつもりやった』――『指輪を買おたるつもりやった』。標準語にするなら『指輪を買ってあげるつもりだった』ってなところですかね」
「……どうしてもっとはっきり書いてくれなかったの?」
「それは……完全に推測になりますが、あなたの混乱ぶりが大変なレベルだったからではないでしょうか。あなたが自分の事を全く信じていない状況で、結婚したいなんて言っても、ますます疑心暗鬼になるだけだと判断したんじゃないかと思います。手紙の意味が分かるぐらいに落ち着くまで、あなたからの連絡を待つつもりだったのでしょう」
「……ちょっと待って! やっぱりそれはおかしいわ。彼は私と結婚するつもりなんてないのよ! だって、彼は別れ際に『クッソ、もうええ』とか、特にこの一言は決定的だけど『結婚せぇへん』――結婚しないって言ったのよ?」
ミサキちゃんはキョトンした顔で言った。
「それは勘違いですよ。『クッソ、もうええ』についてはあなたが話を聞いてくれなかったからで、こう言いたかったんだと思いますよ。『くそ~折角ポロポーズ案を練ってきたのに、話を聞いてくれないなら、もういい』ってね。それから『結婚せぇへん』っていうのは『結婚しないか』っていう問いかけなんですよ。決して『結婚しない』なんて否定の言葉じゃありません」
「え? だって……『せぇへん』は否定語でしょ? 現に彼はよく『絶対にせぇへん』ってよく言ってたのよ? それは明らかに否定のニュアンスだったわ」
「まあ、『せぇへん』には発音の違いで二種類の意味がありますからね。ざっと言うと『せぇへん!』と強い言い切りは否定。『せぇへん?』と語尾が上がるのが疑問になります」
あっけらかんと語るミサキちゃんに、目の前が暗くなりそうだった。
「そんなの分かんないわよ……無理よ……」
「それは仕方ありませんねぇ。どれだけ長く付き合っていても、方言なんて使い慣れなければ外国語と変わりませんし。文法が同じだけで、単語は下手な外国語より難しいですから」
彼女はツイと肩をすくめる。そして結論をまとめ始めた。
「まとめます。コウタロウさんは理想のプロポーズを聞き出すために、あなたに内緒で親友さんと会っていました。そして、その日、あなたの前に現れたのはその場でプロポーズするつもりだったと思われます。しかし、不測の事態で勘違いをしてしまった凛さんが話を聞いてくれませんでした。それから『くっそ――結婚せぇへん』のくだりです。コウタロウさんは凝ったプロポーズをするつもりだったはず。なのに、あなたが話を聞いてくれそうにないので、ストレートに伝えようとしたんです。つまり『くそ~話を聞いてくれないなら、凝ったプロポーズはもういい。ストレートに言おう』という気持ちだったんだと思います。それでも、すれ違ってしまったので、コウタロウさんは一旦時間をおくことにしました。気持ちだけ伝えるために手紙を残して、ね。手紙の内容は先ほど言った通りです」
一息に語り終えたミサキちゃんはピューと口笛を鳴らした。
「凛さん、納得していただけましたか? コウタロウさんはあなたの事を裏切ってなんていないんです。あなたの事を大切に、それは大切に想っていらっしゃいますよ。どんなに罵られても、気持ちを伝えられずにはいられない程に、です。その方法が少々奇抜だったとしても、それは愛の成せる技ですよ」
ミサキちゃんは穏やかにそう言って、優しくほほ笑んだ。彼女の声と笑顔が暖かかった。
「……大阪弁なんて分かんないわよ……それに手紙だって意味不明だし、あんな暗号なんてどれだけ落ち着いてても、分かるわけないじゃない……それにジョークだって言ったって全然面白くない……スベッてんねん……」
幸太郎と付き合っていく内に移ってしまった大阪弁で言ってみた。彼の大阪弁とは発音が違っておかしな大阪弁になってしまう。彼はこのイントネーションのおかしな大阪弁を嫌がる。でも、精々今は言ってやれ。彼もいないし、あの手紙は私にとって十分嫌がらせだ。
私だって嫌がらせしてもいいでしょう?
「あらあら、凛さん、何を泣いてるんですか」
私の目から知らない内に涙があふれていた。ミサキちゃんはティッシュで優しく涙をぬぐってくれた。
「ありがとう、ミサキちゃん……ありがとう……」
嗚咽で最後の方が言葉にならない。でも、ミサキちゃんは全部分かってますよ、という風に穏やかにほほ笑んでいた。
「さて、凛さんのお悩みが解決した所で、やる事は決まりましたね」
パンッと手を打って立ち上がるミサキちゃん。私も涙をぬぐって座り直した。
「そうね。さあ、ミサキちゃん。楽しくお喋りしましょう!」
「はい? 何を言ってるんですか、凛さん。こんな所で私と喋ってるヒマがあなたにありますか?」
『やんきーす』帽をキュッとかぶり、くるりとこちらを振り向くミサキちゃん。
「え?」
「今すぐ帰って、コウタロウさんと仲直りして下さい! それから指輪を買いに行きなさい!」
ミサキちゃんは私を無理矢理立たせると、グイグイ出口に引っ張っていく。
「ちょっと、ミサキちゃん」
「ああ、いいんですよ。私とのお喋りなんていつでも出来ます。今、凛さんのやる事はコウタロウさんと会うことですから! これは世界が認めていることですよ?」
確かに、今すぐにでも幸太郎の元へ飛んで帰って、ミサキちゃんの話が本当かどうか確かめたいし、ひどい事を言った事と勘違いした事を謝りたい。でも、誤解を解いてくれたミサキちゃんに何もお礼をせずに帰るなんて、そんな事できない。
「凛さん。無理しないで下さい。ホントは今すぐ飛んで帰りたいんでしょう?」
彼女は朗らかにそう言って、灯台の重い鉄扉を押し開けた。眩しい太陽が差しこんできて、明るい光が私の目を焼いた。
「明るいでしょう。灯台って実際、中は結構暗いんです。灯りが外に漏れないように窓が最小限しかありませんから。灯台もと暗しならぬ、灯台中暗し、ですね」
ミサキちゃんはふへへと笑って、私の背中をポンと押してくれた。私は背中を押された勢いで一歩を踏み出した。明るい日差しの中に出てきたが、やっぱり不安になる。私は灯台の入口に佇むミサキちゃんを振り返った。
「ミサキちゃん……大丈夫かしら?」
彼女は私の不安を吹き飛ばすように、にっこりと笑った。
「安心して下さい。大丈夫です」
「本当に? さっきの話は、私たちの勘違いじゃないかしら? 彼は私に愛想を尽かしたんじゃないかしら」
「大丈夫ですよ。何も心配いりません。あなたが取り乱したのは、それだけコウタロウさんへの愛情が深かったからです。その時は真実を見抜けなかったのは、恋が盲目だからです。恥ずかしい事じゃありません。あなたは最後の最後で真実を見抜きました。手遅れではありません」
ミサキちゃんは真剣な表情で言い切り、それから悪戯っぽく笑った。
「仮に、万歩譲って、億が一、先程の推理が勘違いだったとしましょう。そうなったら、またここにきて下さい。孤頭岬は誰もいませんから、思う存分泣き叫べます。存分に悲嘆にくれて下さい。それに、ここなら自殺したくなっても、私が止めて上げますから、命を落とす心配もありません。喉が枯れるまで泣き叫んだら、おいしい紅茶をごちそうします。そしたら次の恋に進んで行けますよ。ああ、あと、何を間違った推理を語ってるんだ! と私を殴ってくださっても結構ですよ」
灯台の入口に佇む灯台守は優しい笑顔で続ける。
「……でもやっぱり心配はいらないと思いますね。凛さんとコウタロウさんの愛情を信じて下さい。そんなの誰が信じられるって、あなた達二人だけじゃないですか。自信を持ってコウタロウさんにアタックしてやればいいんです。なんだったら、あんな分かりづらいメッセージを残すなって、ぶん殴ってやればいいんです」
彼女の大仰な物言いに私は思わず吹き出してしまった。
「ははは。……そうね。彼と私の愛を信じるわ」
「うわー……くさいセリフだぁ! 真顔で言うなんて信じられません。って、さっき私も言いましたけど、ふへへ」
私達は二人で顔を見合せて笑った。
「それじゃ、ミサキちゃん。私、行くわね」
「はい。お元気で、凛さん」
私は前を向いて歩き出した。振り返らすに格好よく立ち去ろうかと思ったのだが、やっぱり気になって振り向いてしまった。顔が見えないぐらいの距離にミサキちゃんがいる。最後に彼女に聞いておきたいことがある。
「ミサキちゃん!」
「何でしょう!」
「あなた、大阪弁に詳しいみたいだったけど、大阪出身なの!」
「いいえ! ただ語学が好きなだけです!」
方言に詳しいのは、語学だと言えるのだろうか。それはともかく、肝心なのはこっちだ。
「また来てもいいかしら!」
「ええ、もちろんです! いつでもお待ちしています! 今度こそ、おいしいコーヒーもしくは紅茶をごちそうしますよ!」
顔は見えないけれど、きっと彼女は笑っているのだろう。
私は大きく手を振って歩き出した。
空は青く、海も青い。紺碧の中に建つ真白い灯台は、神々しく輝いて見えた。ブルーだった私の感情は、透き通った鮮やかな青に変わっている。落ち込んでいるヒマなんてなかった。
今すぐに、彼に会いたい。
「しかし、ホンマどうかしてんで。なんで俺が浮気なんかせぇなアカンねん。びっくりやわ。そこまで信用なかったんかと思うと、へこむわ」
「しつこい! 謝ったでしょ! 何回も言わないで! 私だってへこんでるの! 何であんな勘違いしたのかしら……」
「一世一代の決心してサプライズ・プロポーズしよう思たのに、まさか、玄関先で暴言吐かれるとは思いもせぇへんかったもんなぁ。言っとくけど、もう一回ちゃんとプロポーズしてとか、無理やで。もう恥ずかしくて絶対でけへんもん」
「うるさいってば!」
私は今、幸太郎と二人で海を向いて歩いている。目標は白い灯台だ。
「で、なんやっけ? ミサキちゃんやっけ? ホンマに灯台守なんか居んの?」
「いるわよ! 絶対ミサキちゃんはいるの!」
「まぁ、凛の自殺止めてくれた人やろ。それはどんだけ感謝しても、し足りんなぁ。つーか、自殺って……自殺するつもりやったって聞いた時、心臓止まるかと思ったで」
「だから、謝ったでしょ! 勘違いだったの!」
ミサキちゃんと話終えてから、すぐさま大阪に飛んだ。仕事帰りの彼を捕まえて、人目もはばからず大声で話した。幸太郎はおっかなびっくりだったが、ちゃんと話を聞いてくれて、やはり彼が浮気などしていなかったことがわかり、私は道の真ん中で大泣きした。帰宅時間にかぶっていたため通行人は多かったが、そんなことは全く気にならなかった。道行く人に変な目で見られ、幸太郎の方はすごく恥ずかしそうだったが、彼は黙ったまま、ずっと私のそばにいてくれた。それがただただ、嬉しかった。
次のデートの日、私は強引に孤頭岬へと進路を取らせた。ミサキちゃんにちゃんとお礼を言わなければならないし、幸太郎にもミサキちゃんを紹介したかった。
彼女のおかげで、私は真実を見抜くことができたのだから。
空は快晴で孤頭岬はあの時と同じように、美しい景色が広がっていた。青をバックにそびえ立つ白い塔。気分の問題なのだろうが、私の目に映る景色は生き生きと輝いて見える。
「こんな辺鄙な場所に住んでる子がおるとはなぁ……不便でしゃーないやろうに」
幸太郎は手で日差しを遮りながら辺りを見回した。
「確かにそれは気になる。今日訊いてみようかしら……この間も聞こうと思ったんだけど、何かうやむやになっちゃったしね」
そんな事を言いつつ歩いて行くと、当たり前だがどんどん灯台が近づいてくる。あの日から二週間ほど経つが、ミサキちゃんは間違いなく元気だろう。彼女が病に伏せるところなど想像できない。きっと笑顔で出迎えてくれるはずだ。おいしいコーヒー豆も持って来たから喜んでくれるといいのだが。
灯台の鉄扉の前に人影が見えた。
しかし……あれは……。
「凛、あれがミサキちゃんか? 女の子やって言うてへんかった?」
幸太郎の疑問ももっともだ。鉄扉の前にいたのは中年のおじさんだった。その男性はごつい錠前がついた鎖をガチャガチャと鳴らしながら、扉を封じている。
誰だろう? ミサキちゃんのお父さんだろうか。でも、彼女は一人暮らしだと言っていたし……。
「あの、すいません」
迷っていてもラチが開かないので思い切って、おじさんの背に声をかけた。おじさんはびくりと背を震わせてこちらを向いた。声をかけられるとは思っていなかったのだろう、びっくりした顔をしている。
「何か? 迷われました? 帰り道はあっちですが。ここはこの灯台しかありませんよ。誰もいないですし……景色はそれなりですが」
男性は私たちがたった今辿って来た道を指差す。そんな事より、この人は今なんて言ったの? ここに誰もいない?
「あの、誰もいない? それってどういうことですか? ここには灯台守がいるはずですなんですけど……」
おじさんは一瞬だけポカンとした表情を見せた後、微かに唇を歪めた。
「ああ。あなたもですか……」
「え?」
「時々いるんですよ。ここに女の子の灯台守がいるはずだと言う人がね。そんなわけないじゃないですか」
おじさんはうんざりしたように首を振った。ちょっと待って。この人は一体何を言ってるの?
「私は海上保安庁の者ですがね。この孤崎灯台は私の知る限り、十五年前から無人の自動灯台ですよ。灯台守なんていやしません。ましてや女の子の灯台守なんて……。第一、今の日本に灯台守のいる灯台なんてありませんよ」
「そんな馬鹿な!」
「でも不思議な事に、ここに灯台守がいると言い張る人が後を絶たないんですよねえ……私は点検でたまにここに来るんですが、その時、出会う人の多くが、強情に女の子がいるはずだと言うんです」
「でも……ミサキちゃんは確かにいたんです」
「そうですね。灯台守がいるとおっしゃる人はみな、そう言います。ミサキちゃんなる灯台守がいるはずだと。……当初、流石に私も気になって、とことんまで調べてみました。色々と記録を漁り、一番古い灯台守の記録までさかのぼりましたが、男女問わず『ミサキ』という灯台守の記録はなし。ミサキに類する名前も探しましたが、特にヒットする名前はなし。強いて言うなら五十五年前の灯台守の家族にミサキという少女がいた事が確認できただけです。この子はもちろん灯台守ではありませんし、ここに住んでいた記録もありません。そして、これが一番重要ですが、今現在、灯台内部に人がいた痕跡はゼロ」
「そんな……私は中で水を飲んだんですよ?」
「それがまたありえないんですよね。キッチンがあったとおっしゃるんでしょう? 昔ならいざ知らず、今の内部にそんな設備はないんです」
絶句するほかなかった。私はもちろんのこと、幸太郎もポカンとした表情を見せている。
どういうことなの? 何もないの? ミサキちゃんがいない? 彼女の正体はミサキという子の幽霊だとでも? 私が経験した出来事は何だったっていうの? 私が飲んだ水は? 私がミサキちゃんと交わした会話は? 幻? 白昼夢? 全部まやかしだったっていうの?
「はっきり言っておきましょうか。ここに灯台守などはいません。灯台を管理しているのは海上保安庁で灯台守の記録はごくごく古い物があるだけです。そして、ここ十五年は皆無です。内部に人の生活に必要な設備はないし、また人がいた痕跡もありません」
おじさんの説明は淀みがなかった。今まで何度も同じ説明をしているのだろう。
「何があったかは知りませんがね、夢でも見たんですよ。それか亡霊ですね。……それでは、失礼します」
おじさんはそう言うと灯台から離れ、呆然とする私をよそに歩き去って行った。
海から吹きつける風が空しい。美しかった景色が突然、色褪せて見えた。一体何がどうなっているのか……。眼前に立つ灯台がひどい圧迫感を持って迫って来る錯覚に捕らわれる。扉を封じている太い鎖が、ここに人がいないという事を無言でアピールしているようだ。
「凛……」
「そんなはずない! ミサキちゃんはちゃんといたの! 幻なんかじゃない! 彼女は幽霊なんかじゃない……そのはずなのよ」
「俺は信じんで」
「幸太郎……」
「あんだけ、取り乱してた凛が一人で落ち着けるとは思わんし……おらんかった人間の嘘をつく必要もないやろ」
「そうだけど……現にミサキちゃんはいないのよ?」
「それは……」
どうしようもない現実を前に、黙り込んでしまう幸太郎。私だって何も言えなかった。私は確かにあった事だと信じてる。でも、目の前に現実が立ちはだかる。
「おや、どうかしましたか?」
突如として私たちの背後から、楽しそうで柔らかな声が聞こえた。慌てて振り向くとそこには、紙で出来た茶色い買い物袋を抱えたミサキちゃんがいた。
ダボダボのTシャツに、穴の開いたジーンズとよれよれのスニーカー。Tシャツは明るい水色で、野球帽には『たいがーす』と書かれている。
「こんな何もない所をわざわざ訪ねてくる人がいるとは……って、凛さんじゃありませんか。おーやおや、その様子ですと仲直り出来たようですねえ」
「ミサキちゃん……!」
「え? 凛さん、どうかしましたか? えらく驚いた顔ですよ……はっ! もしかしてその方はコウタロウさんではない!? 新しい彼氏さんでしたか!? 私、余計なこと言いました?」
買い物袋を抱えたまま、大げさにのけ反るミサキちゃん。あまり関係ないが、ミサキちゃんと茶色い買い物袋は似合っていた。今どき紙の袋があるのか、とも思うが、ミサキちゃんがそれを持つと、しつらえたようにぴったりだった。袋からフランスパンが飛び出ていないのがおかしいぐらいだ。って、そんなことはどうでもいい。
「ミサキちゃん! あなたはちゃんといるのね!?」
「はい? 何をおっしゃっているんです? ……ああ、知らない人にある事ない事吹き込まれました? たまにいるんですよね、私が存在しないとか言う人が。ひどい人がいるもんですよ」
「え? あの人が嘘をついてたの? ミサキちゃんがいないって?」
当たり前じゃないですか、と彼女は笑う。
「だって、私はここにいるでしょう? 何ならほっぺたでも引っ張ってみますか? 足だってあります。幽霊じゃないですよ、触ってみますか?」
片足をあげてブラブラと振るミサキちゃん。
「おっと、紹介がまだでしたね。初めまして、コウタロウさん。私はミサキちゃんです」
「あ、どうも。その節は凛がお世話に……」
「いえいえ」
笑い合いながら頭を下げ合う幸太郎とミサキちゃん。
「待って、二人とも!」
「なんや、凛。ミサキちゃん居ったやんけ、それでええがな」
「それはそうだけど……ちょっとおかしいでしょ!」
「ふーむ。では、凛さん、気になる事があるのなら、なんなりと」
ミサキちゃんは芝居がかった仕草でお辞儀する。私は何が何だか分からなくなり、慌てて質問を始めた。
「まず、今、日本に灯台守はいないって話。あと、海上保安庁の人が言ってたけど、どこをどう探してもあなたの記録がなかったそうよ。灯台内部に人が生活できる設備もないって言ってたわ。扉には錠が掛かってるし……」
私は何を言っているのだろう。幸太郎も言っていたが、ミサキちゃんが居たのだから、それでいいではないか。どうしてミサキちゃんを質問攻めにしているのだろう。しかし、彼女は気を悪くした様子もなく、にこにこと笑っている。
「おほん。では一つずつ説明していきましょうか。第一、日本に灯台守がいないという話。これは正しいです。今現在、日本に公式には灯台守はいません。しかし、意外と非公式にはいるんです。灯台が自動化しているとはいえ、条件によっては人が手を加えなければならない場合があります。気候状況、海底の地形、灯台が建っている場所などの条件がありますが、孤崎灯台はいくつかの条件に当てはまります。どんな条件に当てはまるのかは言えませんが、とにかく、ここには非公式な灯台守がいます。それが私です。第二と第三は一度に説明します。凛さんは海上保安庁の方が説明をしていたと言いましたが、その人は本当に海上保安庁の方でしたか? 何か身分を証明できる物で確認しましたか?」
「それは……してないわ……」
「そうですか。では、その人物の言っていたことが、本当かどうか不明だということですよね? 凛さんをからかうために悪辣な嘘をついたのかもしれません。そして、灯台内部の設備についても同じ事が言えます」
「……私は中を確認していない。あの人が嘘をついても分からなかった……」
ミサキちゃんは頷く。
「そうです。最後に扉の錠ですが、これは説明する程の事じゃないんですよね。私はこの通り買い物に行っていました」
彼女は買い物袋を持ち上げて見せる。
「どういうこと?」
「凛さん、あなたが買い物に行く時、家に鍵を掛けますよね?」
「そりゃ、もちろん……あ」
「ええ、そうです。この灯台は私の家なんですから、出掛ける時は戸閉まりぐらいしますよ。だた、やっぱり普通の家ではありませんから、ちょっぴり鍵が変になっちゃうだけです。ね? おかしい事はなにもないでしょう?」
ミサキちゃんの話を聞いていると、確かにおかしなところはない。しかし、何か、こう……不安が残ると言うか、なんというか……。
でも、それでもいいかな、と思った。
どちらの言い分が正しいのであれ、今、この瞬間ミサキちゃんはここにいる。それは間違いがない、確かな事実だ。
「さーて、スッキリしたところで、コーヒーでもいかがですか? ご心配なく、豆は買ってありますから」
「あ、そうなんや……ですか。僕達もね、お土産持って来たんですよ」
初対面のミサキちゃんに対し、腰が低い幸太郎。おそらく彼はまだ緊張している。
「これはこれは、ありがとうございます。それじゃ、こちらへどーぞ」
ミサキちゃんは腰から鍵を取り出して、器用に扉を開けた。
「コウタロウさんも、凛さんも遠慮はいりませんよ」
「やってさ、凛。お邪魔しよか」
幸太郎もきっと不思議に思っているはずだけど、何も気にしないでおこうと決めたのだろうか? 私と同じように?
「ええ、来て下さい! お二人の婚約パーティーをしましょう! 隠しても無駄ですよ。私の目はごまかせません。凛さんは真新しい指輪をしてますからね!」
こちらに笑顔を向けるミサキちゃんは輝かしいが、どこか謎めいて見えた。美しく神々しく華やかで煌びやか、まるでこの世のモノではないかのように。
「ミサキちゃん、あなたは……何者なの?」
もういい、気にしないと思ったはずなのに、思わずそう問いかけずにはいられなかった。
「私ですか? それはもちろん、孤頭岬の孤崎灯台、灯台守……そして、私は、何よりも」
彼女はそこで、ニカッと笑った。見ているこちらの心が温かくなるような、素敵な笑顔だった。その笑顔のまま、灯台守だという不思議で謎だらけな女の子は言った。
「ミサキちゃん、ですよ」